Fate / other night

 

 

              2 / Vow

 

 

観音開きのドアを開け、士郎は講堂を後にした。

傍らには凛の姿。二人は言葉も交わさずにドアを離れ、講堂の外で待機していた各々のサーヴァントの元に向かう。

「難しい顔をしているわね、マスター」

「セイバー」

 講堂のドアから正門に続く真っ直ぐな道。その中ほどで、セイバーは夜空を仰ぎながら佇んでいた。その隣には、不快そうな顔で立ち尽くす赤い弓兵の姿がある。

肩越しにこちらを振り返ったセイバーはそんなことを言いながら、軽く微笑んだ。

「それで、一応聞いておくけれど。聖杯戦争、あなたはどうするの? マスター」

「――――戦う。本当に聖杯なんていうモノがあるって言うなら、俺はそれを放っておくことなんて出来ない」

 その返事は納得のいくものだったのか、セイバーはうんうん、と頷く。

「それでこそ私のマスター。そうこなくっちゃ」

「……けどセイバー、先に言っておくぞ」

 

 そこで士郎は一度言葉を切り。

 まっすぐにセイバーを見つめ、己の方針を言い切った。

 

「俺は自分から戦いを仕掛けるつもりなんてない。もちろん身に降りかかる火の粉は払うし、向かってきた相手には容赦しない。けど、絶対に俺からは仕掛けない。関係ない人間を巻き込むような真似もしない。これが、俺が聖杯戦争に参加する上でのルールだ。それに、納得してくれ」

 

 それは――――その提言は、ある意味、挑戦だった。

 手にした者の願いを叶える聖杯というモノ。それを求めるのはマスターだけではない。マスターに使役されるサーヴァントとて、それを欲する。欲するが故にマスターに使役されるのだ。

 だから、士郎のそれは。

 聖杯など必要としないと暗にほのめかす士郎の言葉は、セイバーの願いを無視するということと同義だ。

 セイバーは目を細めた。衛宮邸でランサーに向けた鋭い視線。殺気こそ篭っていないものの、人を縫い付けるには十分すぎるほどに鋭利に目を細め、セイバーはこちらを睨む。

 

 しかし。

 

「――――納得してくれ。これが最低条件だ」

 その視線を。刃の切っ先の如き視線を真正面から受け止めながら、士郎は繰り返した。

 こればかりは、譲れない。

 どれほど貶され、どれほど罵られ、どれほど脅されたところで――――この方針だけは、変えるわけにはいかない。

 

 何故って。

 

(“喜べ、少年”)

 脳裏に重厚な声が頭の中で再生(リピート)される。

 言峰綺礼。丘の上の教会を取り仕切る、魔術師にして神に仕える背信者。

(“君の願いは、ようやく叶う”)

 神父は言った。正義を望むことは、誰かを救うことを望むことは、誰かを犯す何かの存在を望むことに他ならないと。

 最上の願いは、最低の望みと同義であると。

 

 ――――それは。

 笑いたくなるぐらいに、本末転倒な真実。

 目を逸らしたくても逸らせない、因果の理という奴だ。

 

 だから。

 

「俺は自分からは動かない。自分の正義を押し付ける気もないし、誰かに悪を押し付けるつもりもない」

 

 誰かを悪と断ずるのは簡単だ。自分を正義と信じるのは更に簡単だ。

 しかし、例えば。

 とあるコミュニティで、凶悪な伝染病が発生したとしよう。

 ワクチンは有るが、その到着には時間がかかる。そしてワクチンが到着する頃には、その伝染病は発生源のコミュニティを完全に汚染し、その周囲の人間すら巻き込んでいると計算されたとする。

 このとき。

 例えば、このとき――――発生源であるコミュニティを丸ごと焼却し、その病原菌を殲滅するという手段は、果たして許されるのだろうか。

 確かに、世界にとってみればその選択は正解だろう。なにせ一番被害が少ないのだ。50を救うのと100を救うのと、どちらが正しいのかといえば、もちろん後者に決まっている。

 その行いは、確かに“正義”だ。

 だが、同時に。

(もし俺が、藤ねえが、桜が、そのコミュニティに居たとしたら)

 その行いは許せない。

 50を切り捨て、100を救うなどという行為は、絶対に正義とは言えない。衛宮士郎は衛宮士郎の全てを持って行為を否定し、それを悪と罵るだろう。

 どちらが正しいのか? どちらが正義で、どちらが悪なのか?

 そんなものは決まっている。両方が両方だ。

 正義というものは。悪というものは。

 それを観測する者の立場によって、面白いようにころころと顔を変える。

 だから。

 そんな不安定なものを声高に掲げることが、おそらくは一番の“悪”なのだろう。

 

「だからセイバー。俺はここで言っておく。俺からは決して仕掛けない。誰かが襲って来たら全力で返り討ちにする。関係ない人が巻き込まれそうになれば、何にも代えてそれを防ぐ」

 

 この聖杯戦争が避けられないもので。

 マスターという権利が、容易に譲渡できないものだというのなら。

 

「俺は枷になる。もし誰かが、もしマスターの誰かが関係ない人間の被害を省みずに行動したら、それがどれだけ割に合わないか、それがどれだけ不釣合いな行為なのか、それを教えてやる。俺は、被害を最小限に押さえ込むための枷となる」

 

「……マスター、貴方、自分の実力を知っているの? 半人前の貴方が、魔術だってろくに使えない貴方が、そんな大それたことが出来るとでも本気で思っているの?」

 セイバーの声は冷たい。明確な非難の意思が、そこにある。

 だが士郎は、それでも敢えて頷いた。

「出来るかどうかなんて知らない。けど、やる。やらなくちゃいけない」

 

(“喜べ少年。君の願いは――――”)

 

 正義の味方になるという願い。

 悪の存在を認めるという思い。

 けれど。

 それが、何だというのか。

(俺が間違っているのなら、それを正してみせる)

 何故ならば、この身は正義の味方を目指すから。

 自分が間違ったままだとしたら、決して正義の味方にはなれない筈だから。

 士郎は顔を上げ、改めてセイバーを見た。

 黒いコートに身を包み、それよりなお暗い髪を風に靡かせるサーヴァント。

 鋭い視線を。軍刀(セイバー)のクラスを冠するには十分すぎるほどに鋭い視線を、真正面から受け止める。

「それで。どうするんだ、セイバー」

 問いかける。ぐっと握った拳が汗をかくのが分かる。

 向かい合った視線はいまこの瞬間にもこの身を切り裂きそうで、ただ見つめあうだけで体力を使う。

 けれど、目を逸らすわけにはいかない。この問いの答えを、この制約の答えを聞かないわけには行かない。

 

 どれだけ時間が経っただろう。

 

 セイバーは不意に視線を緩めると、静かにその場に片膝を着いた。

「せ、セイバー?」

「感服しました。出来るかどうかなんて関係ない、ただやらなければならないから、やる。そう、それこそが魔術師の本分」

 謡うように呟いて、セイバーは顔を上げた。

 その顔が刻んでいるのは、苦笑にも似た、ひどく柔らかい笑み。

「いいでしょう、マスター。私は貴方の制約を守り、貴方を守る剣となる」

「あ、ああ。ありがとう。よろしくな、セイバー。でもそんな姿勢はやめてくれ。正直どうしたらいいか分からない」

「……初心ね、マスター」

 先ほどまでの微笑みは何処へやら。

 こちらを心の底から笑いながら、それでもセイバーは身を起こした。

「じゃあ、よろしく頼む。セイバー」

「ええ。よろしく頼むわね、マスター」

 差し出した手は、同じように差し出された手に握り返された。

 数度振って、握手を解く。

 士郎はセイバーの返事に対する安堵と、向かい合っていた緊張を解いた脱力のため息をついて、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「話は終わったかしら? 衛宮くん」

 

 

 失念していた、もう一人のマスターの声で我に返った。

「……遠坂」

「何よ。安心して、まだ襲ったりはしないから。ここまで連れて来てあげたんだもの、今夜一杯は見逃してあげる」

 凛は声に篭る敵意を隠そうともしない。いや、それを敵意と呼ぶのは間違いか。

 凛が含み、存分に滲ませているのは敵意ではなくただの怒りだ。それも後ろ向きな怒りではなく、怒髪天を突きそうなほどに真っ直ぐな、感情に拠るところが大きい本当の怒り。

 まあ、それもそうだろう。いま自分がセイバーに望んだことは、つい先ほど、本当に十分前かそこらに神父に否定されたことに他ならないのだから。否定され、諭され、導かれ――――それでもなおその道を行こうというのだ。諭されるその場に居た凛が怒りを覚えるのも当然かもしれない。

「まったく。何よ、その方針。私が何のために貴方をここに連れてきたか、まるで分かってないってことじゃない」

「ん?」

 はてな、と士郎は首を傾げる。

 そんな士郎を見て、凛は不機嫌きわまる声を上げた。

「だから、衛宮くん。私はそんなことを言わせるためにここに連れてきたんじゃなくて、」

「マスターとしての心構えをさせるために連れてきてくれたんだろ?」

 

 何を今更、と士郎は凛の言葉を遮った。

 

「言峰も言ってたよな。これからは殺し殺されるのが日常だ、って。そんなこと言われなくても分かってるよ。あれだけの目にあって、それを実感しないほうがどうかしてる」

 それに、もとより。

 死ぬということは、魔術師である者にとっては日常的に起こりうる話の筈だ。魔術制御に失敗すればそれで終わり。どれだけ慣れた肯定、どれほど馴染んだ動作であっても、僅かな雑念が、僅かな手違いが全てを破壊する。そしてその終幕は、己の死だ。

 衛宮士郎(じぶん)にとって、その程度の綱渡りは毎夜のこと。

だから、死という観念は魔術師にとって日常的な話の筈で――――

 

「……ああ、違うか。悪い遠坂、俺勘違いしてたみたいだ」

 

 口にして初めて、士郎は己の思い違いに気付いた。

「死ぬってのと殺されるってのじゃ全然違うな。うん、そっか。自分の手違いじゃなくて相手の明確な意思によって――――そして俺の明確な意思によって、相手を殺す。それがこの馬鹿げた戦争って訳だ」

 忌々そうに士郎は顔をしかめる。

 死ぬということと殺すということ。能動と受動。行使することとされること。

 その二つが、どうして同じだというのか。

 死ぬということは自分を犯すということで、殺すということは相手を侵すということ。

 それを同列に考えていただなんて、我ながら頭が痛くなる。

(確かに遠坂が怒るのも当然、か)

 士郎は苦笑交じりにそのことを認め、恐る恐る凛の顔を見て、

「……なんで驚いてるんだよ、遠坂」

 呆けたような顔の凛に、思わず呟いていた。

 その一言で我に返ったか、凛は慌てて視線を逸らす。

「べ、別にどうでもいいでしょ。ただ、その、考えてないようでちゃんと考えてるんだなー、って思っただけよ」

「うわ、さりげなく失礼なこと言ったなおまえ。考えてないって、俺だって魔術師だぞ。……いや、半人前だけど。考えることぐらい、ある」

「う……悪かったわね。見くびってたわよ。ごめんなさい。これで満足かしら?」

 完全に明後日の方向を見ながら謝罪する凛。

 士郎はむ、と難しい顔をして、

「遠坂、いらないお世話だとは思うけど、」

「過小評価はやめたほうがいいわよ」

 言おうとした注意を、まさにそのままセイバーが告げる。

 凛は顔を真っ赤にしてセイバーを睨むが、セイバーはそんな視線を何処吹く風とばかりに無視。それどころかやれやれ、と肩を落とすアーチャーに労いの言葉をかけたりする。

「そっちのマスターも大変そうね、アーチャー」

「……凛の実力は確かだ。どこかの半端マスターより随分とマシさ」

「当たり前よ。私がこんな半人前に劣る筈が無いでしょ」

 凛は腕を組みこちらを睨むが、どうやらその様子ではアーチャーの言葉の裏に気付いていない模様。

「遠坂」

「何?」

「……いや、いい」

 じろり、と思いっきり睨まれては言うに言えない。

(アーチャー、セイバーの言葉を否定してはないんだけどな)

 胸中で赤い弓兵に同情しながら、士郎は背後の講堂を振り返った。

 白亜の建造物。孤児院として、かつて自分が来ることになっていたかも知れない場所。

「衛宮くん? どうしたの?」

「いや、なんでもない」

 胸に浮かんだ思いを感傷と割り切り、士郎は再び凛を見た。

 機嫌は直ったのか、凛はいつもの調子で教会の門を指差す。

「そ。ならそろそろ行きましょう。ここに居ても仕方ないから」

「ああ、わかった」

 士郎は頷き、凛と並んで歩き出した。

「じゃあマスター、私は半霊化してるわね」

 言うが早いか、セイバーは衛宮邸からここに来る道中そうしていたように、空気に溶けるようにして姿を消す。

「アーチャー、貴方も半霊化しておきなさい。さっき言ったでしょう? 今夜はとりあえず休戦だって」

「……」

 凛の指示に従って、不服そうではあるが、アーチャーも姿を消した。

「じゃあ、行きましょうか衛宮くん」

「ああ」

 そうして、二人は夜の教会を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 教会の丘から新都に続く坂道を下る。

 会話は無い。話したいことがないといえば嘘だが、話すべきことがあるというのも嘘だ。

(それに)

 すぐ隣。

 一歩ほどの距離をとって歩く凛を横目で見やり、士郎は胸中で呟いた。

(明日から敵同士だってのに、感情移入させるのも悪いだろうしな)

 遠坂凛。学園のアイドルにして高嶺の花。

 話したことなど無いし、ただ遠くからぼんやりと眺めるだけだったけれど――――それでも、凛が魔術師としては致命的な程に人間であることは、既に十分感じていた。

(フェアじゃないってだけで俺に聖杯戦争の何たるかを教えて、挙句監督役の所に連れてってくれるなんて、ホントに何考えてるんだか)

 まあ、なんにしても。

(有り難いよな、こういう魔術師は)

 学校での振る舞いが思いっきり猫かぶりであるのは今更否定も出来ないだろうが、それも瑣末ごと。

 今夜はこの少女の在り方に感謝して、別れるとしよう。

 なんだかな、と士郎が苦笑したとき、ぴたりと凛は足を止めた。それにつられ、士郎も足を止める。

 

「衛宮くん。ここで別れましょう」

 

 肩越しに振り返ると、凛はおもむろにそんな事を言った。

「遠坂?」

「もう用事は済んだしね。私はこれから新都の方を見て廻るから」

 場所は十字路。それぞれ新都と深山に続く道が伸びている場所。

 士郎は凛の目を見て、そうだな、と頷いた。

「わざわざサンキュな、遠坂」

「お礼を言われる筋合いなんてないわ。明日になったら私と貴方は敵同士。分かってるわね?」

「ああ、分かってるよ。でも、それならまだ敵じゃないんだろ。だから言っとく。いろいろと教えてくれて、ありがとう、遠坂」

「――――ッ! べ、別にいいって言ってるでしょ! まったく、なんでそんなに無防備なのよ貴方……!」

 憎々しげにそう言って、凛は肩を怒らせたままくるりと身体の向きを変える。

 

 しかし、その瞬間。

 

「――――」

 ぴたりと、まるでその瞬間にカメラのシャッターを切られたかのように、凛は動きを止めた。

「遠坂?」

 訝しがりながら、士郎は凛の視線の先に眼を向け、そして。

 

 

 

 

 

「お話は終わった? お兄ちゃん」

 

 

 

 灰色の巨人を従えた、白い少女の声が聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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