Fate / other night

 

 

              4 / Work

 

 

 彼はなんというか、我武者羅だった。

 まず他人の言うことを聞かない。どんな助言も、忠告も勧告も、全部聞いているようで何一つ聞いていない。

 何が間違っていたのかと言えば、それは勿論彼なのだろう。

 些細な夢。壮大な願い。途方も無い望み。

 どれだけ手を伸ばしても絶対に届かない筈のそれを、彼はひたすらに追いかけていた。

 まったく、見ていられたものではない。

 これで彼が失敗の一つでもしようものなら、逆に少しは救いがあっただろう。

 だが不思議なことに、不幸なことに、彼は成功をし続けた。もう駄目だ、今度こそ終わりだという事態を何度と無く迎えながら、その都度何とか、本当に瀬戸際の瀬戸際で命の危険を掻い潜ってきた。

 冷や汗をかき、やっとの思いで彼は死期をやり過ごし――――また自分から厄介ごとに首を突っ込み、その繰り返し。

 それは決して器用でない、笑いたくなるほどに不器用な生き方だ。

 問題を起こさない生き方が賢いのではないと知っている。だが自ら進んで自分の命を危険にさらす生き方が正解であろう筈もない。

 

 もう一度言おう。

 

 彼は我武者羅だった。我武者羅に我武者羅、我侭に我侭、無頓着に無頓着。

 たった一言の誓いと約束を守るために、彼はただただ理想に向けて走り続けた。

 たとえそれが決して手に届かぬ望みだとしても、その現実こそが彼にとっては瑣末ごとだったのだろう。

 彼は幾多の死線と数多の死期を乗り越えやり過ごし、それでもなおその先を望んだ。

 

 

 たぶん、きっと。

 その胸の中には、蒼く凛々しい少女の想いがあったのだろうから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 僅かな頭痛と共に、士郎は眼を覚ました。

 場所は衛宮邸、自分の私室。

「いまの、は」

 口から出た言葉は酷く掠れていて、まるで自分のものではないみたい。

 士郎はしばらくの間、呆然と見慣れた部屋の天井を眺めていたが、やがて頭を振りながら身体を起こした。考えるべきではない、と自身に言い聞かせ服を着替える。

 布団を畳みながら、士郎はふと、昨夜の戦いを思い出した。

 

“また会おうね、お兄ちゃん”

 

 教会からの帰り道での死闘。灰色の巨人、バーサーカーと、それを従える白い少女。

 一晩経ったからといって――――そう簡単に、忘れられるものではない。

「イリヤ……イリヤスフィール・フォン・アインツベルン、か」

 馴れない単語(なまえ)を舌の上で転がしながら、士郎は布団を片付け部屋を出た。夜の冷気が残る廊下を進みながら、士郎は小さく苦笑する。

(あんなのがマスターだって? しかもバーサーカーのそれときたもんだ)

 あの狂戦士を目の当たりにしたときの恐怖は、そう簡単に忘れられるものではない。お前は矮小な存在に過ぎないと、ただの気まぐれで殺されても仕方がない存在であると全身で語るサーヴァント。昨夜は引き分けという形で終わることが出来たが、それで終わりというわけには行かないだろう。

 衛宮士郎(じぶん)がマスターであり、セイバーと共に剣を取る以上、バーサーカーとの戦いは避けられない。となれば、いつか必ず、あの鉄の巨人と敵対する時がまた来るはずだ。

(何か……何か対策を、立てておかないとな)

 自分が聖杯戦争を静観しているうちに、バーサーカーと他のサーヴァントが戦いバーサーカーが敗れるという事態は十分想像できる。想像できるが、その可能性は低いだろうと士郎は踏んだ。

 理由なんて、それこそ一つしかない。

(あのバーサーカーが、そんな簡単にやられるだなんて到底思えない)

 例えばセイバー。確かに彼女の魔剣は狂戦士の腕を切り飛ばし傷を与えたが、それは最後の一撃に限ってのみの話だ。それ以外の斬撃は全てその皮膚に弾かれ、傷はおろか攻撃のあった跡すら残しはしなかった。

 例えばアーチャー。彼が手にしていた双剣は、無骨ではあるものの紛れもなく一級品だ。一級品ではあるが、一級品であるだけだ。白と黒の双剣は何度となくバーサーカーの攻撃を受け、流し、また切り付けていたが、それがまるで効いていなかったということぐらい、凛も十分に承知しているだろう。

 或いは、まだ知らぬ他のサーヴァントたち。紛れもなく英霊である彼彼女たちがどれだけの神秘、どれだけの奇跡を保有しているかは分からないが――――あの狂戦士には、それを軽く上回るだけの力があるように思えてならない。

 居間に続く道を歩きながら、士郎は首を振り弱気な意見を振り払う。

(怯えている場合じゃない、探せ。必ずどこかに勝機はある)

 

 凛がそうしていたように。

 サーヴァント同士の戦いに手が出せないというのなら。

 

(探せ、探せ、探せ。どんな低い確率でも、どんなありえない選択肢でも、どんなに危うげな綱渡りでも構わない。セイバーを死なせないために、細い糸を手繰り寄せてみせる)

 幸運なことに、この身は半人前なれど物の解析にかけては誰よりも長けている。

 ならば、やることは簡単だ。戦場を、戦況を、状況を全て読み取り解析し、最高の一手を示してやればいい。

 衛宮士郎(じぶん)がマスターとして出来るサポートなど、せいぜいその程度だ。

(気を、引き締めないとな)

 

 聖杯戦争。

 マスター。

 サーヴァント。

 令呪。

 セイバー。

 遠坂凛。

 アーチャー。

 ランサー。

 イリヤ。

 バーサーカー。

 

 考えることは、きっと山ほどあるのだろうけど。

(悠長に考える暇も無い、か……)

 そう思いながら士郎は居間に辿り着き、

「あら、起きたの? マスター」

 台所に立つセイバーを見て思考を停止させた。

「――――」

 ぽかんと。意識も理性も全て停止させ、士郎は丸い目でセイバーを見る。

 深みのある赤いシャツを来た彼女は、それが当然であるかのように台所に立っていた。身に付けているエプロンは自分の愛用品であり、ああ、というか何故そうも“勝手知ったる他人の家”といった雰囲気で朝食を作っていたりするのか。

「……何よ。なんか文句あるの?」

 自分はあまりにも驚いた顔をしていたのか、セイバーは眉根を寄せてそんなことを言ってきた。

「え――――あ、いや。そんなことはない。断じてない」

 辛うじて我に返った士郎は、首をぶるぶると振りながらセイバーの疑問を否定した。

 セイバーはしばらく面白く無さそうな視線を向けてきたが、やがてまあいいわ、と言って調理を再開した。

 とん、とん、とん、と包丁が俎板を叩く音がなぜか非現実的に聞こえる。

「えーと、セイバー?」

「何よ。洋食のほうが良かった?」

「いや、そう言うわけじゃなくて……! な、なにやってるんだよセイバー」

 士郎の問いに、セイバーは何を言っているのかまるで分からない、といった風のきょとんとした表情を返した。

「何って、朝食の支度に決まってるじゃない。朝、食べるんでしょ? マスター」

「そりゃ食べるけど、俺が言いたいのはそういうことじゃなくて」

「ああ、もう、分からないわねマスター。私は作りたいから作ってるの。いいから貴方は座って待ってなさい。いいわね?」

「――――」

 作業の手を休めることなく言うセイバーに、士郎は何を言っても無駄だと悟った。仕方なくテーブルについて時間を潰そうとするが、どうにも手持ち無沙汰で落ち着かない。意味も無くテレビのチャンネルを変えたりお茶を飲んだり繰り返す。

そして何杯目かのお茶を飲み、ようやく士郎は自分がどうしようもないほどの主夫体質なのだと気付き、軽い自己嫌悪に陥った。

「……どうしたのよ、マスター」

「え? べ、別になんでもない」

 不審気に声を掛けてきたセイバーに、上ずった声で強がりを言う士郎。

 盆に食器を乗せたセイバーは小さく首をかしげ、まあいいわ、と呆れたように言った。

「じゃあ食器を並べてもらえる? マスター」

「あ、ああ。勿論」

 待ってました、言わんばかりに士郎は顔を輝かせながら立ち上がり、セイバーがほぼ完璧に手がけていた朝食の準備を手伝った。

 

 

 

 

 

 結論から言えば、セイバーの作った朝食は絶品とはいかずとも上出来だった。

 ご飯は硬すぎず柔らかすぎず、味噌汁は薄すぎず濃すぎず。きちんと正方形に刻まれた豆腐はほとんど崩れてなくて、汁の中に漂う和布もちゃんと下ごしらえが為されている。焼き鮭を筆頭にした他のメニューも、正直舌を巻くくらいの出来だった。

「どう、マスター?」

 一応疑問の形を取ってはいるが、その声音は確信を含んでいる。自分の作ったものが不味い筈がないという自信が色濃く滲み出ていた。

 セイバーのその態度はなんとなく癪に障ったが、かといって美味しいものを不味いといえるような不敬は持ち合わせていなかった。主に料理への。

「美味い。なんか意外だけど、物凄く美味しい」

 ずずず、と食後のお茶を啜りながら答える士郎。

 なんというか、他人の料理でここまで満足できたのは久しぶりだった。いや真面目な話。美味しいのだが――――どこか、引っかかっていた。小さな違和感が、先ほどから頭にちらついて離れない。

 士郎の返答に世事がないことを悟ったか、セイバーはにこりと笑う。

「うんうん、素直で宜しい。久しぶりだから少し手間取ったけど、なんだかんだで身体は覚えているものね」

「ん? 久しぶりって、何がさ」

「そんなの料理に決まってるじゃない。いくら英霊だとはいえ、生前ってのはちゃんとあるわよ。でも英霊に(こう)なっちゃうともう料理なんて作る機会がないから、実は自信なかったの。けど、やれば何とかなるもんね」

 やけに上機嫌なセイバー。

 そんな彼女を見ながら、士郎は湯飲みをことりとテーブルに戻してさて、と呟く。

「セイバーの腕前は分かったから、とりあえず」

「そうね。とりあえず――――聖杯戦争について話し合いましょうか、マスター?」

 上機嫌な顔のまま、セイバーは獲物を狙う猫のように目を細め、静かにそう言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 遠坂凛の朝は遅い。平日はそれを押して登校しているが、休日ともなれば身体が布団のぬくもりに飽きるまでベッドに留まろうとする。そんな習慣、体質は例え聖杯戦争の定かだろうと一向に変化しない。変化させる気もなかった。

 そして、気付けば既に昼近い。流石に寝すぎたかな、と自省しながら、凛は着替えてリビングに向かった。

「……思うのだがね、凛。君は朝が弱すぎる」

 リビングに居たのは、彼女のサーヴァントである赤い外套の弓兵。アーチャーはこちらの姿を認めると、それまで読んでいたらしい本をテーブルに伏せキッチンに向かった。おそらくは朝の紅茶を入れてくれるのだろう。いや、もう昼だが。

 サーヴァントを完全に小間使いとして扱っている自分に、なんだかなー、と思いながらも何も言わず、凛は椅子に腰掛けた。アーチャーが紅茶を用意するまでの暇潰しとして、さきほどアーチャーが伏せた本を手に取る。

 その表題を見て、凛は頭を抱えた。

 

(なんで英霊が料理参考書なんて読まなきゃいけないのよ……)

 

 アーチャーが読んでいたのは、凛が昔バイブル代わりに愛用していた料理のいろは本だった。基本の基本、それこそ包丁の使い方からかなり発展的な内容まで、一冊で扱うには多すぎる内容のためか、随分と分厚い本である。

 何度も読んだのでその内容はほぼ暗記に近いのだが、まあもとより暇潰し以上の目的があったわけでもない。使い込んだ跡のあるページを斜めに流し読む。

「凛、食事はどうする? 朝を取らないのは認めるが、もう昼だ。これを抜けば一日一食ということになるのだが」

「んー、じゃあ軽いのお願いー」

 キッチンから問い掛けてくるアーチャーに、やる気無く答える凛。了承の返事の変わりにアーチャーの呆れたような気配が帰ってきたが、文句を言ってこないところを見るとその願いは聞き入れられたのだろう。

 フライパンで油が跳ねる音を聞きながら、だけど、と凛は思った。ぺらぺらと、一ページを数秒の時間で流しながらぼんやりと思う。

(あれじゃあ完全に家政夫よね……)

 英霊を家政夫のように使っているなどということを他のマスターが知れば、いったいどんなリアクションを返すのだろうか。怒るか、笑うか。卒倒するかもしれない。尤も、英霊を小間遣いにするマスターが非常識であるのは認めるが、同じように家事が似合う英霊も十分非常識な気がする。

 そんな自己弁護をつらつらと考えているうちにアーチャーが食事を運んできて、凛はようやく朝食と相成った。

 時刻は既に午後の一時。

 遠坂凛の朝は、遅い。

 

 

「それで、今日はどうするのだね?」

 食後に改めて淹れられた紅茶を味わっていた凛に、アーチャーが問い掛けた。

 凛は寝起きの名残など微塵も残さずに鋭く目を細め、そうね、と答える。

「とりあえず昼間は家から出ずに、日が沈んでから行動開始。昨日はなんだかんだでアレだったから、今夜は深山の方をメインに廻ってみましょうか」

「分かった――――と、言いたいところだが、凛。潰せる相手は先手を打って潰しておくべきではないか?」

「セイバーのこと言ってるの? いやよ私、あんなのと戦うなんて」

 空になったカップをテーブルに戻し、凛は断言した。

「正体もつかめてないし、正確な戦闘力だって測れてない。セイバーってクラスは伊達じゃないでしょ。下手に襲撃しても返り討ちに会うのがオチよ。それとも貴方、セイバーと一対一で戦って勝つ自身がある?」

「む」

 凛の問いに、アーチャーは腕を組んで顔をしかめる。

 でしょ、と確認する凛に、赤い弓兵は無言で肯定を示した。

「それに、当面の問題はもう一つあるわ」

「――――バーサーカー、か」

「そう。基本的にバーサーカーってクラスはあまり知名度の無い英霊を強化する補助剤(ブースター)の意味合いを持ってるでしょ? にも関わらず、イリヤスフィールはあのサーヴァントがヘラクレスだって言った。この意味、貴方にならわかるわよね? アーチャー」

「当たり前だ。鬼に金棒も、ここまで来るといっそ清々しいな」

「ええ。ホント、笑いものにもならないわ。だからアーチャー、とりあえずはマスターを探すことから始めましょう。全員が全員そうだとは望まなくても、一人ぐらい士郎みたいな半人前がいるかもしれない。まあそれは高望みしすぎだけど、なんにせよパワーバランスを知っておくのは重要ね。崩しやすい一角を見つけましょう。仕掛けるならそれからよ」

「――――了解した、マスター」

 渋々、と言ったふうに頷くアーチャー。

 凛は満足そうに頷き、微笑みながら空になったカップをアーチャーに差し出した。

「じゃあアーチャー、お茶のお代わり貰えるかしら?」

 見事なまでに完璧に、サーヴァントを小間遣いとして扱う凛。

 アーチャーは凛のそれまでの厳冬とのギャップにしばらく立ち尽くしていたが、やがて、

「……了解した。地獄に落ちろマスター」

 いつかの言葉を繰り返し、素直に紅茶を淹れに行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昼食の買出しを終えた士郎は、両手にビニール袋を下げて帰り道を歩いていた。さらばマウント商店街。今日もお買い得商品をありがとう。

 実に所帯じみた謝辞を述べながら、士郎は費用対効果(コストパフォーマンス)に長けた商品で一杯のビニール袋を持ち直した。量が量なので結構重い。

「士郎」

「ん? なんだ、セイバー」

 重くはあるが、それは紛れもない戦利品なので苦しくはない。寧ろほくほく顔で歩く士郎に、半霊化したセイバーが声をかけてくる。

「ちょっとそれ、買いすぎじゃないの?」

 セイバーが示しているのは、無論両手のビニール袋だ。しかし士郎はそうか? と疑問符を返す。

「今日の昼食と夕食、あと明日の朝食を考えればこの程度妥当だと思うんだけど」

「あ、そっか……昼食分だけじゃなかったのね。そっか、考えてみれば当たり前よね。夕方はもう十分魔術師の領域(テリトリー)だし、そんなときにのこのこと買い物に行くほど呑気でもないか」

 なるほど、と頷くセイバー。どうやら彼女は彼女なりに納得したようなので、士郎はそれ以上何も言わなかった。

 具体的に言えば自分でも少し買いすぎたかなー、と思っていることとか。

「そう言えばセイバー、昼飯はどうするんだ? 朝飯は食べてなかったみたいだけど」

 セイバーがそのことに気付く前に、士郎は先手を打って話題の転換を謀った。

「ん、別に食べる必要はないけど、そうね。作ってくれるって言うなら頂くわ」

「そっか。じゃあ、頑張るとするよ」

 目標は朝食でセイバーが出してきた料理。あれに匹敵するか、超える料理を作るのが目標だ。揃えた材料は量も鮮度も十分すぎる。あとは、これらを活かす技術を全て投入するだけの話。

 士郎は張り切って、今朝食べた料理の味を思い出すべく記憶を探り――――

 

「――――あ」

 

 その事実を知り、小さく声を上げていた。

「どうしたの、マスター?」

「あ、いや……なんでもない。多分気のせいだと思う」

 そんな筈がない。そんなことはありえない。

 ありえないのだが――――衛宮士郎(じぶん)は、それを確かな事実として受け止めている。

(味が、同じ?)

 自分がいつも作る料理と、セイバーが作って見せた料理。

 その味付けが、より外郭的に言うのならば料理の方向性が、驚くほど自身と近似している。だが、繰り返すが、本来そんなことはありえない。

料理とはつまるところ経験と自信に裏付けられた自己の表現だ。士郎は自分の味は自分にしか出せないと知っているし、同時に桜の味付けを真似ることは出来ても再現は出来ないと悟っている。料理人の数だけ味がある。それは必定の筈。

 

(偶然、か?)

 

 一番考えられそうで、一番ありえない選択肢。自分の持つノウハウと、セイバーが保有するそれがまったく同一であったという、まるで考えられない可能性。

 と、なると。

(考えられる可能性は、)

 士郎が聖杯戦争とはまるで関係ないことに意識を飛ばそうとした、そのとき。

 

「あ、お兄ちゃん」

 

 まったく予期しなかった少女の声に、士郎は足を止めていた。

 

 

 

 

 

 

 足が止まった。思考が凍りついた。耳に届いた少女の声が、自然と脳裏に繰り返される。

「? お兄ちゃん、聞いてる?」

 無邪気な声。殺意は無論、敵意も何もない酷く幼いその声音。

「おーい、お兄ちゃんってばー。無視すると怒っちゃうよー?」

「あ――――」

 まずい。それは、まずい。

 怒らせてはいけない。この少女を、バーサーカーのマスターである少女を怒らせてはいけない。

「――――マスター」

「分かってる。けど、下手な動きはしないでくれ、セイバー」

 呼びかけてくるセイバーを小声で制し、士郎は振り向いた。自分が抱いている驚愕、恐れ、その他諸々の感情を全て無理やり押し込んで、なんでもない風にそちらを見やる。声を掛けてきた少女に振り向いてみせる。

 少し離れたその場所に、少女は一人で立っていた。商店街の外れ。まばらな人並に埋もれるように、白い少女が不満そうな顔でこちらを見ていた。

「あ、やっと気が付いた。もう、気付くの遅いよ、お兄ちゃん」

「――――イリヤスフィール」

 震えを必死に押し殺した声で、士郎は少女の名を呼ぶ。

 イリヤはうん、と頷くと、あまりに無防備な動作でこちらに歩んできた。

「――――!」

 セイバーが、実体化しないまでも緊張を走らせるのが知れる。同じようにそれを悟ったのか、イリヤはセイバーが一足刀で届く距離の半歩外で足を止め、へぇ、と目を細めた。

「セイバーを連れてるんだ、お兄ちゃん。でもダメだよ、お日様が出てるうちは戦っちゃいけないんだから。知らないの?」

「そう――――だな。セイバー、殺気を収めてくれ。言っただろう。俺は、自分から仕掛けるつもりはないって」

「マスター……!」

 ぎり、と歯を噛む音が聞こえてきそうな声でうめくセイバー。しかし士郎が無言で促すと、やがてどうにか、セイバーはイリヤに向けた敵意を収めた。

「うん、偉いねセイバー。ちゃんとお兄ちゃんの言うこと聞いてるんだ」

「……無理やり聞かせてるわけじゃない」

 一応反論しておくが、この状況ではあまりに説得力に欠けていた。

 イリヤはふぅん、と呟いたあと、なんの緊張も躊躇いもなくセイバーの間合いに足を踏み入れる。セイバーは何もしない。不機嫌な雰囲気は嫌というほど知れるが、それでも行動に移そうとはしていない。

 そうして、イリヤスフィールは士郎の前に辿り着いた。

「改めて、こんにちは、お兄ちゃん」

「あ――――うん。こんにちは」

 にこり、と子供らしく微笑んだイリヤに、士郎は思わず毒気を抜かれてしまう。

 そんな士郎に気付いてか否か、イリヤは士郎の持つ荷物を見て首をかしげた。

「こんなにたくさん買ってどうするの? 一人で食べるには多すぎるんじゃない?」

「いや、一人じゃないよ。セイバーの分もあるし、明日の分もあるから」

 士郎の言葉に、更に首を傾げるイリヤ。

「セイバーってご飯食べるの? サーヴァントは魔力さえあれば食事なんて必要ないはずなんだけど」

「ああ、それは知ってる。けど食べれるなら食べた方がいいだろ。美味しい食事は、食べなきゃ損だ」

 そこまで言って、ふと。

 あまりに自然に、その言葉が口を突いた。

「イリヤも、食べるか?」

「――――え?」

 きょとん、とするイリヤ。本気で予想しなかったがために、完全に虚を突かれた――――そんな反応だった。

「あ、いや、嫌ならいいんだ。突然変なこと言って、すまなかった」

「――――」

 顔を歪めながら謝罪する士郎。

 イリヤはぼんやりと、感情のない瞳で士郎を見上げ、

 

 

 

「――――いいの?」

 

 

 

 小さな、小さな小さな声で、聞き返した。

 士郎は一瞬息を飲み、そして、ああ、と笑顔で頷く。

「勿論だ。昼間の内は戦っちゃいけないんだろ? なら――――ちゃんと、招待する。イリヤ、一緒にお昼ご飯食べないか?」

「――――うん。行く!」

 

 満面の笑みで頷くイリヤ。士郎の腕を取って、早く早く、と急かす。

 

「……マスター。愛想尽かしていいかしら」

「あー、いや。悪人じゃないと思うぞ、イリヤは」

 ぼそりと、実に怨念がましく呟くセイバーに、士郎はしどろもどろに返答した。

 

「あ、そう言えばお兄ちゃん」

 先を行くイリヤが、足を止めぬままこちらを振り向いた。

 笑みを、楽しくて楽しくて仕方がないといった笑みを浮かべるイリヤは、本当に年相応の子供のようだ。

「お兄ちゃんの名前、なんていうの?」

「衛宮士郎。士郎が名前だから、それだけでいいよ」

「ふうん、シロウ。シロウかぁ……いい名前ね。うん、似合ってる」

「ありがとう。って、イリヤ、俺の家はそっちじゃない。第一道分からないくせに先に行くなよ」

「えー」

 昨夜の戦いが嘘であるかのようにころころと表情を変えるイリヤ。

 それを見て自然と笑みが浮かぶのを認めながら、士郎はイリヤの手を引いて衛宮邸への道を進んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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