Fate / other night

 

 

              5 / Blue Wind

 

 

日は既に沈んでいた。

 空には霞のような雲が掛かり、僅かに欠け始めた望月を覆っている。月と夜空の境界が曖昧なその様子は、まるで月という別世界が夜空に侵攻を開始しているようだ。

 曖昧な月光に照らされる中、石段を下から吹き上げる風を切り裂くように、硬い金属音が響いている。

 深山に居を構える柳堂寺。その長い石段の果てにある山門を前に、二人のサーヴァントが戦いを繰り広げていた。

 

 

 

 ぎぃん、と長い刃が曲線の軌跡を描き、月の光を反射する。獣よりなお早く疾駆する敵の一撃を全て防ぎ、彼のサーヴァントは僅かに嘆息した。

「――――貴様。私を愚弄する気か」

 石段の頂に構えるのは、青い陣羽織を羽織った流麗な侍の姿。

「――――」

 それに無言で答えたのは、一〇メーターほど下に立つ長髪の女性だった。

「無言か。らしいと言えば、らしいのかもしれぬがな――――」

 すっ、と、女の姿が闇に融けるように霞む。常人の視認能力の限界を軽く超越した速度で移動する女性は、僅かな名残も残さず疾走を開始する。

相手の得物は左右の釘。僅かな時間差を孕みながら繰り出される攻撃は、こちらの眼球と心の臓を狙っている。俗人ならば攻撃は無論のこと相手の姿すら認められず、最期、穿たれた胸の痛みを感じながら、残った隻眼で相手の姿を見るのが関の山だろう。

 

だが、しかし。

そのような攻撃は、彼にとっては遅すぎた。

 

「ふん――――」

 失望の吐息と共に繰り出された剣線が眼球を狙う一撃を排除し、返す刃がそのまま女の首を狙う。それを防ぐため、女は備えていた二撃目を防御に廻すことを余儀なくされた。

 硬い音を立て刀が弾かれ、その慣性を利用して女は再び距離を取る。

 一足一刀の僅か外に位置する女を見下しながら、ひゅん、とこびり付いた穢れを払うように刀を振りぬき、侍――――アサシンは力無く、溜息をついた。

 心から、失望の吐息を。

「詰まらん。戯れもたいがいにするがいい」

「――――」

 吐き棄てるように呟くアサシンに、女は答えない。顔の半分を覆おうかという仮面を外す素振りも無ければ、必殺の気概も無い。敵意だけは十分に滲ませているし、殺気も確かに漂わせているが、

「子供だましよな。なあライダーのサーヴァント。私如きには実力を出すまでも無いということか?」

 どこか違う、とアサシンは思考する。目の前のサーヴァント、ライダー。彼女は紛れもない強敵であると、彼女が本気を出せば、剣技しかない自分には決して敵う相手ではないと、自分の根源がそう警告している。

 けれど、同時に――――佐々木小次郎という自我が、今のライダーならば切り捨てるのは容易と確信している。

 それは、果たして如何なる意味なのか。根源。本能と置き換えても問題ない根本が発する警告と、この身をこの身足らせる実力とが、互いに異なり、だが真実を告げている。

 ならば、つまり。

(侮られている、ということか)

 アサシンは目を細め、氷の殺気をライダーに向けた。斬ると。本気を出さねば、次で貴様の首を跳ねるという宣告を込め、アサシンは長刀を構えた。

 緩やかな弧を描く刀身が、凍りついた月光に静かな輝きを返した。

 ライダーは動かない。

 長髪のサーヴァントは動かず――――代わりに、その後ろで気配がした。

「当たり前だろ。なんでおまえなんかにライダーが全力を出さなくちゃいけないのさ」

「――――」

 闇夜に姿を見せたのは、傍らに本を抱いた一人の男。にやにやと、俗物に相応しい笑みを浮かべて、臆することなく月夜に身を晒している。

「あはは、何驚いてるんだよおまえ。何? 僕の顔にゴミでも着いてるのかい?」

 男はそんなことを言いながら、自然な動作でライダーの前に立つ。

 自分こそが彼女の主であり、同時に、彼女は自分の単なる道具に過ぎないと、そう語るように。

 ふっ、とアサシンは表情を消した。矛盾に対する疑問も、全力を出さぬことに対する憤りも、すべてが消えて胸に落ちた。

 

 なるほど、とアサシンは呟く。

 

「シンジ。危険です、下がっていてください」

「うん? なに僕に命令してるんだよおまえ。いいから黙ってろ」

 ライダーの嘆願を一笑に伏し蹴り棄てる男――――慎二。

 慎二は腕を組み、そして不遜に言い放った。

「アサシン、おまえ馬鹿? サーヴァントは名前を隠すものだって、そんなことも知らないのかい?」

「――――そういうことか、ライダー」

 慎二の言葉には何一つ応えることなく、得心がいった、とアサシンは頷いた。

 

 僅かに緩んだ視線は、慎二を完全に通り越し、その後ろのアサシンに向けられている。

 

「ん? 何言って」

「まったく、お互い不幸よな、ライダー。なに、私も似たような身の上だ。同情するとは言わんが、分からんとも言わんよ」

 つい、とアサシンはその切っ先をライダーに向けた。

 彼我の距離は、アサシンにとって一足一刀には僅か足らぬ距離。あと一歩。否、あと半歩近づけば、それで彼の斬撃はライダーに届く。

「しかし――――それならば、速やかに消え行くのが救いという考えもあろう。それを選ぶというのなら、介錯は私が請け負わせてもらうぞ、ライダー」

「おまえ、僕の話を聞いているのか?」

 慎二の顔から笑みが消えた。

 笑みの代わりに刻まれたのは、憎々し気な、ああ、これぞこのこの男の妄執の現れという事実が当然のように知れる、歪んだ表情。

 

 アサシンは慎二の言葉を無視し、ただ一人苦笑する。

 

「すまんな、ライダー。先の侮辱は取り消させてもらう。このような俗人が主では、力が振るえぬのも道理よな」

「な――――なん、だって」

 怒りを。

 紛れもない、激情を通り越した昏い怒りを含ませる慎二を、アサシンは言葉の通り見下した。

 ここに来て、初めて慎二という人間に視線を向けた。

「気付かぬのか。知らぬは本人ばかり――――とはよく言ったものよ。まさかおぬし、その程度の実力で、彼女を従わせているとでも嘯くつもりか?」

「――――ッ」

 ぎり、と慎二が歯を噛み締めた。

 その顔には一片の油断も侮りも、そして冷静さもなく、ただ怒りだけが渦巻いている。

 

 違いない。

 この瞬間、慎二はこの身を何があっても殺さずには居られない、抹殺対象として認識した。

 

 

 その事実が、面白いようにわかるから。

 アサシンは、心からの憐憫と蔑みで呟いた。

 

「本当に、救えぬ男よな」

「糞――――なんなんだよ、なんなんだよお前! 偉そうにして! 糞、糞、糞糞糞糞糞……! いいよ、やっちゃえよライダー……!」

 口汚く罵りながら、慎二は背後のライダーに命を伝える。

 しかし、ライダーは何も返さない。言葉も、動作も何一つ返すことなく、ただその場で佇んでいる。

「何やってるんだよライダー! マスターの命令が聞けないって言うのか……!?」

「……ふむ。思った以上の俗人か。ここまで哀れだと、寧ろ憐憫すら抱こうというものだが」

 激昂する慎二に、アサシンが冷徹に言い捨てた。

 その言葉とは裏腹に、声音には一切の同情も憐れみも篭もっていない。

「なんだよ――――なんだんだよ、みんなして僕のことを馬鹿にして……! 言えよ、言ってみろよ。僕の何処が哀れだって言うつもりだよおまえ……!」

「ふん。言わねば知れぬか」

 

 本当に――――本当に、ライダーすらもが息を飲むほどに冷たい、容赦無い目つきで、アサシンは口を開いた。

 

「ならば言おう」

 

 容赦も無ければ情けもなく。

 絶対の真理として、アサシンは宣告する。

 

「その場に居ることが、救いようも無いかぎりに愚かというものよ」

 

 

 

 何故ライダーが動こうとしないのか。

 何故ライダーは慎二に退く事を求めたのか。

 何故ライダーは慎二の命に逆らいながら、その身体には一片の拒否反応も出ていないのか。

 

 

 

「戯け」

 

 つ、とアサシンは刀を構えた。

 ここからでは刀は届かない。なぜなら、その距離は一足一刀に僅か遠いからだ。

 

 

 

 そう、ここからでは届かない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「え――――」

 アサシンの言葉の意味を、慎二が知るより早く。

 月光を受けて淡々と輝く白刃が、慎二の手首を断ち切った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 断たれた手首は中に舞う。

 夜闇の中。

 まるで独楽のようにくるりくるりと舞い飛ぶ手首と、其処に握られた本を見て、アサシンはふん、と息を吐いた。

 つまらぬものを――――と、心底から呆れながら、返す刀で手首を、握った本ごと縦に断つ。

 親指、人差し指、中指を残した片割れと、薬指、小指を生やしたままのもう片方。

 それがぱつん、と分かれるのを見たが故ではないだろうが、

 

「あ――――……!!!!!」

 

 ばしゃりと。性質の悪い玩具のように、慎二の手首から血が溢れ出た。

 ぼたぼたと流れるそれは、すぐに止血せねば取り返しの着かないことになるぞと明示して止まない。

 腕を抱え屈み込み、肩を震わせ悲鳴をあげながら、慎二は必死に言葉を紡いだ。

「痛い、痛い、痛い、痛い、痛い痛い痛いイタイ――――馬鹿、糞、痛い、痛い痛い痛い間抜け、痛いいたいいたいなにやってるんだよ痛いじゃないかライダー……!」

 ぼろぼろと。

 両の瞳から、留まることのない涙を溢しながら、慎二は己のサーヴァントを叱咤する。

 

 ――――否。

 

 ライダーは、既に慎二の奴隷(サーヴァント)ではない。

「何故分かりました?」

 平然と。目の前で出血する慎二なぞには目もくれず、ライダーはアサシンにそう問うた。

 アサシンはくく、と静かに笑った。ライダーから発せられる殺気に、先ほどとは比べ物にならないほどに濃密な死の気配に、歓喜のあまり笑みを浮かべる。

「何、それほど難しく考えたわけではない。その男がそれほど自慢気に握る本が、ただの書物であろう筈もなかろう。尤も、それほどのものとは思いもせなんだがな、ライダー」

「ひぃ、ひぃ、ひ――――」

 どばどばと血を流す手首を反対の手の平で抑え、指の隙間からなお零れる血に息を荒くする慎二。

 そんな仮初のマスターには目もくれず、アサシンは僅か月を仰いだ。

 夜空には、舞い上げた本の欠片も残っていない。この刀が本を断ち切った瞬間、それは自ずから炎を上げ灰と散った。

「さて。これで問題はなかろう、ライダー?」

「いいえ。残念ですが、慎二が死ねばマスターが悲しむ。ここで死なせる訳には行きません」

 

 残念なのはいまここでアサシンと戦えないことなのか、それとも慎二が死んで悲しむものが居るということなのか。

 答えを示さぬ無表情のまま、ライダーは釘のような短剣を構えた。

 

「そうか。それは残念よな」

 

 心惜しげに呟き、アサシンは手首を返した。

 ひゅっ、という音を残して、

 

 

「――――あ」

 

 

 小さな呟きと共に、慎二の首が手首と同じように夜空に舞った。

 ばちゃ、と水音を残し石段を転がり落ちる生首と、自分の血の池に沈むその身体。

 斬り飛ばした首が夜闇に消えたのを見届け、アサシンはこともなげに口を開いた。

「ふむ。悲しむものが居るのではなかったか?」

「さあ? 私はそんなことを言いましたか?」

 ライダーの答えに、く、とアサシンは喉を震わせる。

 ライダーは口の端を小さく歪め、世界を脅迫するような殺気を放っていた。

 じゃらり、と。月夜を返し白銀を体現する鎖を鳴らし、ライダーは改めて釘を構えた。

 

「――――それでは」

「ああ、異存ない」

 

 音もなく静やかに、アサシンは刀を構えた。

 石段を駆け上がる風を感じながら、両者はいまようやく対峙した。

 

 

 

 アサシンは涼やかな笑みを浮かべ。

 ライダーは艶やかな笑みを浮かべ。

 

 

 同時に、誓詞を呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さあ、殺し合いを始めよう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 辿り着いた其処は、近づいたことすらない長い石段の麓であった。

 世界を包む夜気と、それを覆い淀まんと腐敗する魔力に、桜は思わず口を押さえる。

 ざわざわと、風を受け木々が靡く。

 足を止めている暇は無い。先ほど、慎二に預けた偽臣の書が消えた。アレはもとより、この身に浮かんだ令呪を擬似的な書物として具現化したもの。言ってしまえば桜の魔力そのものだし、それに何より、いまこの瞬間、この身体から流れ出る魔力の線がある。糸と呼ぶには細すぎる、もはや観念としか呼べない繋がりが結ぶ先は――――本来は彼女のサーヴァントである、ライダー。

 偽臣の書が燃えたということは、ライダーが慎二を護る理由が消えたということ。また同時に、偽臣の書が燃えざるを得ない状況が生じたという意味だ。

 それを知りえたからこそ――――桜は、家を飛び出しここに駆けつけていた。ライダーの居場所など、レイラインの繋がりを辿れば火を見るよりも明らかである。

 何がしたいのか。何が出来るのか。その疑問を全て考えることなく、桜は石段の先を見上げた。夜闇はあまりに濃く深く、視力補正をしても頂を臨むことは叶わない。

 身体を支えるため鳥居に手をついて、桜は必死に己の魔力を調節する。

 体内に潜む蟲たちが外の魔力に感づけば、きっと肉を食い破り外に出ようとするだろう。

 それを防ぐため、薄い魔力の膜で身体を包み、外には何もないと錯覚させる。

 馴れていると言えば、これ以上なく馴染んでいる動作を一呼吸で終わらせ、

 

「――――え?」

 

 足元に転がるそれに、兄であった部品(くび)に気付いて、桜は思考を停止させた。

 

 

 

 どくり、と何かが蠢く。

 

 

 

「――――うそ」

 憤怒と絶望に。

「――――にい、さん?」

 驕りと蔑みに。

「――――あ、」

 そして何より、恐怖に。

 慎二の首は、醜く歪んでいた。

「――――あ、()()()

 口から笑いが洩れる。

 何故だろう。

 こんな醜い、醜くて醜くて汚くて汚くて、汚らわしくて汚らわしくて憎たらしくて憎たらしい生首が、不思議なほど滑稽な結果に思える。

 

 笑みを。

 

 聖母のような笑みを浮かべ、桜は慎二の生首を抱え上げた。

 

「死んじゃったんですね、兄さん」

 

 呟いた声は、自分のものではないほどに穏やか。

 桜は腕の中の首を見下ろした。慎二は死んでいる。当たり前だ。首だけで生きれる人間など居ない。ましてや兄はただの人間なのだから。

 

 死んでいる。

 絶命している。

 息絶えている。

 終わっている。

 終わっている。

 終わっている。

 終わっている。

 

 行き詰まっている。

 

「――――ああ」

 桜は慎二の頭を抱えなおした。抱いていたそれを、左右の手で挟むようにして目の高さまで持ち上げる。

 耳に届くのは高い金属音。連続して響くそれは、いま石段の上で戦いが起こっていることの何よりの証拠だ。

 駆けつけなければならない。聖杯戦争に興味はないし、人をコロスのなんて嫌だけど、ライダーが死ぬのはもっと嫌だ。

 自分が居なければ、きっとライダーは苦戦してしまう。ライダーのことは信じているけど、万が一ということもあるだろう。

 ライダーを勝たせるためには、私は彼女の元に駆けつけなければならない。

 

 けれど。

駆けつけなければならないけれど、その前に。

 

 終わってしまった兄に、心から労いの言葉をかけるべきだろう。

 

「――――お疲れ様でした、兄さん。昔はそんなに嫌いじゃありませんでしたよ」

 

 魔力を巡らした手で少し力を掛ければ、慎二の頭はばづんと音を立て、熟れた西瓜みたいに飛び散った。

 血と脳と漿と骨の欠片を浴び、しかし桜はそれを拭うこともせずに石段に身体を向ける。

弔いは終わった。

桜はライダーを助けに行こうと一歩を踏み出し、

 

「素晴らしいわね、お嬢さん」

 

 紛れもない感嘆の響きを孕んだ声に、その足を止めさせられた。

「――――え?」

 振り向けば、否、振り向く暇すらなく。

 背中から叩き付けられた荒い魔力の塊に弾き飛ばされ、桜は石段に身体を打ちつけさせられた。

「あ――――」

 瞼が落ちる。いまの衝撃は決定的だ。意識が、意識が理性が断絶され阻まれ疎外され、ぱちんと、テレビのスイッチを切るような容易さで意識が落ちる。

 その最後に。

 

「安心なさい。あのサーヴァントは、ちゃんと殺してあげるから」

 

 半分以上閉じた瞳は、ローブから口元だけを覗かせた魔術師(キャスター)の姿を捉えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ライダーは焦っていたが、悲観はしていなかった。

 前進と後退、斬撃に投擲。山道にはみ出た木の枝すら足がかりとし、己が誇る速度でもってアサシンを囲む牢獄を作る。

「――――ふむ」

 額を狙った投擲を弾き、手首を狙った刺突を流し、アサシンは呟いた。

「なるほど。この速さ――――そうやすやすと見切れるものではないな」

「――――」

 ライダーは答えず、ただ己の攻撃を続行する。

 胸を狙った一撃が弾かれた。

 肩を穿とうとした一撃が防がれた。

 脳天から突き刺そうとした一撃は、そも跳ぶ瞬間を邪魔され不発に終わった。

 足を狙った投擲は刀に攫われ、打ち上げるように投じた一撃すら空振り。

 狙った一撃は尽く弾かれ流され回避され、何一つ届かない。

 否、届かないだけならまだ救いがあろう。

 

「――――ッ」

 

 自分を捕らえようと夜を走る刃に、ライダーは小さく舌打ちして疾駆の方向を変更した。

 しかしその瞬間、逃さぬとばかりに刃が跳ね上がり、追撃に移った白刃はライダーの首筋を僅かに掠り髪の一房を断ち切った。

 夜に舞う紫の髪を見て、アサシンはしまった、と顔をしかめた。

「すまんな、ライダー。髪だけ切るつもりはなかったのだが、許せ」

「何を言っているのですか、貴方は」

「髪は女の命と云うだろう。髪だけ散らすのは――――もはや侮辱にしかならん。すまんな」

 アサシンの言葉に、ライダーは動きを止めた。元の距離、アサシンの間合いの僅か外に立ち、その言葉の本意を探る。

「……本気で言っているのですか、貴方は」

「本気だとも。女性から美しさを奪う趣味などない」

 言い、アサシンは目を伏せた。尤も、だからといって容易に切り込むことなどできよう筈もない。これほどの相手ならば、おそらく目を潰されても相手の位置を正確に知り斬撃を見舞うだろう。

 ライダーは佇んだまま、アサシンの言葉を反復する。

 驚くべきは、その言葉の通り――――アサシンの台詞は、それが本心であるらしいという点。

 

「悪いな、ライダー。次は、」

 

 アサシンは伏せていた顔を上げる。

 そこに浮かんでいたのは、もはや如何な遊びもせぬとばかりに静かな、研ぎ澄まされた刃のような表情。

 しかし、ライダーとて只者ではない。そのような剣気、否、鬼気など意に介すこともなく、アサシンを見返す。

 アサシンはゆっくりと刀を構えた。僅かに描く曲線が、夜月を浴びて女性的な雰囲気を醸し出す。地面と水平に構えられた刀は、その先を僅かに下げ、静かな殺気を纏っていた。

 

「次は、その御印しかと貰い受ける」

 

 アサシンの言葉に篭められていたのは絶対。

 ライダーはそれを真正面から受け止め、小さく笑みを浮かべた。

「呆れました。貴方、あれだけ私を侮辱しておきながら、貴方自身は本気を出していなかったというのですか?」

「そうではない。だが言っただろう。お主は速すぎてな。目が慣れるまでは様子を見させてもらった。それについては謝罪しよう」

 そうですか、とライダーは頷く。

 

「では、私も本気を出させていただきましょう」

 

 にやりと。妖艶な笑みと共に、ライダーは両手に持った釘を己の首筋に添え、

 

 

「あら、貴方にそんな選択肢は無いわ」

 

 

 背後からの声に、ライダーはぴたりと動きを止めていた。

「ええ、利巧ねライダー。そのままで居なさい」

 動けない。動こうと思えば動けるが、動いてはいけないと本能が命令している。

 視線をアサシンに向ければ、青い着物の侍は既に刀を納めていた。整った顔に浮かんでいるのは、無念とも遺恨ともつかぬ渋面の表情。

「……キャスター。ここを護るのは私の役目ではなかったのか?」

「ええ、そうよ。貴方にはここを護ってもらうわ。でもそれ以上は望まない。貴方はここを護ればそれだけでいいの――――相手に本気を出させる必要などないわ」

 背後から、くすくすという忍び笑いと共に答えが返る。

 ライダーは無言のまま、言われることも無く釘を地面に落とした。

「あら、別に武器を棄てろと言った覚えは無いわよ?」

「――――」

 からかうような声に、ライダーは答えない。

 

 ……背後だから、何だというのか。もとより一つの世界をぶつけているこの魔眼、背後だから、死角だからといって見えぬわけではない。

 故に、ライダーは気付いている。背後に立つ、闇から抜け出たような黒衣のサーヴァントのことも、その腕の中に気を失った桜が抱きかかえられていることも、キャスターがその気になれば桜の首など用意にへし折れてしまうだろうことも。

 

「言ってはいないけれど、そうね、その態度は気に入ったわ。だから、貴方は一瞬で殺してあげましょう――――アサシン?」

 キャスターの声を受け、アサシンは再び長刀を抜き放ち構えを取った。

 しかし、その顔には既に刃の如き鋭さも殺気も無い。

 それも当然だろう。彼がこれから行うのは、戦いではなくただの行為に過ぎないのだから。

 

「さあ、首を跳ね飛ばしてあげなさい」

 

 アサシンの顔から、今度こそ色が消える。

 其処に居るのは、ただ忠実に主の言い付けに殉ずる侍の姿。

 己の意思を消し、ただ他者の命ずるままに自己を殺すその姿が。

 何故か――――知っている者の姿に、重なったように感じた。

 ひゅん、と僅かな音を立てながら白刃が首に迫るのを、ライダーは最期の一瞬まで見逃すことなく見つめ続ける。

 

(――――ああ)

 

 ざくりと。白刃が皮膚を裂き肉を拓き血管を断ち骨を斬り延髄を貫ける間隔を一つ一つ感じながら、ライダーは沈痛な面持ちを無表情という仮面で隠すアサシンを見やり、

 

(彼が、サクラのサーヴァントだったなら――――)

 

 そんなことを、彼女らしくもない想定を弱々しく嘆じ、ライダーは自分が行き詰まったことを認めた。

 

 

 

 

 

 (サン)という音を残し、ライダーのサーヴァントは、仮初の主がそうなったように夜空に首を舞わせ、此度の聖杯戦争を降板した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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