Fate / other night

 

 

              8 / Convention

 

 

 そこは夕焼けの戦場だった。

 戦いは既に終わっていて、勝敗も既に決している。

 彼らが参加した勢力は当然のように劣勢で、必然のように敗北した。

 その結果はもはや馴れたもの。彼らが手を貸す相手は大方少数であり、敵は多数。

如何に尽力しようと、如何に足掻こうと、零れる者は歴然として存在する。

 彼がどれだけ正義を叫ぼうと、それがまかり通るほど世の中は単純ではない。

 だが彼は諦めることなく、次から次へと戦場に脚を運んだ。

 戦いを嫌い、殺し合いを憎み、しかし誰かが死ぬことを何よりも忌むが為に。

 

 これは、そんな日々の一場面。

 既に終わった戦いと、その名残の中での一場面。

 

 戦場だった荒野は夕陽に赤く染まっていて、周囲には幾つもの死体が転がっている。

 ほとんどは味方で、ほんの少しだけの敵。

 息絶えた身体はぴくりとも動かず、ただ物質として其処にある。

 

 何故だろう。

 

 赤い。赤い夕日に染まるその世界が、たくさんの兵士達の死体(ぼひょう)が。

 千と連なる死体(ぼひょう)が、(ぼひょう)が。

 

 

 荒野に突き立つ剣に見えて、仕方がない。

 

 

 それは終わりがないようで、事実何もない世界の幻視。

 外から流れ込む夢と内から溢れ出す夢が混ざり合い、二つの世界が現界する。

 

 戦場跡の荒野で彼女が泣いていた。地に伏し、自分のものではない血でコートを染めながら、恥も外聞もなく泣いていた。

 

 想像したのは風船。ぱんぱんに膨れて、今にも割れてしまいそうな風船。

 

 彼女が抱いているのは一人の男。彼女を引っ張りまわし、彼女を想い、常に青い少女を胸に留めつづけた大馬鹿者。

 

 割れた風船から溢れてくるのは空気ではなく剣。ぎちぎちに詰め込められた狭い風船(せかい)を嘲笑い、風船(せかい)を傷つけてまで剣は剣であろうとする。

 

 男の胸には穴が空いていた。小さな小さな、小型機関銃の口径程度の深い穴。

 

 剣は暴れている。ここから出せと。こんな狭い世界に自分たちを閉じ込めるなと。

 

 それは戦いの結末であり、男の終末だった。戦いが終わり、気を抜いた彼女を狙った狙撃兵の一撃を身代わったが為の結果。

 

 剣は暴れている。これはお前には過ぎた力だと。これはお前に扱えるものではないと。

 

 だから彼女は泣いていた。この結末が、彼が死んだという事実が、紛れもなく自分の過失だと知るが為に。

 

 剣は叫んでいる。これはお前に不相応だと。

 

 彼女は泣いている。心の底から悲しんでいる。原因は間違いなく彼。彼女を想いながら少女の記憶を消さず、結局最期まで彼女の主張を聞き入れなかった不器用な男。

 

 世界が叫んでいる。

 

 それが、酷く癪に障った。なんてことだと。なんて愚かだと。

 

 墓標が叫んでいる。

 

 世界を救うと。正義の味方を演ずると。

 

 荒野と戦場が混ざり合う。

 

 万の人を救おうと願い、一番近い人を悲しませた。

 

 ありえない光景を幻視する。

 

 それがどうして正義の味方か。周囲を幸せに出来ずに世界を救えるものか。

 

 世界が声をそろえて叫んでいる。

 

 剣が万と聳える荒野で、彼女が彼を抱きしめながら泣いている。

 

 自分を扱いたければ命を賭せと。

 

 

 

 

 

 ああ、だからこれは悪夢。

 夢とは醒まされるものであり、自発的に目覚めることなど出来はしない。

 この光景は何時まで続くのだろう。

 いったい自分は、彼女の泣く姿を何時まで見続けなければならないのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 暗闇に伸ばした手が誰かに掴まれた。

 ひんやりとした感触は心地よく、柔らかい感触は安心を伝えてくれる。

 

「――――」

 

 思わず呟いた言葉は、果たして誰の名を呼んだものなのか。

 士郎は茫洋とした意識のまま視界に光を取り戻し、

「おはよ、士郎」

「――――え?」

 こちらを覗きこむ凛の顔を見て、一瞬で意識を覚醒させた。

 

 場所は馴染んだ衛宮邸の私室。自分は布団の上で寝ていて、何故か傍らに凛が座っている。

「と、遠坂?」

「そうよ。悪い?」

 どこか不機嫌そうに言う凛。

 事態を把握できない士郎は、ただ首を傾げるしかない。

「なんで遠坂がここに居るんだ?」

「なんで、とは失礼ね。誰がここまで運ばせたと思ってるのよ」

「え?」

 疑問符を挙げ、ようやく士郎は昨夜の記憶を思い出した。

 月夜に佇む鉄の巨人と白い少女。

 金髪の男と剣の雨。

 無我夢中のうちに行使した投影魔術。

 

 そして、

 

「――――桜。遠坂、桜は?」

 夜に出歩いた、そもそもの理由。

 士郎の問いに、凛はあっさりと首を振った。

「残念だけど、探すような暇はなかったわ。そもそもあなた倒れたのよ? 先に心配することがあるでしょう」

「心配すること?」

「そうよ。ああもう、思い出したら頭に来た。いい? 士郎、着替えてすぐに居間に来なさい。逃げたら承知しないわよ?」

「え? あ、ああ、分かった」

 有無を言わさぬ迫力の凛に、こくこくと頷くしかない士郎。

 凛は素っ気無さそうな顔で立ち上がろうとして、

 

「士郎、痛い」

 

 酷く不機嫌そうな顔でそう言った。

 へ、と士郎は間抜けな顔をして、ようやく、自分が凛の手を握り締めたままだったことに気が付いた。

 顔を赤くしながら慌てて手を離す。

「わ、悪い遠坂っ!」

「……ふん。別にいいけどね」

 なんでもないように、しかし頬を僅かに染めながら、改めて凛は立ち上がる。

「じゃあ士郎、待ってるから。私も色々と聞きたいことがあるから、急ぎなさい」

 そう言い残し、凛は部屋を出て行った。

 一人になって、士郎はふう、と息を吐く。

「――――落ち着け。いまはそんなこと考えている場合じゃないだろう」

 呟き自分に言い聞かせ、士郎は時計を見やった。窓から差し込む明かりで大体の見当はついていたが、やはり時刻は既に昼過ぎ。

 布団から抜けようとして手を動かしたとき、

「痛ッ」

 ずきり、と鋭い痛みが左手に走った。

 見れば、左手の二の腕から先が包帯でぐるぐる巻きにされている。巻き方も整っているし、圧迫具合も丁度いい。随分と手馴れた仕事だと思ったが、内から染み出た血で所々黒く染まっているそれは、見ていて決して気持ちのいいものではない。

 少し迷い、包帯を解くことにした。どうやら血は止まっているらしいし、なにより自分の怪我の度合いがわからないというのも不安だ。

 止め具を外し、腕をあらわにする。包帯の下に隠されていた自分の腕を見て、うわあ、と士郎は他人事のように声を上げた。

 

「酷いな、これ……」

 

 左腕は切り傷だらけだった。深いもの、浅いもの、広いもの狭いもの。血が止まっているのはあくまで“一応”でしかなく、僅かな拍子で傷が開いてしまうだろうことは明白だった。

無事な個所など一つもない腕を眺め、ふと、士郎はその違和感に気が付いた。腕をよく見る。おそらくこれが一番深い傷だろう、手首の付け根から肘まで斜めに走った長い傷があり、そこから放射状にいくつもの傷が広がっている。

ただ、各々の傷の先端を良く眺めれば、

 

「内出血?」

 

 表面に出ていない出血が、山ほどある。いや、むしろ内出血の痕の方が多いといってもいいほどだ。

 それは果たして、如何なる意味なのか。

 士郎は思考を廻し、さも当然のようにその推測を得た。

 

(中から、外に?)

 

 ああ、確かにそれなら辻褄は合う。

 外傷より多い内出血とはつまり、外側からではなく内側から切り刻まれたという証。

 そう、例えば腕の中から数多の剣が――――

 

「―――― づ、あ」

 

 ずくり、と頭が痛んだ。止めろと。それ以上考えるなと、衛宮士郎の肉体が警告を発している。

 士郎は頭を振り、包帯を元通りに巻いた。若干形が崩れたが、仕方ない、と頷く。

「とりあえず、居間に行かないとな……」

 呟いた声は、驚くほどに疲弊していた。

 

 おそらく。

 

 僅か一瞬だけとはいえ、そのイメージから夢に見た赤い荒野を思い出したからだろう。

 

 

 

 

 

 襖をぱたり、と閉じて。

 遠坂凛は、自分が際限なく赤面するのを感じた。

 あちゃあ、と顔を押さえる。触れた頬はやはり熱く、耳元では先の士郎の呟きが延々と繰り返されていた。

 

「――――あのばか。無防備過ぎるのよ、根本的に」

 

 その場に座り込みたいのを一心に堪え、なけなしの理性で感情を制御する。

 立ち尽くすことおよそ数秒。はあ、とため息を吐けば、万事問題なくいつもの自分に戻ることが出来た。

 顔を上げ、ぺたぺたと廊下を歩く。向かう先は、士郎に来るように告げた居間。

 言いたいこと、聞きたいこと、話し合わなければならないことは山積みだった。順序良く話すにはどういった順番で話題にすべきなのかをつらつらと考え、士郎への怒りがぶり返す。

 いや。それは怒りと呼ぶには余りに刺々しい、敵意と称すべき意識の動きだ。

「あのばか――――自分がどれだけ歪なのか、分かってるのかしらね」

 呟いてみるが、答えなんて容易に知れる。勿論、否、だ。

 衛宮士郎という人間は、おそらくかなり特異な人種。

 少なくとも、自分の命を顧みず他人を、それも敵を救おうなどという論理回路は、まっとうな魔術師である自分には理解できない。

(決めた。起きてきたら、まずそのことをよっく言い聞かせよう)

 徹底抗戦の意気込みで決意する。

 凛は居間に続く廊下を曲がり、ぴんぽん、と場違いに日常的な音を聞いた。

 玄関の呼び鈴。衛宮邸を包む結界については昨夜のうちにセイバーから聞いている。勿論それが全てだとは思わないが、とりあえずセイバーの言うところによると、敵意を持つ者が敷地内に足を踏み入れた場合にのみ警報が鳴るそうだ。

 ならば、少なくとも訪問者は敵ではない。凛は論理的にその結論を導いて、いつものようにミスをしでかした。

 何がミスかといえば、

 

「――――なんであなたがここに居るのよ、リン」

 

 えらく不機嫌そうに頬を膨らませるイリヤを、さも当然のように出迎えてしまったあたりが、これ以上ないミスだった。

 

 

 

 

 

 空気がぎすぎすしていた。空間という空間に砂を詰め込んで挙句コンクリで固めてもここまでの雰囲気は出まい、と、士郎は居間の入り口でぼんやりと思考する。

 この雰囲気の原因は間違いなく凛だった。彼女は当然のようにテーブルに着き、何処から見つけ出したのか、お煎餅を八つ当たりでもするかのようにばりばりと砕いている。

 そんな凛を呆れた目で眺めるサーヴァントが二人。セイバーとアーチャーは、こちらはこちらでお茶会と洒落込んでいるらしく、二人の袂には来客用のティーカップがあった。

 そして、おそらくは凛を不機嫌にさせている一番の要因が其処に居る。

 

「……イリヤ?」

 

 士郎がぽつりと名を呼ぶと、凛の対面に座り、しかし凛の視線を完全に無視していた少女が顔を上げた。

 イリヤスフィールはそれまでの澄ました顔を一変させ、溢れんばかりの笑顔で立ち上がった。他人の視線など何処吹く風と無視し、なんの躊躇いもなく抱きついてくる。

「えへへ。来ちゃった」

「あ――――うん。いらっしゃい」

 事情が飲み込めないまま、反射的に答える士郎。

 多分、起爆剤はといえばその一言だったのだろう。

 ばん! とテーブルを叩く音が響いた。恐る恐るそちらに目をやれば、凛がこれ以上ない綺麗な笑みで、

 

「衛宮くん、とりあえず座りなさい。私が我慢できるうちに」

 

 だなんて言葉を、心底静かな声で告げてきた。

 士郎は首筋を冷たい汗が伝うのをやけにはっきりと感じながら、言葉の通り殺人的な笑顔に従い席につく。イリヤはさも当然のようにその隣に座った。

 にこり、だなんて文字が見えそうな笑顔の凛は、じゃあ、と前置きして、率直に疑問をぶつけてきた。

「あなた馬鹿ね?」

「……いや、ちょっと待て。いきなり何を言うんだ、おまえ」

 しかも付加疑問文。

 こちらの不平には耳も傾けず、笑顔も崩さない凛。

「だってそうでしょ? あなた分かってるの? そこのお子様、バーサーカーのマスターなのよ? 敵なのよ? ねえ正直に答えて。あなた馬鹿でしょう?」

「あらリン、嫉妬してるの?」

 ふふん、と目を細めながらイリヤが言う。

 な、と声を上げた凛に見せつけるように、白い少女はこちらによさり掛かってきた。

「あとお子様なんて呼ばないで。私には、イリヤスフィールっていう名前がちゃんとあるんだから」

「く――――ならイリヤスフィール、あなたに聞くけど、いまが聖杯戦争の真っ最中だってこと、分かってるわよね?」

「ええ、当たり前でしょう、リン。何を寝ぼけたこと言ってるの?」

 

 ぎりぎりと。確実に色々なものを噛み殺しながら問う凛と、それを笑うかのように答えるイリヤ。

 

「じゃあ勿論、マスターは他のマスターに命を狙われてるし、他のマスターの命を狙うものだっていうのも知ってるわよね?」

「当たり前よ」

 

 士郎は思った。この二人、仲が悪いんじゃないだろうかと。

 

「――――なら」

 僅かな間。

 凛は一度息を吸ったあと、こめかみにはっきりと知れる青筋を浮かべて怒鳴り散らした。

 

「なら大人しく魔術師然としていなさいよこのロリっ子! なに平然と一人で他のマスターの家を訪ねて挙句そのサーヴァントと親しげに会話してるのよあなたたち自分が魔術師だっていう自覚とマスターだって言う覚悟あるの本当に!?」

 がー、と言葉を連ねる凛。その顔は怒りに赤く染まっていて、いわゆる大激怒状態だ。

「いい? 本当に分かってるの? 私たちはマスターで、魔術師で、殺し殺されあう関係なのになに和んでるのよあなたたちは――――!!」

 

 身を乗り出す凛に、しかしイリヤは醒めた顔で、

 

「……リン、はしたないわよ。もっと淑女然としていたら?」

 

 なんて挑発的な言葉を、挙句鼻で笑いながら言ってくれた。

 感情の許容量を越えたのだろう。

凛はわなわなと肩を震わせ、

 

「――――そこまでにしておけ、凛。傍から見ているこちらが恥ずかしい」

 

 弓兵の疲れた声で、どうにか冷静さを取り戻したようだった。

 凛は何か言いたそうに顔をしかめ、ふん、とつまらなそうに息を吐く。

 士郎ははあ、と息を吐き、告げた。アーチャーって苦労人だなぁ、と心のどこかで同情しながら。

「分かってる。説明すればいいんだろ」

 当然よ、と頷く凛に向き直り、

 

「俺はさ、戦争孤児なんだ」

 

 思い入れも何もない、ただの事実としてその言葉を告げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 一時間ほどの時間を費やして、士郎はあらかたの説明を終えた。

「……ちょっと衛宮くん、いまの話何処までが本当のこと?」

 怒りは何処に行ったのか。凛は静かな、そして僅か青ざめた顔でそんなことを尋ねてきた。

「どこまで、って、全部ホントだぞ。俺はこの家の本当の子供じゃないし、一〇年前の大火事――――あれって聖杯戦争の余波だったんだろ? なら戦争孤児って言い方もあながち間違いじゃないと思う」

「じゃ、じゃあ士郎は本当に魔術師じゃなくて……」

「ああ、半人前もいいところだ。魔術刻印なんて貰ってないし、そもそも親父は俺が魔術師になることに反対してたからな」

 言って、自分で淹れた緑茶を啜る。

 呆然とする凛に、士郎は続けた。

「だから、本当ならイリヤがこの家の子供の筈なんだ。少なくとも俺は親父からそう聞かされたことがある。僕には子供がいるんだよ、って」

「――――」

 息を飲むイリヤ。少女は感情のない硝子球のような瞳でこちらを見て、ぽつり、と問う。

「キリツグが? 本当に、エミヤキリツグがそんなことを言っていたの?」

「ああ。親父は、イリヤに対して本当に悪いと思っていたみたいだ」

 さらり、とそう告げ、士郎はイリヤの反応を見る。

 イリヤは呆、と虚空を見上げ、そう、と小さく呟いた。

 

「そう、か。そうなんだ」

 

 淡々とした呟き。誰にも向けられていない少女の赤い瞳は、いったい何を映しているのだろうか。

「――――」

 士郎は誰にも悟られないように息を吐き、それを隠すように口を湿した。

 だから許してあげてくれと。だから親父を憎まないでくれと。気を抜けば、簡単に口を突いてしまいそうな言葉を飲み込む。そんな無責任な、そんな不躾な言葉を言う資格がないということぐらい、士郎はよくよく理解していた。結局のところ自分は拾われた者で、彼女は捨てられた者だ。立場は天と地ほども違うし――――もし自分が逆の立場だったなら、切嗣を恨まないで居る自信がない。

 ことり、と湯飲みをテーブルに戻す。いまだ愕然としたままの凛に問うた。

「他に聞きたいことはあるか?」

「――――あるわ。その、質問って訳じゃないけど」

 覇気を感じさせぬ返答。いまだ驚きから抜け出せていないのか、静かな、しかしはっきりとした声で凛は問う。

「士郎、身体にどこかおかしいところはない? 昨日あれだけのことをやったんだから、少しぐらいフィードバックがあってもいいとおもうんだけど」

「ん? いや、そんなことはないぞ。左腕以外はごく普通だ」

 士郎の嘘も強がりもない言葉に、

 

「――――え?」

「――――うそ」

 

 凛とイリヤが、似て異なる反応を示した。

 

「ちょっと士郎、それ本当? その腕以外、本当に何ともないの?」

「ああ、ないよ。そもそも怪我なんて負ってないぞ、俺」

「嘘。あなた忘れたの? その、アーチャーがあなたを思いっきり斬りつけたコト」

「――――あ」

 

 忘れていた。イリヤを救おうと必死になったことや、夢に見た赤い荒野の印象が強すぎて、弓兵の一撃を受けた肩を完全に失念していた。

 士郎は恐る恐る傷の負った場所に手をやり、首を傾げる。

「痛くない……?」

 触れるだけだった手を服の下に潜り込ませるが、やはりそこに痛みはなく、そも傷自体が塞がっているようだった。

「遠坂、治してくれたのか?」

「まさか。と言うか本当になんともないの……?」

 

 信じられないのか、驚き混じりに聞き返してくる凛。

 それに答えたのは士郎ではなく、その隣で難しい顔をしていた少女だった。

 

「大丈夫よ、リン。私がちゃんと治したんだもの。正確に言えば魔力を込めただけなんだけどね」

「イリヤ?」

「シロウの身体の中にあるソレは、元々アインツベルンのものなの。キリツグが瀕死のあなたを救うためにはソレを活用するしかなかったんでしょうね」

 

 淡々と、自らに言い聞かせるようにそう言って、少女は立ち上がった。その場にいる全員の視線を涼やかに流し、イリヤは柔らかな、まるで母親のような微笑を浮かべ士郎を見やる。

 

「じゃあシロウ、私、もう行くね」

「あ、ああ。そうか」

 送ろうと立ち上がる士郎を、イリヤはやんわりと押し留める。

 

「大丈夫。一人で帰れるもん」

 

 そうして少女は恥ずかしげに頬を赤らめ、

 

「それに私、シロウのお姉ちゃんなんだよ? 弟に心配されちゃ駄目でしょ?」

 

 早口でそう言って、止める声を掛ける間もなく居間を出て行った。

 たたたー、と廊下を走る音を聞きながら、士郎はぽつりと呟く。

「イリヤ……なんの為に来たんだ?」

 少女がしたことはといえば、ただ自分の話を聞いただけ。

 別段何を問われたわけでも、求められた訳でもない。

 首を傾げる士郎に答えたのは、沈黙を守っていた弓兵だった。

「愚鈍だな、小僧」

「なんだよ、いきなり。おまえにそんなこと言われる理由はないぞ」

「たわけ。本当に分からないのか」

 弓兵は呆れながら顔をしかめる。

「……イリヤはきっと、お前の本意を確かめたかっただけだろうさ。何故自分を守ったのか、何故自分を姉と呼んだのか、ということをな」

「なんで、って――――それこそ、答えようがないんだけどな」

 呟いた言葉は、紛れもない本心。

 何故イリヤを姉と呼んだのかといえば、イリヤが姉であったからに過ぎない。

 イリヤが切嗣の子供であったという事実を知っている。だから多分、敢えて言うならそれが理由。

 アーチャーはふん、とつまらなそうに鼻を鳴らす。

「時に小僧。腕を見せてみろ」

「え? なんでさ」

「くどい。二度も言わせるな」

 首を傾げながら、それでもアーチャーに歩み拠る士郎。

 と、その行く手をセイバーが遮った。

 セイバーはあくまで自然体。構えもしなければ、敵意を示しもしない。だがその視線は、静かにアーチャーを貫いていた。

 

「あらアーチャー、私のマスターに何か御用?」

「ああ。不本意だが、凛の命令でな。残念ながら従うしかないわけだ」

「ちょ――――黙ってなさいって言ったじゃない、アーチャー」

 

 溜息混じりに愚痴る凛。

 アーチャーは、自分のマスターを完全に無視したように肩を竦めた。

「私も、できるならここでこの小僧の首を跳ね飛ばしたいのだがな。うまく行かないものだ」

「……まあ、信じましょうか」

 底の知れない笑みを浮かべ、セイバーが下がる。

 士郎は改めてアーチャーに歩み寄り、包帯の巻かれた左腕を差し出した。

 弓兵は包帯を解こうとして、ん、と眉をしかめる。

「小僧。包帯、解いたか?」

「ん? ああ。具合を見ておきたかったからな。分かるのか?」

「当たり前だ。誰が手当てをさせられたと思っている――――どうした小僧。いきなり頭を抱えて」

「あー、いや、なんでもない。気にしないでくれ」

 意識の隅で期待していた、凛に看病される自分というものが音を立てて崩れる。

 士郎は頭を振って気持ちを切り替えたが、アーチャーは傷を見ながら、

 

「どうせ凛が看病したとでも考えていたのだろう。浅ましいな」

 

 なんてコトを、はっ、と笑いながら言ってくれる。

 

「あら衛宮くん、期待しちゃった? ごめんなさいね」

「仕方ないわよ。マスターだって男の子だもの」

 

 ここを突かずに何処を突く、とばかりに言ってくる凛とセイバー。

 二人の呼吸は泣きたくなるくらいにぴったりで、逃げ出したくなるくらいに容赦なかった。

「う――――糞、悪いかよ」

 アーチャーに腕をつかまれているのでどうすることも出来ず、負け惜しむ士郎。

 アーチャーはしばらく傷を見たあと、なるほど、と頷き、成れた手つきで包帯を巻き直した。

「どう? アーチャー」

「問題はない。神経は無事だし、骨も無傷だ。自然治癒に任せれば綺麗に治るだろう。傷は残るかもしれんがな」

「そう。じゃあ問題ないわね」

 凛は満足そうに頷き、さて、と呟く。

 改めてこちらに向けられたその顔は、彼女が一流の魔術師であると主張して止まない醒めた表情。

 

「士郎、私から言わせてもらうわ。昨日、あなたが私に言い出したこと、覚えているわよね?」

「ああ、勿論だ」

「じゃあ、いまの状況が昨夜と何も変わっていないってコトにも、勿論気付いているわよね?」

「――――」

 

 静かに見据えてくる凛に、士郎は沈黙で答えを返した。

 そんな事実は、言われるまでもなく承知している。

 士郎は握り締めた拳をゆっくりとほぐしながら、ともすれば荒れかねない声を必死に制御し問い掛けた。

 

「桜、だろ」

「ええ。なにせあなたが倒れたんだもの。余力もなかったし、素直に中止にさせてもらったわ」

 

 先ほど聞かされた言葉を、一片の悪びれもなく凛は繰り返す。

 士郎は何か言おうとして、やめた。理性は、論理は、凛の意見が正しいと満場一致で認めている。

 それが自分だけなら無理も言うが――――自分の我侭が他人を巻き込むのは、絶対に嫌だった。

「ああ、分かった。遠坂の言い分は正しい」

「……やけに素直ね。もっと喰って掛かってくるかとも思ったけど」

 拍子抜けしたように言う凛。

「まあいいわ。それで、衛宮くん。改めて聞くけれど、あなたは昨日の言葉を繰り返すつもり、ある?」

「――――え?」

 思いもしなかった言葉に、士郎は小さく声を上げていた。

 凛は静かな瞳でこちらを見ながら、言葉の先を紡ぐ。

 

「だから、私との休戦。桜が見つかるまで、って話だけど、それをまだ続けるつもりがあるのかしら、と聞いてるのよ」

「――――ある。願ってもない話だ」

 

 こくり、と頷く士郎。その視線は凛の視線を真正面から受け止め、逸らす素振りすら見せない。

 しばしの沈黙。やがて凛は僅かに頬を緩め、

「そう。じゃあよろしくね、士郎」

 柔らかな微笑でそう言って、手を差し出してきた。

「ああ、よろしく頼む」

 士郎は上ずりそうになる声で答え、差し出された手を取った。

 

 

 

 握った手は、夢心地に握ったそれと同じように柔らかかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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