Fate / other
night
9 / boy and girl
扉の向こうに気配を感じ、士郎は組み上げていた設計図を打ち消した。
「――――仮定終了。是、即無也」
呪文を口に乗せ、額に浮いた汗を拭い去る。
深夜を迎えた土蔵にもとより明かりはなく、窓から差し込む月の光が世界を把握するための僅かな足がかりだった。
時刻は既に夜半過ぎ。全てがぼやけ、半分以上闇に染まった世界で士郎は気配の主を待つ。
しばしの沈黙があった。相手も、こちらが気付いたことを悟ったのだろう。
士郎は、地面に座り込んだまま相手を待つ。来ないなら迎えてやろうかとも思ったが、アイツにそんなことをする理由も無いな、と思い直した。
そうして、しばらくが経ったあと。
ゆっくりと、だがそれが当然とばかりの振る舞いで、屋根の上で見張りをしている筈の赤い弓兵が闇の土蔵に足を踏み入れて来た。
「何か用か?」
問いかけに、しかし弓兵は無言。
扉を一歩潜った地点で足を止めたアーチャーは微動だにせず、眉すら動かさないが――――その姿が、酷く、迷っているように感じられた。
「衛宮士郎」
ぽつり、と。アーチャーは、静かな、それこそ全てを見透かすような声で呟いた。
「おまえに尋ねる、衛宮士郎。お前は、お前は本当に――――イリヤスフィールのことを、覚えていたというのか?」
「? ああ、そうだ。それがどうかしたのか?」
何を今更、と士郎は返す。
その答えが決定的だったのか、アーチャーは、く、と顔をしかめて笑った。
「そうか。お前は、覚えていることが出来たのか」
呟いた言葉はどこか虚ろ。
それは、忘れ去った過去の汚点を顧みるような、そんな懺悔の響きを含んでいた。
「……なんだよ。それが、どうかしたって言うのか」
「どうもしはせん。単純な話だ。おまえがそうであったという、ただそれだけの話なのだからな」
顔を上げたアーチャーは、いつもの皮肉気な顔を浮かべていた。
「傷を見せろ、衛宮士郎」
「は? なんだよ、いきなり」
「いいから見せろ。手当てはしたが、よく見てはいなかったのでな。何故その傷だけが残ったのか、想像はつくが確信が持てない。なに、単に――――」
そうして、弓兵は僅かに口端を緩め、
「――――俺からの礼だ。よく、イリヤのことを覚えていてくれた」
「……?」
アーチャーの言葉は良く分からない。
イリヤのことを覚えているのは前提に近い当然で、切嗣からその名を聞いて以来、忘れた事など無い。
そんな些細なことを、何故、このサーヴァントはありがたいと感じるのだろう。
思考を廻しても、欠片も予想がつきはしない。
だが、アーチャーの振る舞いに敵意はなく、不思議と第一印象で感じた相容れなさも薄まっているようだった。
だから士郎は立ち上がり、左腕をアーチャーに突き出した。
アーチャーは包帯を外し、その下にある裂傷だらけの腕を闇夜に晒しだす。注意深く、それこそ士郎が物質を解析するときのような面持ちで傷を検分し、やがて小さく頷いた。
「やはりな。そういうことか」
「何がだよ」
尋ねる士郎にアーチャーは肩を竦めた。洗練された動作で包帯を巻きなおし、簡単な話だ、と呟く。
「衛宮士郎。おまえの中にはあるモノが埋まっている。それが何であるかは省略させてもらうが、その効力のおかげで、おまえは半端な不死性を持つはずだった」
「……ちょっと待て、話が掴めないぞ。なんだよそのあるモノって。それに不死性だとか、そもそも持つはず“だった”ってのはなんなのさ」
「煩い、黙って聞け。私がこうして話すこと自体が気まぐれなのだ。魔術師であるなら、この機会に少しでも多くの情報を得ておくものだろう?」
「む」
アーチャーの言葉に、士郎は難しい顔で沈黙した。
それを肯定と受け取り、アーチャーは言葉を続ける。
「おまえの中に埋め込まれたそれは、通常の状態ではただ“在る”だけだ。だがそれが発動すれば、宿主であるおまえを完全に治療する。それこそ半身を砕かれようと腕を断たれようとお構いなしに、だ」
「何だよそれ。人をまるでトカゲみたいに」
「大差はない。いや、即死でなければ何度でも蘇るのだから、トカゲより性質が悪い。実際、私が切りつけた傷は跡も無く綺麗に治っただろう?」
「まあ、確かにな」
頷いて、士郎は自分の肩に手を触れた。昨日傷を負った場所だが、触っても、強く握り締めても痛みなどない。アーチャーの言うとおり、綺麗に完治していた。
そういうことだ、と弓兵は頷く。
「それが衛宮士郎を守る唯一にして最高の盾だったのだが、だとすると腕の傷はなぜ消えないのかという疑問が残る。私は最初、後回しにされているのだと思ったのだが、どうやら違ったようだ」
「……分かるのか?」
「生憎と英霊でな。おまえの数倍、数十倍は知識を溜め込んでいる。いいか、衛宮士郎。複雑なことを言っても理解できないだろうから簡単に言ってやる」
「喧嘩売ってるのかおまえ」
「黙って聞け。何故おまえの中に埋め込まれたそれは腕の傷を癒さなかったのか。――――簡単な話だ。その傷は、傷として認識されていないだけだからな」
「……え?」
不思議と。
弓兵のその言葉が、酷く、腑に落ちた。
「傷とは、言うまでもないが、外部からの何かによって刻まれるものだ。つまり、」
「これは、内部からの何かによって刻まれた傷だっていうことか?」
恐る恐る、しかし確信を篭めての問いかけに、アーチャーは首肯した。
「そういうことだ、衛宮士郎。故にそれは傷として認識されず、鞘はそれを癒さなかった」
断言するかのようにそう言って、弓兵は身を翻す。会話はこれで終わりだと、その背中が語っていた。
「アーチャー。なんで、俺にそんなことを教えた?」
答えなど求めてはいなかった問いかけ。
しかし、いままさに扉を抜けようとしていたアーチャーは足を止め、
「――――なに。ただの気まぐれと、らしくもない感謝だ」
自嘲と苦笑混じりの声を返し、振り返ることなく扉を閉めた。
重い音がして、土蔵の中の闇が少しだけ深くなる。
士郎は左腕の包帯に視線を落とし、呟く。
「中から斬られた傷、か」
ああ、つまり、単純な話。
自分が夢で見たイメージは、間違っていなかったということだろう。
後ろ手で扉を閉め、やれやれ、とアーチャーは苦笑した。
扉から数歩離れ、つい、と空に浮かんだ月を見遣る。満月はとうに終わっていて、形は既に半月に移行しつつある。だがそれでも、形など無関係であるかのように月光は優しく、静かに降り注いでいた。
淡い明かりを浴びながら、アーチャーは皮肉気な笑みを浮かべた。
振り返ることもなく、ただ気配だけで、そこに居る者を知る。
「覗き見とはいい趣味をしているな、セイバー」
「あら、失礼ね」
当然のように帰ってきたのは、黒いコートを来たサーヴァントの声。
現界する気配を感じて振り返れば、背後に涼しい笑みを浮かべるセイバーが立っていた。
アーチャーは肩を竦める。
「なにを抜け抜けと。扉の影に隠れていたのは何処の誰だ」
「……まあ、サーヴァントは互いに無条件で気配が知れちゃうものね。ばれてて当然、か」
苦笑するようにセイバーは言い、息を吐いた。その振る舞いに敵意はなく、緊張すら含んではいない。いくら休戦中とはいえ、本来敵であるサーヴァントを前にしてその姿勢はどうなのか。
そう思い、く、とアーチャーは苦笑した。やれやれ、と小さく呟く。その考え方は本来自分ではなく、彼女が持つべき真っ直ぐで、しかし融通の利かない一本気質なものだ。
「あら、どうしたのアーチャー。いきなり笑いだして。思い出し笑い?」
「まさか。――――それで、何の用だ、セイバー」
つい先程、衛宮士郎から掛けられた問いをセイバーに掛けなおす。
セイバーは、別に、と嘯き空を見上げた。つられて顔を上げれば、その先には半端に欠けた、だが輝かしい月がある。
「少し、暇なの。よければ話さない?」
届いた誘いは、考えるべくもなく言語道断。
自分たちは本来敵同士であり、いまは微妙な均衡の上に敵対していないというそれだけの間柄の筈だ。
その筈だが、多分、月があまりに綺麗だったからだろう。
「――――悪くないな」
そんな、柄にもない答えを返していた。
セイバーが雑談の会場に選んだのは、衛宮邸の屋根の上だった。
アーチャーは凛に命じられたように見張りとして腰を下ろし、背中合わせになるようにしてセイバーが座った。
呆、とどちらでもなく息を吐く。
僅かな沈黙が流れ、それを破ったのはセイバーだった。
「いったいどういう風の吹き回し? あなたが私のマスターの手助けをするだなんて」
「――――聞いていただろう? あの言葉の通りだ。あの小僧はどうやらイリヤのことを覚えていたらしくてな。それを、少しだけ、認めてやったに過ぎん」
「なるほど。まあ、あなたがそう言うなら事実なんでしょうね、アーチャー」
「ふん。……ところでセイバー。君は、士郎の告白についてどの辺りまで知っていた?」
背後で、僅かセイバーが考え込むような気配を示した。
やがて返ってきたのは、弱い苦笑を含んだ答え。
「ほぼ全部、ね。マスターが前回の聖杯戦争の被災者だっていうコトも、衛宮切嗣の本当の息子じゃないってことも知ってたけど……イリヤが切嗣の娘だっていうのは、知らなかったわ」
「――――なるほど」
呟き、頷く。
でもね、と続く声が聞こえた。
「多分、教えてくれなかったんじゃなくて、本人も忘れてたんでしょうね。でなくちゃあんな重要なこと、言わない筈がないもの」
「ああ、同感だ。しかし、セイバー」
「なにかしら?」
「その“教えてくれなかった”人と言うのは、君のマスターのことかな?」
返事として返されたのは沈黙。
沈黙ではあるが、苦笑しているような、そんな柔らかい気配を纏った無言であった。
「さて、どうかしらね」
ややあって届いたのは、いつも通りのセイバーの声。
「想像にお任せするわ」
「そうか」
頷けば、また沈黙が横たわる。
アーチャーは、明かりの乏しい夜景を眺めながら、記憶に燻る少女に思いを馳せた。
青い衣、白銀の鎧を身に纏い、不可視の剣を自在に振るう可憐な騎士。磨耗し、麻痺してしまった記憶の中で、風化しながらも朗々と存在を叫ぶその記憶。
おそらく。
どれほどの時間が経ったとしても、どれほどの絶望を抱えたとしても。
彼女の記憶だけは、絶対に失うことがないだろう。
アーチャーはその確信を抱き、
「――――トオサカ・リン」
小さな声でそう呟き、
「――――エミヤ・シロウ」
小さな声の呟きを聞いた。
く、と弓兵は苦笑し、はは、と騎士が苦笑する。
「どうしたの、アーチャー。突然マスターの名前なんて呼んで」
「その言葉、そのまま返そう。マスターが恋しくなったのかね?」
互いの言葉は、おそらくは形だけ。
アーチャーは、やれやれ、と、随分と久しぶりに肩の力を抜いた。
「お互い、厄介なマスターで大変ね?」
「違いない」
セイバーの言葉に苦笑で返す。
背後でセイバーが立ち上がる気配を感じた。肩越しに振り返れば、黒いコートを靡かせたセイバーはこちらを見下ろしながら、顔に笑みを浮かべている。
その笑みが、彼のマスターの笑顔と酷く似ていたからだろう。
「セイバー」
縋るような声で、問いを発していた。
「君はどうして、英霊の道を選んだんだ?」
セイバーは笑う。
なんて愚問、と、心の底からの笑顔で笑った。
「勿論。聖杯を手にするためよ」
「何故」
「無論。叶えたい夢があるからよ」
セイバーの言葉に躊躇いはない。
否、それこそ愚問。
この女性が、自身の決定に躊躇いなどするものか。
セイバーは話は終わりとばかりに身を翻し、屋根の端に移動する。
瓦の淵で足を止め、しかし、セイバーは再びこちらに向き直った。
「ねえ、アーチャー」
言葉は歌うように。
夜の空気を震わせて、静かに耳に届いた。
「あなたは、何のために英霊になったの?」
「――――それは」
答えるまでもない質問。
この女性ならば、当然のように知っているだろう理由。
「何故?」
こちらの答えを待たず、セイバーは先の自分の質問を繰り返す。
「――――」
答える必要などない。
否、答えることなど出来はしない。
必死に掲げ、意地で守り通し、死後に折れた志など――――どうして、憧れた女性に吐露できようか。
アーチャーは無言のまま、僅かに目を伏せた。
言葉はなく、しかしそれは紛れもない返答。
セイバーが肩を竦める気配がした。彼女は、黒いサーヴァントは静かな非難の声を上げる。
「だらしないわね、アーチャー」
「なん――――だと?」
思わず、声を上げていた。
弓兵は座ったまま、眉を怒らせセイバーを睨む。
セイバーは肩を竦め、冷めた瞳でこちらを見遣る。
「あなたが英霊になって何を見たかは知らないわ。でもね、予想はつく。私だって似たようなものを見てきたもの」
英霊の座についた者は、客観的な時間から追放される。何時英霊になったのかを無視し、過去未来を問わずありとあらゆる時代に召喚され、始末を押し付けられる。
けれど、それはあくまで客観的な時間での話だ。自身を観測者とする時間経過、即ち主観時間は当然のように時を刻み、日を数える。
いま過ごす一日も、過去に過ごす一日も、未来に過ごす一日も、みな同一。
ならば、自分が百の千の戦場を越えて磨耗したように、彼女も百の千の自滅を目の当たりにして挫折してもいい筈ではないのか。
そんな思いのアーチャーを切り捨てるかのように、セイバーは朗々と告げる。
「私はね、アーチャー。決めたの。決意したの。誓ったの。例え英霊になって酷い光景を見たとしても、例え救いがない破滅を万と迎えたとしても、絶対に諦めないって。絶対に後悔しないって。目的の為なら、目を覆うような悲惨な世界を延々と見たって厭わないって。その私が、たかが百や千や万や億や兆の絶望如きで挫ける筈がないでしょう?」
「――――」
アーチャーは息を飲む。
その、余りに不遜で厚顔な物言いが、自分では決して届かない高貴さだと悟ったが故に。
「セイ、バー」
弓兵は騎士の名を呼んだ。
百の確信と、僅かな希望を篭めて、その問いを発した。
「君は、英霊となったことに、一片の後悔も抱かないと言うのか」
答えは明快にして単純。
「ええ。私は生まれてこの方、ただの一度も後悔したことなんてないわ」
セイバーは静かに断言し、そして風に乗るかのように世界に解けた。
一人残され、アーチャーは奥歯を噛み締める。
(後悔したことなんて、ない)
その言葉は鋭い刃となり、剣でできている筈のこの身を切りつける。
否。剣で出来ているのはあくまで身体であり、心は、おそらく柔で脆弱なあの日のままなのか。
アーチャーは拳を震えるほどに握り締め、そして放した。血の気の引いた手の平に視線を落とし、
「――――無様だな、衛宮士郎」
泣きそうな声でそう言って、屋根の上に仰向けに寝転がる。
空には綺麗な月が浮いていた。