Fate / other night

 

 

              10 / a Piece of Conscience

 

 

 身体が熱かった。

 

「あ――――は――――」

 

 ぞくりとする。篭もった熱は小指の先まで行き渡り、吐息に混ざって放出される。頭喉胸腕腹腰足、熱は蛇のように渦を巻きながら身体の内側を這いまわる。

 狭い部屋だった。明かりの差し込む個所など一つもなく、部屋全体は一辺倒の闇で占められている。空気の流れすらなく、闇は闇と彼女の吐息を混ぜ淀んでいた。

 

「は――――あ――――」

 

 うなされる。まるで悪夢を見ているみたい。

 朦朧とした意識のまま、桜は身を捩った。身体に溜まる熱を排出しようと試みて、身体が自由にならないことを確認する。両腕は手首を括られ掲げ上げられ、背中に感じるのは冷たい土壁の気配。

 

「あ――――あ――――」

 

 疼いている。身体に篭もった熱が、間桐桜という人間の本質に囁いている。

 うなされ続けたその瞳は既に虚ろ、理性はとっくの昔に麻痺している。

 

「や――――ぁ――――」

 

 何を呟いているのか。混濁した意識は、そんなことすら理解できない。

 この闇に時間はなく、故に終わりもない。

 身体に篭もった熱はいつしか快感に代わり、彼女の意識を埋め尽くしていた。

 

「い――――ゃ――――」

 

 熱が。ずくりと。どくどくと。

 呼吸のたびに熱は篭もり排されまた満ち、身体の中を隅々まで刺激する。

 認めよう。

 その未知の、しかし当たり前の感覚を、間桐桜は快感と認識している。

 身体の中で何かが膨らんでいく錯覚。

 飢えていた身体が意識が理性が本能が、本当の自分を取り戻す実感。

 

 どれだけの闇が流れたのか。

 闇と吐息だけが渦巻いていた暗所に、音もなく、まるで亡霊のように女の顔が浮かぶ。

「ぁ――――?」

 見覚えのある顔に、桜は、桜の崩れかかった意識は、僅かに反応を返した。

「ようやく目が覚めたのね」

 愉しむように呟かれた言葉は、それ自体が愛撫のように桜の首筋を刺激する。

 桜は思考する。濁流に翻弄される小枝のような意識で、辛うじて思考回路を走らせる。

「身体の調子はどうかしら? お嬢さん」

 

 この声。

闇に浮かび上がったその姿。

目深に被られたローブ。

覗く口元に浮かぶ笑み。

ああ、

 

「キャスター――――」

 

 七騎のサーヴァントが一騎、キャスターに他ならないではないか。

 桜の呟きを受け、キャスターはくすりと喉を震わせる。

「あらあら、そんな顔をしたら駄目よ。可愛らしい顔が台無しじゃない」

 弄るようなキャスターの声。

 桜はなけなしの理性を全てつぎ込み、目の前の魔術師を凝視する。

「ライダーは、ライダーをどうしました」

「殺したわ。そんなの、聞くまでもないでしょう?」

 返された言葉は当然過ぎて、怒ることさえ出来なかった。

「ねえライダーのマスターさん、お名前を聞かせてもらえるかしら?」

 謳うように言いいながら、キャスターの細腕が桜の頬を撫でた。

 繊細な指の冷たさに意識を失いそうになりながら、しかし桜は辛うじて拒否を表明する。

「なんで――――わたし、が――――」

「あら、そんな悲しいこと言わないでちょうだい」

 キャスターの指が桜の顔の造型をなぞる。焦らすように、満たすように、撫でるように、触るように、暴くように、蹂躙するように。柔らかい指の腹と硬い爪の先が交互に肌を這い、そのたびに桜はイきそうになるのを必死で我慢する。

 キャスターが手の平で桜の顔を持ち上げた。顎骨に手を添え、指先を頭蓋骨との関節に宛がう。親指が瞳に迫り、思わず閉じた瞼の上から遠慮なく眼球を圧迫される。

「あ――――いや――――」

 洩れた拒否の言葉は、しかし自分に嫌悪を抱くほど快感に染まっていた。

 ぐりぐりと。潰そうと思えば一瞬で潰せる眼球を柔らかに抑え、もう片方の瞳を微笑みで見つめながらキャスターは言う。

「私は可愛らしい女の子が大好きなの。だから、貴方を殺そうとは思わないわ。例え貴方がマスターであったとしてもね」

 冗談のような言葉に篭められていたのは、しかし、本音の響き。

 桜は訳がわからなくなり、結果、キャスターのもう片方の腕がどうなっているのかに気付かなかった。

 

「ぁ――――!?」

 

 ずくりと。突き上げるような痛みと快感が共に脳を揺さぶり、桜は小さな悲鳴を上げる。

 見れば、キャスターの腕が桜の胸を、下から掬うように掴み上げていた。

「ああ、もう、本当にかわいい子。なんていい声で鳴くのかしら」

 心から愉しむような声で呟きながら、キャスターは服の上から無遠慮に胸をまさぐる。

 伝わる刺激は全て快感に変換され、理性に牙を剥いた。辛うじて保たれていた理性が、目の粗い金鑢に掛けられたかのようにごりごりと削られていく。

 あ、と桜は息を吐いた。身体を支えていた足から力が抜ける。このまま倒れ込めたらどれだけ楽だろう、とぼんやりと思うが、縛られた両腕はそれを許さない。腕で吊るされる形になり、肩に鈍い痛みが走った。

「でもね、私、嘘は言ってないわよ、お嬢さん」

 キャスターの愛撫は、否、蹂躙は続く。桜の身体に、もはや抗うだけの体力が残っていないと見抜いた上で、魔女はその指を止めようとはしない。

「う――――あ――――、は」

 理性がぼろぼろと崩れ去る。力なく開いた口端から、たらりと唾液が溢れて垂れた。

 糸を引いた唾液はキャスターの腕にかかり、それを見て魔術師はふふふと笑う。

「私はかわいい女の子が好き。だから、かわいい女の子が弄ばれているのは我慢ならない」

 桜の唾液を舌で拭う。胸を弄んでいた手を離し、改めて桜の胸を鷲掴みにする。

「い、いたい――――!」

 細い指から伝わる万力のような力に、桜は泣きながら悲鳴を上げる。

 力任せに胸の形を変えながら、キャスターは桜の耳元で唄うように呟いた。

「ねえお嬢さん、私はね、貴方が気に入っているの」

「やめ――――止めてください、お願いします――――」

 涙で瞳を潤ませながら、痛みに顔を歪めながら、か細い声で桜は鳴く。

 そんな少女の懇願を無視して、キャスターは淡々と言葉を紡ぐ。

「ねえお嬢さん、幸せになりたいと思わない? 弄ばれたままで終わりたくはないでしょう? ねえお嬢さん、分からない? 貴方の身体の異変に、まだ気付かない?」

「あ――――」

 訳がわからない。

 痛みと、痛みと痛みと痛みと痛みと快感に意識を揺さぶられながら、身体を支配する熱が一層深みを増し密度を濃くする。

 キャスターは指の動きを止めない。力任せに桜の胸を揉みしだき、逆の腕の人差し指で桜の唇を薄くなぞる。

 

「ねえお嬢さん、もう気付いてもいい頃でしょう? その為に三日も待ってあげたんだもの」

「――――」

 

 声はただの吐息となって闇に洩れた。

 ずくり、と身体の芯が疼くような感覚。

 身体の隅々が、行き渡った熱に歓喜しているのが知れる。

 

 熱が。熱が。熱が。

 

 意識を侵食する熱が。

 身体を蹂躙する熱が。

 熱が。熱が。熱が。

 

 世界が満たされるような幻視。

 空だった身体に肉が詰め込まれるような快感。

 

 熱が。熱が。熱が。

 

 ああ、そう、これは快感。

 紛れもない充密感、間違いない満溢感、嘘偽りなしの達成感。

 

 熱が熱が熱が。

 

 ずぶり、という音を皮膚で聞いた。

 既に思考すら虚ろ。

 

熱が。

 

キャスターの細腕が胸の中に沈んでいる。

 

「ええ、そうねお嬢さん、やはりこういうものは目の当たりにしてこそのものでしょう?」

 

 耳元で誰かが笑う。

 潜り込んだ指に不思議と痛みはなく、その代わりに内蔵を掻き回される嫌悪感を伝えてくれた。

 

 熱が熱が熱が。熱、が?

 

 暴かれる。間桐桜を間桐桜としていたものの全てが、いま暴かれ陵辱される。

 

 熱? 否、これは、

 

 身体の隅々まで熱が行き渡っている。身体全体が性感帯になってしまったかのような錯覚。首筋に掛かるキャスターの吐息が密のように甘く、小鳥の羽のように首筋を撫でる。それだけで何度気を飛ばしてしまったのだろう。

 内蔵を直に掴まれている感覚。嫌悪感は快感と混ざり合い熱に融け意識を浸した。

 

 

 熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が熱が。

 

 

 キャスターの指が最後の壁を越え、身体の中で何かを掴んだ。

 

 ――――否。これは、つまり。

 

「だから、ほら、お嬢さん」

 魔女の声は天使のように狡猾で悪魔のように優しく。

 

 

 

 

 ――――魔力(ねつ)、なのか。

 

 

 

 

 口の端を上げ、紛れもない微笑で魔女は告げる。

「そろそろ自由になりなさい」

 そして、キャスターは桜の心臓に巣食う小汚い蟲を引きずり出した。

 内臓が全て外に引きずり出されるような嫌悪感。

 食道を無視して喉元まで込み上がった吐気は、しかし身体を埋める魔力の前に薄れて消えた。

「どうかしら、お嬢さん。身体に魔力が満ちるのは初めて?」

 優しい声でそう言って、ローブの魔術師は手の中の蟲を潰した。

 聞き覚えのある絶叫が上がった気がしたが、霞掛かった意識では何も分からない。

 手の中の残骸を地面に投げ捨て、キャスターは顔を覆うローブに手をかけた。

「ねえ、お嬢さん」

 闇より暗かった衣の下から現れたのは、仮にそれが偽りだとしても、穢れた自分には直視できないほどの慈愛に満ちた微笑の女性。

 ぼんやりと。桜は目を逸らす気力すらなく、自身を救った女性を見上げた。

 魔術師の唇が、聖句を紡ぐように言葉を編んだ。

「名前を、教えてもらえるかしら?」

 その声は間違いなく清浄で、何処までも透明だったが故に。

 桜はあらゆる危機意識を排斥し、

 

「――――遠坂、桜」

 

 死地に赴く咎人の如く、その罪を懺悔していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 男は一人静かに座していた。

 私物というものを尽く省いた畳張りの小さな部屋。電灯が酷く場違いに天井から吊るされていた。がらんとした空間は、来訪者に実際以上の広さを錯覚させる。部屋の在り方が持ち主の心象世界であるというのなら、この場合それはどちらを差すのだろうか。無欲を体現する無色か、それとも何も無いが故の寛容か。

 柳堂寺の一室に逗留する男。

名を、葛木宗一郎という。

 宗一郎は部屋の中心で座禅を組み瞳を瞑り、言葉の通り無心で時を過ごしていた。生命活動に最低限必要な諸々の動作を除けば、その身体はぴくりとも動いていない。これならばまだ、眠る赤子の方が人間味があるだろう。事実、こうしている宗一郎を見て慌てた僧の数は決して少なくない。

 

 どれほどの時間が流れたか、やがておもむろに、そして当然のように宗一郎は目を開けた。壁の時計が昼過ぎを指していることを確認し、次いで背後、襖を見遣る。

「キャスターか」

 呼びかけに疑問の響きはなく、ただ事実を述べているだけの客観性が其処にはあった。

「はい、宗一郎様」

 

 返事と共に背後の空間が歪み、染み出るような闇と共に法衣を纏った女性の姿が現界した。宗一郎はキャスターに向き直り、静かに問いを発する。

 

「間桐の様子はどうだ?」

「先程目を覚ましました。まだ自失状態ですが、いずれ我を取り戻すでしょう」

 口元に笑みを浮かべたまま、それでも心からの誠実さでキャスターは告げた。

 その言葉に嘘はない。ライダーのマスターである間桐桜が目を覚ますまでに数日掛かったのは真実だし、自失状態であるのも現実。また暗示を掛けたわけでもないので、彼女が我を取り戻すのもそう遠い話ではないだろう。自己調整は魔術師に求められる基本としての技術だ。歪ではあるものの、桜は一人前と呼んで差し支えない魔術師である。早ければ一時間もしないうちに理性を再構築するだろう。

 キャスターの言葉に、宗一郎は特別何も返さない。頷きもしなければ相槌を打つことも稀だ。それはとうに知れたことで、キャスター自身把握している。

 この会話はこれで終わりになるだろう、とキャスターは僅かに憂いた。何事にも無関心そうで、欲など、感情など何もないと語るような宗一郎は、こちらが問わねば、求めねば、それがただの言葉であろうと与えてくれはしない。

 だから、キャスターは宗一郎の瞳で己の寂しさを紛らわす。声が、言葉が与えられぬなら、その視線だけでも存分に感じよう。誰がなんと言おうと、たとえ宗一郎がどのような価値観でこの身を把握していたとしても、その双眸がいまこの瞬間収めているのは自分一人だけなのだから。

 キャスターは宗一郎の無色の瞳に安らぎを感じ、そんな自分に胸のうちで苦笑した。

 

 いったい。

 いつの間に、自分はこれほど弱くなったのか。

 

 声を聞かせてくれと望み、それを口にすることなく恥じる。

口に出すのが恥ずかしいわけではない。

 ただ、宗一郎に、自分がそんな弱い人間だと思われるのが、身を切り裂かれるほどに嫌だった。

 

「キャスター」

「――――え?」

 

 故に、キャスターは驚きの声を上げていた。全てを映し、何も捕らえず、だが自分に向けられている視線を真っ向から見返し、声を上げていた。

 必要がなければ一言たりとも喋らぬこの男が、なぜこの瞬間、自分の名を呼ぶ必要があるというのか。

 キャスターは呆然としたまま宗一郎の顔を見、

 

「怒っているのか」

 

 真理を語る哲学者のような声に、その場に崩れ落ちそうになった。

 

「怒ってなどいません」

「そうか」

「いいえ。その通りです」

 

 何故。訳がわからない。

 キャスターは弱々しく返答し、弱々しく俯いた。

 

 怒っている? 何に。

 怒っている? どうして。

 

 ――――ああ、答えなど一つ。

 

「魔術師、遠坂桜は利用されていました。自身を束縛され、自由を蝕まれ、思考を与えられていませんでした」

 

 認めるしかない。

 自分は、その事実に激しい、怒りとすら認識できないほどの怒りを覚えている。

 同じように自身を束縛され、自由を蝕まれ、思考を与えられなかった歴史を持つキャスターは、自身と同じ境遇にある桜に憐憫を感じ、桜をその状況に陥れた全てに憤りを覚えている。

 

 

「だから生かしたのか」

「はい」

「マスターは殺すのではなかったのか」

「はい」

「生かしたいのだな、彼女を」

「――――はい」

 

 それは問答ではなく自問。

 理性と論理で固めていた、本当の意味での動機を暴く光明めいた言葉の交換。

 だが、いや、だからこそ。

 自分の返事に嘘偽りは無いと、マスターを、宗一郎を見る。

 宗一郎は相変わらずの無表情、無色の瞳のままで、

「そうか」

 と小さく呟いた。

 

「宗一郎様?」

「どうした。何かあるのか?」

 

 あるに決まっている。

 純粋な我侭で桜を生かそうとしている自分の不義理とか、殺すべき魔術師に何の枷も着せようとしない自身の愚かさとか。

 考えれば掃いて棄てる程出てくる問題点を、しかしキャスターは飲み込んだ。

 何故なら。

 この男が、その問題点全てを理解した上で、先の許諾を下したのだという確信があったから。

 キャスターは弱々しく、同時に清々しい声で、

 

「感謝します、マスター」

 

 心からの言葉で感謝を伝え、深く深く頭を垂れた。

 

 

 

 

 

 暗闇の中、桜は自身の身体に満ちる魔力を感じていた。

 既に束縛は解かれている。自由になった四肢をいとおしく感じ、服が汚れることなど気にせず地面に座り込み、背後の土壁に背中を預ける。

 目を閉じ世界の暗闇に拍車を掛けて、二三度手を握る。身体を火照らせていた熱は既に引き、代わりに身体全体に僅かな気だるさがある。回路が許容できる魔力量の半分から六割ほどの魔力が身体に満ちているだけなのだが、常に枯渇状態であった回路はその状態に慣れてしまっていた。いまの容量が本来あるべき量だというのに、それを持て余しているのだ。

 その状態を再認識し、桜は息を吐いた。悲観でなく、疲労でもなく、諦観でもなく、なんでもないただの吐息。

 ん、と呟き目を開ける。開いた先には相変わらずの闇。

 闇ではあるが、それでも、桜はそれを新鮮に感じた。新鮮に感じることが出来た。

蟲が居ない。

この身体に巣食い、神経に癒着し、既に一つのものとなったいた蟲が、尽く排除されている。

 誰の仕業かと言えば、間違いなくキャスターの所業だろう。あれほど時間を掛けて強固に結ばれた蟲との関係を、これほど後腐れなく排除できる存在などあの魔女を置いて他に居るまい。

 桜はまた息を吐き、闇を見つめ、己の胸に手を当てた。布越しに伝わってくる鼓動に異常はなく、違和感と感じられずにいた違和感すら既にない。

「救われたんだ、私」

 夢のように呟く。

 心臓の中に本体を置いていた祖父。忌々しい蟲遣いの妖怪。

 キャスターによって引きずりだされたそれが潰される様を、桜はしかと覚えていた。

(何故)

 呆然と、或いは当然と。その疑問を抱く。

 魔術師の基本は等価交換だ。何かを求めるなら、何かを差し出さなければならない。確かに物の価値は主観によって左右されるが、絶対の客観性を求めらる魔術師にとってその程度の揺れは誤差の範囲でしかない。

 ならば。

(私は救われた)

 手に入れたのは自由、手放すことを許されたのは間桐の血。

 ならば、自分はいったい何を差し出せばいいのだろう。

 客観的に見て、この報酬に見合うだけの代価は、いったいなんだというのだろう。

 何もない、仮初とはいえ家族すら失った自分に、果たしてどれだけのものが差し出せるというのだろうか。

(分からない)

 考えれば。考えれば考えるほど、解答は霞み正解は薄れ真理は遠のく。

 キャスターは、あの魔女は、全てを失ったこの私に何を望むというのだろうか。

 暗闇の中で桜は考え、考え、考え、正解を求めるのを棄却した。

 

 否、解答の模索を中止せざるを得なかった。

 

「気分はどうかしら?」

 僅かに開いた扉から、夕暮れの光が差し込んでいた。

 随分と久しぶりな感のある光に目を細めながら、桜はここが物置のような場所だと知る。

「やはり優秀ね。もう自我を取り戻したの?」

 夕陽を背負い、逆光に姿を隠しながら、ローブ姿の魔女が近づいてくる。

 その足取りを眺め、薄い笑みを浮かべた顔を見て、桜は問いを発した。自分では届かなかった、その答えを求めて。

「どうして、私を助けたんですか?」

 掠れた問いかけに、しかし、キャスターが足を止めた。

 魔女は笑みを苦笑に変え、其処に自虐の色を混ぜる。

「そうね。貴方自身は、どうしてだと思う?」

「わかりません」

 不思議なほど素直に、桜はそう答えていた。

 首を振り、俯き、仰ぎ、己の心境を素直に告白する。

 

「わかりません。あなたには、私を助ける必要なんか無い筈です」

「ええ、無いわね」

「私を助けることによる利益も無い筈です」

「ええ、無いわね」

「なら、私に何を望むんですか。私に何を求めるんですか」

 

 淡々と、桜は。

 感情の欠落した、全てを諦めた、人形のような顔で。

 

「――――何のために、私を利用するんですか」

 

 死んだ兄を思い出し。

 死んだ祖父を思い出し。

 感情の欠片も無く、しかし泣くような声でそう問うていた。

 魔女は何も答えることはなく、ただ、僅かな動作で手を差し出した。

 赤く染まった手を見返す桜に、キャスターは言う。

 

「私はあなたに何も求めないわ」

 

 それは朗々と、謳うように。

 

「私はあなたに何も求めない。あなたを助けた代価なら、私の自己満足というそれで十全」

 

 それが全てと、其処に嘘はないと断ずるように。

 

「だから、いま、あなたが選びなさい、魔術師・遠坂桜。私は何も求めない。あなたが聖杯戦争に関わらないというのなら、私はあなたを逃がしてあげる」

 

 苦笑と自虐と、だがしかし、確実な誇りと満足を笑みに浮かべて。

 

「けれど魔術師・遠坂桜。あなたがいいと言うのなら、私に手を貸しなさい」

 

 そうして、キャスターは僅かに位置を移動した。

 開かれた扉のその向こう、赤く染まった世界と、薄暗い闇の中で手を差し出す自身とを対比させるように、僅か横に逸れた。

 桜はキャスターを仰ぐ。

 これが最後と、問うた。

 

「何故、私を助けたんですか?」

 

 魔女は答える。

 

「別に。気に喰わなかっただけよ」

 

 その言葉は苦笑に混じり、だがしかし、嘘偽りを一部たりとも含まぬ絶対の誠実。

 

 

 

 

 

 

 だから、桜は、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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