Fate / other night

 

 

              13 / Their View

 

 

 彼女は泣いていた。

 泣いて、泣いて、泣いて、泣いて、泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて、そして顔を上げた。

 どれだけ泣いていたのか、その瞳は赤く充血している。

 彼女は戦場後の荒野で男の亡骸を胸に抱いたまま、頬を濡らし、しかし毅然とした表情で空を仰いだ。

 戦場を照らす夕陽は、世界と同じように彼女たちの身体を黄昏に染め上げている。

 

「――――世界よ」

 

 毅然とした顔で。厳しさだけを持つ、自らの決定を微塵も疑わぬ表情で。

 彼女は空を仰ぎ、世界に交渉を持ちかけた。

 

「世界よ、私に力を貸しなさい」

 

 男は死んでいる。息絶えている。絶命している。

 彼女はそれを認めなかった。否、認めた上で否定した。

 一言で言ってしまえば、許せなかったのだ。男の背負っていた歪んだ理想も、男が忘れ得なかった少女の面影も、それを踏まえた上で男への想いを信じられなかった自分自身も。

 許せない。許せないから、叱ろうと思う。変に曲がった価値観を叩きなおし、自分が幸せだと、幸せになっていいと認めさせてやる。

 そのために、男は生き返る必要があった。否、生き返らせる必要が、だ。

 死体蘇生は魔法の領域である。それだけでも大事だというのに、彼女の家系は平行世界干渉という第二魔法の系譜。しかも、それすら他人の力を借りねば使えないという不十分さだ。いまこの瞬間から死体蘇生を求めたとしても、その魔法に辿り着くのは何十世代向こうの話になるのだろう。無論、何百という世代を重ねても辿り着けない可能性の方が大きい。

 だが、彼女は知っていた。心当たりがあってしまった。

魔法に限りなく近い現象を引き起こす反則の道具。彼女の生地に出現する、聖杯という名の願望機。

それが存在することを、彼女は笑いたくなるほど知っていた。

 故に。

 選択肢など、一つしかない。

 男を抱きしめた腕に力が篭もる。

 ぬくもりの消えた亡骸を抱きしめ、絶対に離さぬと体現しながら、彼女は世界に語りかける。

 

「世界よ、私に力を貸しなさい」

 

 それは、考えるまでもない、無謀な言葉。

 女一人の悲しみで動くほど世界は優しくないし、軽くもない。

 そんなことは、百も承知している。

 

「私に力を貸しなさい」

 

 けれど、それが何だというのか。

 世界というのは自分を中心に置いた価値基準だ。それ以上ではないし、それ以下でもない。

 仮にそれとは違う“世界”が存在したとして、だからどうしたというのか。

 彼女は彼女の価値観によって世界を支配している。

 故に、動かないというのなら脅迫してでも動かすだけだ。

 

 

「私に力を貸せ!」

 

 

 たとえ、その選択が終わりの見えない茨の道であったとしても。

 

 

 

 結論から言えば、世界は彼女の呼びかけに応じた。いや、それを呼びかけと評するのは、少し穏便に過ぎるかもしれない。

 彼女は彼女の価値観を武器に、世界というものを脅迫したのだ。

 勿論、脅迫されたからといって動く程度のものを世界とは呼ばない。世界はあくまで全てに無慈悲で平等に優しいのだから。

 ならば、何故世界は彼女を英霊と据えたのか。

 その疑問に対する答えは、一つか二つぐらいしか思いつかない。

 結局のところ。

 彼女は純粋だったのだろう。傲慢かもしれず、無謀かもしれなかったにも関わらず、世界が交渉に応じてもいいと思うほどに純粋だったのだろう。

 かくて、彼女は英霊の道を歩むことになった。

 その過程で、神話に語られた英雄でも、伝承で打たれた悪鬼でもない彼女が、守護者(えいれい)たる自身の証として選んだ宝具(エモノ)は二つ。

つまり――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――そうして、衛宮士郎は目を覚ました。

 窓から差し込む朝日が、具合よく顔にあたっている。

「……」

 寝起きの意識で、士郎は仰向けに寝転んだまま天井に向かって腕を伸ばした。無意識のままに選んだのは左腕。肘から手首に掛けて巻かれた包帯は、寝ている間に傷が開いたのか、染み出た血で所々赤く染まっている。

 血を意識した瞬間、疼くような痛みが走った。

「ッ――――」

 顔をしかめ、伸ばした手を下ろす。手の甲を額に乗せ、その姿勢のまま呼吸を調整。少し意識を集中すれば、それで腕の痛みは鳴りを潜めてくれた。

 安堵の息を吐くが、楽観は出来ない。意識しなければ問題ないものの、傷の痛みは昨日より確実に酷くなっている。最初は僅かな違和感でしかなかったそれは、いまや手を内側から切り開こうとするような痛みに変わっていた。

「糞、なにが綺麗に治る、だよ」

 アーチャーの見解に悪態をつき、そのまま目を閉じた。瞼を透かす朝日の光に嘆息し、瞳を閉じたまま小さく呟く。

「夢」

 セイバーと契約したその晩から、眠るごとに見ていた見覚えのない光景。

 目覚める前に見ていた夢で、その全てが繋がってしまった。

「セイバーの、記憶」

 それはおそらく、紛れもない事実。

 黒いコートを羽織り、赤いスーツを着たあの女性が、何故英霊になることを選んだのかという顛末。

「糞」

 口を突いたのは己に対する罵倒。

 胸の中には違和感と不快感が広がり、意識が確かになるのに従って夢に見たその光景をありありと思い出してしまう。

 赤い荒野。

 終わってしまった戦場。

 彼女を庇って死んだ誰か。

 泣きはらす彼女。

 そんな彼を生き返らせる為に、英霊となることを選んだ一人の女性。

 彼女の正体が誰なのか。

 そのことに、気付いてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 朝食の席はいつも以上に賑やかで、同時に息苦しいほどぎくしゃくしていた。

 居間に顔を見せたのは四人。士郎と、凛と、セイバー。そして、昨夜の戦いを終え、手を結ぶ理由が消えてしまった筈のイリヤだ。

 眠そうな目をしたままのイリヤは、食事の最中、よく喋った。子供のように笑い、子供のように怒り、子供のように拗ねて姉のように微笑んだ。アインツベルンの家系がどれだけ由緒正しいものなのかを誇らしげに語り、同じように家に誇りを持つ凛と嫌味合戦を繰り広げたり、バーサーカーがどれだけ強いのかを弾むように語ったりもした。

 だから、それは日常。衛宮士郎の日常であった三人での食事と何ら変わりない賑やかさは、まるでイリヤがずっとこの家で暮らしていたような想いを錯覚させる。

 だが、それはやはり、どこまで行っても幻想でしかない。

 その事実を冷徹に告げたのは、食後のお茶を嗜んでいた凛だった。

 

「これからどうするの、イリヤスフィール」

 告げられた問いかけに、イリヤはすっと目を細めた。

 唇の端を小さく吊り上げ、紛れもない笑みを浮かべた少女はからかうように言う。

 

「あら。何のことかしら、リン」

「惚けるんじゃないわよ。あなたとの休戦はギルガメッシュを倒した時点で終わった筈よ。なのに、なんで私たちと戦わなかったの?」

「――――遠坂」

「士郎は黙ってて。本当はあなたにも色々と文句があるんだけど、それは後回しにしてあげる」

 

 一片の情けもなく切って捨てられ、士郎は苦々しく口をつぐんだ。

 凛はそんな士郎を気にした風もなく、ただただ魔術師としてイリヤを見て、否、睨んでいる。

 

「答えなさい、イリヤスフィール。何故、私たちを見逃したの?」

 

 士郎自身、それは確かに疑問を覚えたことだった。

 昨夜。あの傲慢なサーヴァントをバーサーカーの斧剣が叩き潰したあと、士郎はイリヤと戦うことを覚悟した。イリヤを殺す気があったかと問われれば全身の誠実さで否と答えるが、それでも戦うしかないと考えた。

 それは、凛も同意見だったのだろう。尤も、凛は最初からイリヤと戦うことを近い現実として認めていた。故に凛は極自然にイリヤと戦闘すべく距離を取ろうとして、当のイリヤ自身に止められた。

 イリヤスフィールが何を考えたのかは、正直なところ、考えもつかない。

 ただ事実なのは、イリヤが自分の口から休戦を持ちかけたということだけだ。

 凛の刺すような視線を笑みで流し、逆にイリヤが問うた。

 

「あら、リン。あなたは私のバーサーカーと戦いたかったの?」

 

 その言葉に、凛が悔しげに口元を歪めるのが見えた。

 彼女自身、おそらく、あの場でバーサーカーと戦えば面白くない結末が待っていたことを悟っているのだろう。バーサーカーの力は、たとえサーヴァント二人掛かりでも容易に押さえ込めるものではないという事実を、数日前に知ってしまっている。

 顔をしかめた、しかし眼光の鋭さを失わない凛に、イリヤが小さく肩を竦めた。

 

「理由は等価交換。それじゃあ駄目かしら?」

「なんだって?」

 

 少女の言葉に、凛に代わって士郎が疑問を示した。

 イリヤは形だけの笑みを本当の微笑にして、まったく偽りのない、心からの事実としてその疑問に答える。

 

「だから、等価交換よ。私の命と、あなたたちの命の、ね。あのサーヴァントと戦いつづけてたら、私のバーサーカーもきっと負けちゃったと思うから」

 

 少しだけ悔しそうな、悲しそうな響きを声に篭めて少女は続ける。

 

「そうなったら、きっと私も殺されてたと思うわ。あなたたちの助けがあったから、バーサーカーはあのサーヴァントに勝てたんだもの。私はシロウとリンに助けてもらった。その代価よ」

「ふざけるんじゃないわよ。それって、あなたが私たちの命を握ってました、ってコトじゃない……!」

 

 少女の言葉に声を荒げる凛。

 

「イリヤ、あなたね――――ッ」

「遠坂、ストップ、ストップ。落ち着いてくれ」

 

 更に何か言い募ろうとした凛を、士郎は慌てて押さえた。

 が、どうやらそれは逆効果だったらしい。凛はぎろりと迫力のある目をこちらに向け、イリヤの代わりとばかりに喰って掛かってくる。

 

「なにが落ち着いてくれ、よ。あなたわかってるの? 衛宮くん。このロリっ子、言うこと欠いて私たちの生殺与奪があるだなんて言ったのよ……!?」

「分かってる、分かってるから落ち着けって。確かに命を握られてた、ってのは言い過ぎだけど、あそこで戦ってたらこの間の焼き増しだろ?」

「それは……ッ! そう、だけど」

 

 激昂したようでいて理性的。それが、この少女の魅力の一つだと思う。

 士郎は不思議と冷静な意識の一部でそんなことを思いながら、悔しげな顔をする凛を落ち着かせるように頭をぽん、ぽん、と叩いた。

 一瞬呆けたような顔を浮かべた後、現状を確認した凛は息を飲んで顔を真っ赤に染め上げる。しかし士郎は既に視線をイリヤに向けており、そんな凛の顔を見ることはない。

 

「イリヤもイリヤだぞ。確かにバーサーカーは強いけど、セイバーとアーチャーが手を組めば拮抗状態までは持ち込めるんだ。そんな風に遠坂を挑発するのは止めてくれ」

「……ふんだ。嘘なんて言ってないもん」

 

 冷徹(クール)な雰囲気はどこにやったのか、頬を膨らませ、拗ねたように言うイリヤ。

 その動作が、何故か悔しそうに見えたのは気のせいか。

 雰囲気を改める様に、士郎ははあ、と息を吐く。

 

「頼むから、喧嘩なんてしないでくれ」

「マスター。その言葉は、だいぶ無理があると思うわよ」

 

 士郎の本心の願いに返されたのは、苦笑したセイバーの言葉だった。

 セイバーはお茶を飲みながら凛とイリヤを交互に見遣り、疲れたように呟く。

 

「まだサーヴァント持ちのマスターどうしだもの。仲良くしろ、って方が無理なことぐらいわかるでしょ? マスター」

「それは……そうかもしれないけどさ」

 

 言われるまでもない。

 現状のこの不自然さを、士郎は確かに自覚している。

 本来潰しあうはずのマスターが、自分のサーヴァントを保有しまま同じテーブルに着き、挙句の果てには敵のマスターの家に寝泊りする。確かに手を組んだ相手とならそれも分かるが、凛の言うとおり、イリヤとの休戦はギルガメッシュを倒した時点で終わっているのも事実。

 さも当然のように衛宮低の和室で一夜を明かすことを要求した少女は、そんな士郎の言葉に怒ったような声を上げた。

 

「そうかもしれない、じゃないでしょ、シロウ!」

「い、イリヤ?」

 

 突然声を張り上げた少女に、士郎は思わずたじろいでしまう。

 

「私たちはマスターなの。私たちは戦わなくちゃいけないの。それが分かってるの? シロウ」

「分かってる。分かってるけど、俺はイリヤとは戦いたくない」

 

 詰問するような言葉に対する答えは、不思議なほど自然と口に出た。

 ぎり、とイリヤが歯を噛み締める。

 

「……何で、シロウはそんなことを言うの?」

「何で、って」

 

 だから、それこそ何で今更そんなことを問うのか。

 

「イリヤは俺の家族だから、戦いたくない」

「――――」

 

 少女は何か言おうとして口を開き、しかしそのまま肩を落とすように俯いた。

 しばらくして上げられた顔には、苦笑にも似た優しい微笑が浮かんでいた。

 

「……もう。我侭ね、シロウは」

「イリヤ?」

 

 小さく言う少女の視線はとても柔らかく、全てを包み込んでしまいそう。

 イリヤは微笑みのまま目を閉じて、ぽつり、と呟く。

 

「嬉しかったから」

「え?」

「シロウが私のことを知っていてくれて、嬉しかったから。だから戦う気になんてなれなかった。それじゃあダメ?」

 

 瞳を見せぬまま、少女は歌うように言った。

 士郎は息を飲んだ。イリヤの言葉が、紛れもない本心だと悟ったが為に。

 少女が目を開ける。除いた瞳はいつものように赤く、それまでと同じように子供のような輝きに満ちている。

 

「でも、私はイリヤスフィール・フォン・アインツベルンだから。聖杯戦争が終わるまで、私はイリヤスフィール以外にはなれないの」

 

 言って、少女は立ち上がった。くるりとその場で一回転し、スカートの端を持ち上げて格式ばった礼をする。

 

「嬉しかったよ、シロウ。私のことを知っていてくれて、物凄く嬉しかった。嬉しくて嬉しくて、自分に言い聞かせないと殺せなくなるくらいに嬉しかった」

 

 その告白に、どんな言葉を返せただろう。

 イリヤはにこりと微笑み、そして告げる。

 これが最後、と。

 

「だからもう行くね、シロウ。これ以上一緒にいたら、私はきっと壊れちゃう。私はイリヤスフィールで居られなくなる。夢はそろそろ醒めなくちゃ」

「――――イリヤ」

「次こそ、ちゃんと殺してあげる。次こそちゃんと戦ってあげる」

「――――イリヤ!!」

 

 士郎は立ち上がった。イリヤの肩を掴もうと手を伸ばすが、しかしイリヤはステップを踏むようにしてそれを拒む。

 開いた距離がいつかの記憶と重なって、士郎は顔をしかめた。

 ぎり、と。悔しさと悲しさに、顔を染める。

 

「そんな顔をしないで、シロウ。そうだ、いいことを教えてあげる」

 

 泣きそうな子供を宥めるような声で、流れるようにイリヤは言葉を紡ぐ。

 

「シロウが探してる桜って人だけどね。私、見たよ」

「え?」

 

 疑問符を返したのは士郎ではなくセイバー。

 士郎とイリヤ、ついでに士郎に頭を撫でられたまま茹で上がって自失状態の凛を傍観者の目で眺めていたセイバーは、士郎の代わりに問い掛ける。

 

「イリヤ。それは、どこで?」

「柳堂寺。昨日あのサーヴァントと会う前に、ちらっと見たんだ。私はその桜って人を知らないけど、でも多分間違いないと思う。あの娘、私と同じだったもの」

 

 なんの含みもなくそう言って、イリヤは笑顔を浮かべた。

 これ以上ないほどに優しい、真実、姉としての微笑を。

 

「バイバイ、シロウ。私の、大好きな弟」

「イリヤ――――」

 

 声を掛けたが、遅い。

 少女はもはや何も言わず身を翻し、そのまま何の名残も見せることなく離れていった。

 小さく届き、やがて消えた駆け足の音が酷く遠い。

 士郎は歯を食いしばり、自分の感情に力いっぱい蓋をした。ともすれば溢れそうになるあらゆる激情を、必死で、そこれこそ魔術回路を作るときのような必死さで封じ込める。

 身体の中でうねるそれをやっとの思いで括りつけ、士郎は息を吐いた。

 

「落ち着いた? マスター」

「なんとか。心配させて悪いな、セイバー」

 

 頭を振りながら答える。額を拭えば、嫌な汗がびっしりと浮いていた。

 セイバーは謝罪を否定するかの用に首を振り、鋭い瞳で問いを掛けてくる。

 

「それで、マスター。どうするの? 桜の居場所、わかったみたいだけど」

「……ああ、先の問題はそっちだよな。分かってる」

 

 士郎は自分に言い聞かせるように頷き、セイバーの瞳を見返した。

 

「日が暮れたらこっちから出向く。なんとしても桜を連れ戻す。それでいいか?」

「ええ、勿論。異論なんてないわ」

 

 セイバーは頷き、途端、呆れたような顔をする。

 

「でもマスター、そろそろ気付きなさい」

「ん?」

 

 いつか、というかつい昨日言われたような台詞。

 士郎ははてな、と首をかしげ、

 

「遠坂凛、死にかけてるわよ?」

「……え?」

「手」

 

 言われて視線を落とせば。

 

「と、遠坂?」

「……」

 

 士郎の手を頭の上に乗せたまま、ひたすら顔を赤く染め、虚ろな瞳で自失状態の凛が其処にいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時間軸は少し前後する。

 

 

 びちゃり、と音を残し、赤い液体が壁に飛び散った。

 胸から上を失った身体が壁に寄りかかるようにして腰を沈め、そのまま力を失い横に倒れる。半分ほどになった身体は自分が作った血の海に沈み、ほんの少しだけ飛沫を立てた。

「――――」

 薄暗い地下の部屋。

 沈んだ空気が充満するその部屋で、彼女は足元の血溜りを踏み付ける。

 そこに感情の色はない。足元まで広がった赤い水溜りも、立ち上る血臭も、ローブの裾が汚れることですら、全てが注意の範疇外。

 ただ冷徹な、思いを押し殺した顔で、彼女は目の前の亡骸を見下ろしている。

「――――下らない」

 呟いた言葉はやはり淡々としていて、だがその反面、静かな怒りに狂っている。

 彼女は亡骸に手を掲げ、小さく、“衝撃”と世界に語りかけた。

 刹那、弾ける音を残し、男の半端な亡骸が今度こそ完全に砕け散った。もはや肉片という言葉すら不適切。数千の欠片に飛び散ったそれは、全部集めたとしても、その原型がヒトガタであるとは思わせないだろう。

 男の身体を微塵にすることでようやく興味が尽きたのか、彼女は息を吐いて身を翻した。薄闇の地下室を進み、その先にある養殖場に辿り着く。

 其処に広がっていたのは、とても現実的で、だからこそ小規模な地獄の光景。

 何が起こったのかも分からないのだろう。侵食という名の鬼に責められる亡者たちは、しかし全員生きたまま、声なき声で疑問を伝えてくる。

 生ける亡者の問いに、彼女は無言でもって返答とした。怒りも悲しみも憐れみも浮かべぬ表情で、しかし唇を噛み締めながら手を掲げ呪文を唱える。

 そして、キャスターは地下室を後にした。硬い音を足音として刻み地上に出るが、外はまだ暗かった。夜明けは近いが、それでもいまだ世界は夜の中にある。

 血溜りを踏み付けたからだろうか、彼女の足跡は石畳に赤く残っていた。地下室から続く自らの軌跡につまらなそうな視線を向け、キャスターは回廊を歩く。

 ドアを抜け、大部屋に足を踏み入れた。

 

 礼拝堂。

 

 豪華さと質素さが同居した不思議な空間で、彼女はようやく、顔に表情らしきものを滲ませた。

 それは、やはり、紛れない怒り。

 

「なんて、こと」

 

 呟きにも、その感情は濃く滲んでいる。

 だがそれは激情に掻き立てる質の動きではなく、沈み込ませる種類の怒りだ。

 ……この教会の神父がマスターであることは、とうに知っていた。彼女の使い魔は無数に存在し、この冬木の街を現在進行形(リアルタイム)で監視している。万に届こうかというそれらの莫大な情報量を濾過させることなく整理できるのは、キャスターのクラスにある彼女だからこそだ。

 そんな情報の奔流中で、彼女はこのマスターが二体のサーヴァントを所有していることを知った。ランサーと、アーチャー。しかしアーチャーと呼ばれるサーヴァントはもう一体おり、どうやらどちらかが例外(ジョーカー)らしいことが知れた。なにせ彼女自身がルール違反を犯している身である。例外というものに対する推察と理解は誰よりも、それこそこの聖杯戦争のシステムを作り上げた人間よりも深いという自負がある。

このマスターが抱えていた八番目の例外(サーヴァント)は、数刻前、セイバーたちの連合軍により討たれている。神父の持ち駒が潰えたのを確認した上で、彼女は聖杯の正体を確かめるためにこの教会に襲撃を掛け、

あの闇を、見てしまった。

 

「――――」

 

 ぎり、と歯を食いしばる。

 歯を食いしばり、同時、自分らしくないと己を嘲る声がした。

 苦しんでいる者がいた。いや、苦しんでいるとすら知らなかった者がいた。

 その顛末に至った経緯が尽く理解できず、ただ現実を夢と思うことしかできない者たちがいた。

 ……それが何だというのか。その程度の闇、彼女自身、よくよく知ってしまっている。

 自分と彼らの違いはと言えば一つだけ。

 彼らはいまだ迷いの最中にあり、

 自分は早々にそれを受け入れたというだけだ。

 だから、彼らに興味など抱けなかった。憐れみを抱くほど傲慢ではないし、侮蔑できるほど悟っているわけでもない。

 自分はただ一人、選択肢の一つとして彼らの心に刻まれるだけの筈だった。

 だというのに。

 

「――――本当。どうしたのかしらね、私」

 

 洩れた自嘲は、しかし誇らしげに弾んでいた。

 きっかけは、たぶんあの少女。蟲に蝕まれ蹂躙されていたあの魔術師。

 桜に自分の過去を幻視してしまい、助けてしまった。キャスターにしてみれば、それは嘘偽りなく自己満足なのだが、桜にとって救済であったのも事実であろう。

 一人救えば十人、ということなのか。

 棺に食われるあの人間たちを無視する、ということが、どうしても出来なかった。

 

「運がよければ、助かるでしょう」

 

 尤も、大したことをしたわけではない。

 ただ魔力を巡らし、ほんの少し、彼らが消化されるのを止めただけ。

 いままで生きてきたのだ。数日のうちに事実が明るみに出れば、まちがいなく助かるだろう。

 キャスターは息を吐き、強張っていた身体の力を抜いた。

 そのとき、彼女の持つ使い魔の一体が、衛宮邸から離れる幼いマスターの姿を伝えてきた。

 彼女は顔に笑みを浮かべた。怖れていた可能性、セイバーとアーチャーの連合軍にバーサーカーが加わるという展開は、どうやら杞憂だったらしい。どのような交渉が行われたかは知らないが、少女は肩を落とし、見捨てられた子供のようにとぼとぼと歩いている。けれどその顔に浮かんでいるのは、悲しみでも怒りでもなく、己を縛り付ける厳格な決意の色だ。

 キャスターは再び息を吐き、そして目を閉じた。

 思うのは聖杯。この教会に補完されていることを望んで探した、万能の釜。

 だが結果はシロ。教会の敷地内にそれらしい道具はなく、それは同時に、一つの事実を彼女に想定させる。

「――――」

 その不愉快な推論に、知らず唇を噛んでいた。

 聖杯が欲しいのかと聞かれれば、答えは応。

 

 けれど、そのために。

 自分は、あの少女を差し出せるのか?

 

「――――」

 答えは出ない。否、出そうとすることを拒んでしまう。

 聖杯を求めるのは既に目的ではなく理由。そんなことは百も承知。

 だが、いや、だからこそ。

 間桐桜という魔術師の存在が、ひどく、重い。

 キャスターは、ここに一時の空白を求めた。意識を犯す様々な思惑、ありとあらゆる情報を遮断し、聖杯戦争が開始されてから初めて、本当の意味で心の休息を求めた。

 目を閉じ、意識を閉じたまま、呼吸を数度。

 そして結局答えを保留したまま、彼女は目を開けた。

 

「――――行きましょうか。じきに夜も明ける」

 

 誰にでもなく呟き、彼女は亡者だけが残る教会を後にした。

 この戦争が、もうじき終結しようとしていることを悟りながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[Go to Next]