Fate / other night

 

 

              14 / Sister

 

 

 宵闇が近づいていた。

 僅かに開いた扉から差し込む夕陽のせいで、土蔵の中は全て赤く染まっている。

 そんな鍛錬場の中心に腰を下ろし、魔術回路を編むように目を閉じながら、士郎はひとり待っていた。

 桜を救いに赴くまで、残り数時間。昼間は体力の回復と温存に努め、あとは日が暮れるのを待つだけになっている。夜になれば、自分は凛と協力し柳堂寺に、そこに潜伏するキャスターに戦いを挑むことになる。

 凛は、柳堂寺にサーヴァントが潜伏していることも、それがキャスターであることも気付いていたらしい。気付いていながら話していなかったのは、それが桜の件とは無関係であると思ったからなのか。

「――――」

 士郎は深く息を吐いた。呼吸を落ち着かせ、ここに来るであろうその人物を、ただ静かに待ち受ける。

 

 どれだけの時間が経っただろう。

 やがて気配が生じ、

「……どうしたの、マスター」

 夜のように静かな、セイバーの声が聞こえた。

 

 

 

 士郎は目を開けた。振り向けば、赤い夕日を背に佇む黒いコートのセイバーの姿がある。

「セイバー」

 静かに、士郎は彼女を呼んだ。

 セイバーは目を細め、頷く。

「何かしら? もう時間がないみたいだけど、用事でもあるの?」

 何気ない様子を振舞うその声は、しかし、これから行われる問答を予想してなのか、苦笑に滲んでしまっている。

 士郎は自分を落ち着かせるために息を吐き、頷き、そしてセイバーに言葉をかけた。

 

「夢を見たんだ」

「私も見たわ」

 

 士郎の言葉に、セイバーは謳うように頷く。

 

「赤い戦場跡で、死体がたくさん転がっていた」

「赤い焼け跡で、死体がたくさん転がっていた」

 

「その中心で女性が泣いていた」

「その中心で子供が泣いていた」

 

「救いなんて何処にもなくて」

「救いなんて何処にもなくて」

 

「彼女は一人で救いを勝ち取った」

「少年は一人で救いを貰い受けた」

 

 二人は同じように言葉を並べ、同じように視線を交わした。

 士郎はセイバーの冷たい瞳を見返し、

 セイバーは士郎の醒めた瞳を睨みつける。

 そして二人は同時に、互いの存在を弾劾するかのように語りを結んだ。

 

「――――あれがおまえの願いなのか、セイバー」

「――――あれがあなたの歪みなのね、マスター」

 

 く、とセイバーが苦笑し、は、と士郎が口を歪めた。

 

「まったく。ずっと変なヤツだとは思ってたけど、そういうことだったのね。あんな経験をしたなら、あそこまで歪むのも頷けるわ」

「同感だ。傍若無人だとは思ってたけど、まさかそんなことを踏み切るほどに我侭だなんて思わなかったぞ」

 

 お互いを詰る言葉は、しかし、不思議と穏やかな響きを含んでいる。

 はあ、とセイバーが肩の力を抜くように息を吐いた。視線を緩め、既に見慣れた不敵な笑みを浮かべて見せる。

 

「それで。私の動機を知った上で、マスターは何が言いたいの?」

「おまえの願いは、間違ってる。死んだことをなかったことになんて、そんな願いは絶対に間違っている」

 

 それに対する返答を予想しながら、しかし士郎は自分の信念を告げた。これが自分、と。それが、曲げることの出来ない自分の誠実さだと感じながら。

 セイバーは笑う。なんて戯言、と心から笑って見せる。

 

「勘違いしないで、マスター。私は別に、あの過去をなかったことにしようとは思っていないから」

「……」

 

「私が望むのは、あの瞬間の延長線上にある私たちの幸せ。あの過去は私にとって一番の汚点。私はそこから色々なことを学ばなければならないし、あの馬鹿(・・・・)には私を泣かせた責任をとらせなきゃ嘘でしょう?」

「……」

 

「私はあの悲しみを忘れない。私はあの怒りを忘れない。私はあの瞬間の決意を忘れないし、私はあの瞬間の願いを絶対に忘れない。それが責任、というものよ」

 

 彼女(・・)の言葉は自信に満ちていて、自分の思想を微塵も疑っていないようだった。

 なんて傍若無人、と士郎は思い、なんてワガママ、と笑った。

 

「それにね、マスター。第一アイツが悪いのよ? いつまで経ってもうじうじとしてるんだから。振り切った振り切ったって何度も言うのに、ことあるごとにあの娘のこと思い出すんだもの」

「……あー、いや。それは、まあ」

 

 しどろもどろに返す士郎。

 自分が責められているわけではないのに申し訳なく思ってしまうという経験は貴重で、出来れば二度と体験したくない。

 

「だからアイツを蘇生させたら、まず第一にそのことを叱ってやるの。私を見なさい、って。私だけを見なさい、って言い聞かせてやるんだから」

 

 本気で腹に据えかねているのか、セイバーは怒りを顕わにしている。それも怒髪天を突くような怒りではなく、静かな、笑みを浮かべるような不気味な怒りだ。

 士郎は顔が引きつるのを感じながら、勇気を振り絞って、その誰かの用語を試みる。

 

「ええと、そいつは多分、セイバーのこと本気で好きだったと思うんだ、けど」

「――――知ってるわよ、そのくらい。だから気に喰わないの」

 

 怒りをそのまま不機嫌に置き換え、ぼそり言い捨てるセイバー。そのまま黙り込み、やがて不意に表情を崩す。

黒いコートのサーヴァントは苦笑し、その瞳に柔らかい光を灯した。けれどその目は何処かに思いを馳せているようで、いまこの瞬間は誰も見ていないことが知れる。

 

ゆえに、ぽつりと、セイバーは呟いた。

 

「本当、あの半人前。私の手を二度も煩わせるなんて、絶対に許せないんだから」

「――――?」

 

 その言葉に、士郎は僅かな引っ掛かりを覚えた。

 二度も煩わせる、とセイバーは言った。それはつまり、過去に一度、似たような事態が起こったということではないのか。

 

 似たようなこと。

蘇生。

 

 それは、つまり?

 

「マスター?」

「――――あ、悪い、聞いてなかった。なんだ、セイバー?」

 

 呼ばれ、士郎は思考を振り払った。いまは考えるべき時ではないと、ざわりと波立つ意識を押さえつける。

 セイバーは不思議そうな顔で一瞥をくれたあと、いつもの不敵な、自信に満ちた表情を浮かべる。

 

「マスター。この聖杯戦争、勝つわよ」

「なんだよ、今ごろ。どちらにしろセイバーには、聖杯が必要なんだろ? なら」

「違うわ、マスター。この街にある聖杯は、聖杯とはいえない歪んだ代物なの。確かに私には聖杯が必要だけど、それは冬木の聖杯じゃない」

 

 絶対を思わせる雰囲気で断言するセイバー。

 聖杯を否定するその瞳には、微塵の躊躇いも感じられない。

 

「私は直接見たわけじゃないけど、それの話ならあの馬鹿から聞いたことがあるわ。この街の聖杯の名前は“この世全ての悪(アンリ・マユ)”。その名のとおり、世界中の悪を押し込めた淀んだ泥って話よ」

「――――なんだよ、それ。初耳だぞ」

「当たり前よ。言ってなかったんだもの」

 

 澄ました顔でセイバーが言う。

 

「あの聖杯は、あってはいけないものなの、マスター。ううん、それ以前に、マスターがマスターであるのなら、あの聖杯は絶対に壊さなければならないものよ」

 

 そして、セイバーは身を翻した。

 一歩を踏み出し、肩越しに振り返り、どきりとするような笑顔を向けてくる。

 

「私を勝たせなさい、マスター。私を勝たせてくれたら、あの聖杯を砕く役目は私が背負ってあげる」

「――――は」

 

 思わず、士郎は口を震わせていた。

 口端が釣り上がるのがわかる。心地よい緊張が身体を満たしている。動悸は次第に早まり、握った手の平に汗が滲む。

 この感覚は、そう、他愛無い悪戯を企むときのような、そんな高揚感に似ていた。

 

「マスター?」

「ああ、わかったよセイバー。衛宮士郎はセイバーに力を貸す。その聖杯がどんなものかいまいちわかんないけど、セイバーがそう言うのなら、それはあってはいけないものなんだろう」

 

 その呟きに、セイバーは満足そうに頷く。

 

「じゃあマスター、頑張りましょう。安心しなさい、あなたは間違いなく最高のカードを引いたんだから」

 

 虚勢の欠片もなく、空恐ろしいことに完全な本心でそう言って、セイバーは土蔵を立ち去った。

 再び一人になった士郎は、左腕を目の前に翳し、ぐ、と拳を握る。

 それを、土蔵の外。赤く染まった世界に、セイバーが姿を消した先に掲げてみせる。

 

「そんなこと、百も承知だ」

 

 自然と笑みが浮かぶのを感じながら、士郎は小さな声で呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうして日は暮れ、夜の帳が世界を覆った。

 空には雲ひとつ無く、寝待月が異世界への扉の如く夜空に穴を穿っている。

 風が出ていた。人気の無い住宅街を並んで進みながら、士郎は耳元で唸る風を聴く。

 向かう先は、無論、キャスターの拠点であり、桜が見かけられたという柳堂寺。

 あと数分も歩けば、お山を仰ぐ石段に辿り着くだろう。

 その事実を思い、ぐ、と士郎はポケットの中で手を握る。

 伝わってくる硬い感触は、お守り代わりに持ってきた赤い宝石のものだ。

 あの夜。ランサーのサーヴァントに貫かれたこの身を護ってくれた、大事な大事な宝物。

「士郎」

「なんだ?」

 傍らを歩く凛の呼びかけに、士郎は足を止めることなく応えた。

 凛はこちらを見ることもなく、ただ前を見て歩きながら、冷然な声で語る。

 

「分かってると思うけど。結局策なんて無いし、無謀な正面突破よ? 覚悟はいい?」

 

 行きがけにセイバーが明かした、柳堂寺の特殊性。人間でないものを拒む結界と、それを無効化する唯一の出入り口。霊体であるサーヴァントが柳堂寺に入ろうと思ったら、素直に山門を通り抜けるしかないという事実。

 それを踏まえた上で、凛の出した結論がそれだった。裏を掛けず不意を討てないのならば、真正面から仕掛けるしかないという乱暴な、けれど他に手段のない唯一の策。

確認をしてくる凛に、士郎は躊躇わず頷いた。

 

「分かってる。無謀かもしれないけど、他に無いなら仕方ないだろ」

「ええ、そうね。分かってるならいいわ」

 

 凛は素っ気無く返し、それで会話は終わってしまった。

 士郎は凛と肩を並べて歩く。

 やがて住宅街が終わりを告げ、長い、月にまで届かんと思わせる石段が二人の前に姿を見せた。

 士郎と凛は、どちらが先にというわけでもなく足を止め、お互いの顔を一瞬見遣り、頷きあう。

「セイバー」

「アーチャー」

 それぞれの呼び声に応え、二体のサーヴァントが月光の元、姿を現した。

 セイバーの腕には一振りずつの魔剣と魔杖が、アーチャーの腕には二振りの剣が握られている。

「行くわよ!」

 凛の言葉を皮切りとして。

 四つの影は一丸となり、石段を駆け上がった。

 

 

 

 

 

 先頭(トップ)を張ったのはアーチャーだった。

 赤い弓兵は剣を手に、淀むことの無い足取りで石段を登る。

 それに半歩遅れて続くセイバー。

 士郎と凛は、そんな二騎から更に数歩退いた位置を駆けていた。

「なんだ――――これ」

 置いていかれないように、或いは足手まといにならないように必死で足を動かしながら、士郎は世界に満ちる異常な空気に呻き声を上げた。

 隣を走る凛が、僅かに青褪めさせた顔で答えを返した。

「本当、なんて魔力よ、これ。ゴミ溜めじゃないんだから」

 言葉には嫌悪の色が濃い。

 それを聞き、士郎は周囲の大気の異常さ、その正体を知った。

 

魔力。

 

濃すぎる余り、既に滞留として感じられるほどに淀んだ、熟れ過ぎた果実のようなどろりとした魔力。

なるほど、確かにこれならゴミ溜めの方がマシかもしれない。

「――――ッ」

 首筋をざわりと舐めるような風に、士郎は顔をしかめた。

「まったく、なんで平気なのよアイツ」

 先頭を行くアーチャーを見ながら、凛が心底不思議そうに呟く。

 士郎は同意しようとして、直後、かちりと意識を切り替えた。

 石段の終わりが近い。

麓から此処まで、およそ十秒。

 短すぎる上昇はあっさりと終わり、境内に続く山門が視界に入る。

 

そして。

 

「こんばんは。待っていました、先輩」

 

 寂しげな笑みを浮かべる、行方不明の後輩がそこに居た。

 

 

 

 声と同時。

 音も無く走った光が二騎のサーヴァントの首筋を狙い、あっさりと防がれた。

 気の所為か、一泊遅れて響く金属音。

 アーチャーとセイバーが、顔をしかめて足を止める。

 山門までは、残り九メートルといったところ。

 詰めようと思えば一息で詰められる筈の距離が、何故か決して届かぬ宇宙(ソラ)を思わせる。

 

「桜」

 

 傍らに青い侍を佇ませた後輩を見て、士郎は思わずその名を呼んでいた。

 桜はその言葉に顔を伏せる。長い髪が顔を隠し、夜闇も相成ってその表情は読み取れない。

 そんな桜を庇うように、青い陣羽織の青年が半歩、前に出た。

 片目を軽く閉じ、麓から吹き上げる風に裾を揺らす。

 

「さて。一応聞いておくとしよう。何用か?」

「あら、そんなこと。わざわざ言うまでもないんじゃなくて?」

 

 愉しむような男の言葉に、セイバーが馬鹿にしたような声で返した。

 は、と男が喉を鳴らす。

 

「確かに無粋な問いであったな。許せ」

「ええ、構わないわ。けれど、代わりにいいかしら?」

「何だ?」

「あなたの隣に居る女の子。私のマスターの知り合いらしいんだけど、返してくれるかしら?」

 

 不敵な笑みを浮かべながら交渉を持ちかけるセイバー。

 考えるところがあるのか、凛とアーチャーは顔に緊張を走らせながらも無言で居てくれている。

 男はふむ、と眉を潜めたあと、さも当然のように口を開いた。

 

「返す、というのはできんな」

 

 それは何故、と目で問うセイバーに、男は肩の力を抜く。

 

「私は別に、桜を人質にしているわけではないのでな。桜には――――いや、()殿()には、自分の意志で此処に居ていただいている」

 

 語られた理由は明快すぎて、それが嘘だとは到底思えない。

 な、と息を飲んだ士郎に代わり、凛が醒めた眼で問うた。

 

「桜。それ、どういうこと?」

「……遠坂、先輩」

 

 小さな声で、桜が凛の名を呼び返す。

 その言葉に男が僅か眉を潜めたが、凛はそれに気付かなかったのか、或いは気付いていながら瑣末事と切り捨てたのか。変わらぬ口調、変わらぬ視線で桜を詰問する。

 

「答えなさい、桜。私ね、いま士郎と手を組んでるの。行方不明になったあなたを見つけるまで、っていう期限付きでね。でも、あなたがマスターとして参加しているっていうのなら、私はいまここであなたの敵になるわ」

「……」

 

 桜は何も答えない。

 無言のまま、顔すら上げない桜の様子に、凛は眉を吊り上げた。

 

「ちょっと。何か言ったら、」

 

 終わらぬと見えた詰問は、しかし。

 

「桜」

 

 士郎の小さな呟きで、中断された。

 

「桜、おまえ、やっぱり(・・・・)魔術師だったのか……?」

 

 信じられない、信じたくない、という願いを言外に孕んだ声は震えている。

 その声に、桜が、否、男を除くその場にいた全員が息を飲んだ。

「せん、ぱい?」

 呆、とした吐息。

 桜は顔を上げ、その瞳に虚ろな光を灯し、自分自身を押さえるように抱きかかえた。

 起伏の無い、単調な声で尋ねてくる。

 

「先輩は、私が魔術師だってこと、知ってたんですか?」

 

 士郎は頷く。

 

「なんだ――――隠してたのに。隠してたのに、知ってたんですね、先輩」

 

 桜は言い、くすり、と笑った。

 今にも壊れてしまいそうな、歪な笑顔で。

 

「なら」

 

 声が冷える。

 少女は俯いて、醒めた声のまま、静かに呟いた。

 

「なら、なんで、なんで助けてくれなかったんですか、先輩」

「え――――?」

 

 その弾劾に、士郎は思わず声を上げていた。

 助ける。助ける。助ける。

 

助ける(・・・)

 

何から(・・・)

 

「答えてください! なんで、なんで助けてくれなかったんですか、先輩!!」

 

 それは、悲しみと怒りに満ちた、近しい少女の絶叫。

 その響きは本物で、彼女が救いを求める環境に居たという事実を、士郎はすんなりと受け入れることができた。

 

 だが、いや、だからこそ。

 

 

 わからない(・・・・・)

 

 

「だって」

 

 衛宮士郎は魔術師である。

 フリーランスであった衛宮切嗣の、後継ぎでない後継者。

 僅か一つの魔術しか行使できず、その成功率すら限りなく低い。

 

「だってさ、桜」

 

 故に、衛宮士郎にとって、魔術の鍛錬とは死の綱渡りと差異無い。

 魔術の鍛錬とは自信を痛めつけるだけの行為であり、自信を脅かす脅威でしかない。

 確かに辛いとは思わないが、楽なものだとも思えない。

 

「魔術って」

 

 衛宮士郎は魔術師である。

 モグリの魔術師の下で学び、他の魔術師を誰一人として知ることなく成長した。

 故に、それがわからない。

 

「魔術って、そういうもの(・・・・・・)じゃないのか?」

 

 桜が、何からの救いを求めていたのかが理解できない。

 少女が目を見開いた。息を飲んだように口を閉じ、自分を抱く手に力が篭もるのがわかる。

 

「せん、ぱい?」

 

 桜の声は、再び平坦に戻っていた。

 おそらく。士郎の質問が、驕りも侮蔑も含まない、純粋すぎる問いかけだと悟ったが故だろう。

 桜は泣き笑いの表情で頭を振り、わかりません、と呟いた。

 

「わかりません。わかりません、先輩。私は、助けて欲しかったんです」

 

 桜は、救いを求めていた。

 その告白を目の当たりにして、士郎は混乱してしまう。

 

 だって。

 だって桜は、笑っていたのに。

 だって桜は、幸せそうだったのに。

 桜は、救いを求めていた。

 それが事実だというのなら、つまり。

 

 気付かなかったのは、

 

「ふむ」

 不意に、男が口を開いた。

 男は細めた目でこちらを見下ろす、否、見下すと、つまらなげに言う。

 

「なにやら色々とあるようだがな、小僧。それで、どうする? 私たちはこの門の番人、通るか去るか、早急に決めよ」

「――――アサシン」

「心得ておる、主殿。言いつけどおり、其処の小僧は殺さぬよ。だが、そちらの小娘と男に関してはどうしようと構わぬだろう?」

 

 く、とアサシンは笑みを洩らし、そうそう、と言葉を続けた。

 

「小僧。いいことを教えてやろう」

「なに?」

「我が主殿だがな。この寺に潜むキャスターに監視され、命を握られている」

 

 まるで天気を語るような平静さで語られたその情報に、桜を除く全員が声を上げた。

 ただ、桜だけは目を見開き、責めるような視線を傍らのアサシンに向ける。

 

「アサシン、あなた、どうして」

「いや、なに。あの小僧が居るのでは、主殿も気が散って仕方ないと思ってな」

 

 桜の言葉を、アサシンは涼しい顔で流す。

 そのまま半身の姿勢を取り、具現させた長刀の切っ先をこちらに向けた。

 

「さて。では改めて聞くとしようか。小僧、どうする? 退くか進むか、ここで決めるがいい」

「……どういうことだよ、それ」

 

 苦りきった顔で、搾り出すように問い返す士郎。

 アサシンは、なに、と答える。

 

「言っただろう? 私はおまえと戦うことを許されていなくてな。おまえが進むというのなら、見逃すことしかできん。尤も、そちらの小娘たちは通さぬがな」

「――――」

 

 士郎は目を細めた。

 アサシンの言葉の意味は、流石に理解できる。

 このサーヴァントは、見逃すから先に行けと言っているのだ。

 柳堂寺に潜むという、キャスターのサーヴァント。

 そしてキャスターに命を握られているという桜。

 考えるべきことはなく、すべきことは一つしかない。

 

 一つしかない、筈なのに。

 

「桜」

 

 呼びかけても、少女は答えない。

 視線は逸らされていて、こちらを見ることを、目を合わせることを頑なに拒んでいる。

 士郎は唇を噛んだ。自身の愚かさに、自身の不甲斐なさに怒りすら覚えながら、唇を噛み締めた。

「士郎」

 不意に、凛が士郎の名を呼んだ。

 見れば、凛は腕を組み、不機嫌そうに眉を潜めて桜を睨んでいた。

 

「行きなさいよ、士郎。桜の為にここに来たんでしょ? なら迷う必要なんて無いじゃない」

「けど、遠坂」

「いいから。弱音なんて聞かないわ。安心しなさい、この馬鹿娘には、きっついお灸を据えてあげるから」

 

 凛の声は静かだが、その奥には確かな怒りが感じられる。

 

「ほら、早く。士郎だって桜と戦いたくなんてないんでしょ?」

 

 それは、確かにその通り。

 士郎はぐ、と手を握り、そこに憤りの全てを篭めた。指が白くなり、爪が皮膚を破り突き刺さる。

 はあ、と息を吐く。魔術鍛錬をするかの用に思考を白紙に。そうしなければ、罪悪感で押しつぶされてしまいそう。

 

「遠坂。悪いけど、頼む」

「ええ、任せなさい」

 

 凛の言葉を聞いて、士郎はセイバーと共に走り出した。

 距離を詰めても、アサシンは微動だにしない。醒めた視線が意味するのは敵意ではなく侮蔑でもなく、ただの無関心。

 

 アサシンは。

 

 このサーヴァントは、桜を救えなかった自身を、小物として意識すらしないことを選んだのか。

 

「――――ッ」

 

 士郎は走った。残り少ない石段を駆け上がり、門番二人の横を抜け、山門を抜ける。

 その瞬間。

 桜の隣を行き過ぎたその一瞬でさえ、少女は視線を合わせようとはしなかった。

 その事実が、とても重く。

 

 泣き出したいぐらいに、悔しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 士郎とセイバーが山門を潜りぬけたあと、しばしたち、ようやくの思いで桜は傍らのアサシンに問い掛けた。

 

「アサシン」

「ふむ? いかがなされた、主殿」

「なんで、あんな嘘をついたんですか?」

 

 自分は自分の意志でここに居る。キャスターに命など握られているわけではない。

 

「先程述べたのが本心よ。私は主殿のことを思って偽ったのだがな」

 

 アサシンの言葉に悪びれはない。おそらく彼は、本心からの心遣いで先の言葉を述べたのだろう。

 そんなこと、百も承知している。このサーヴァントは実体が掴めないようで、その本質はとても純真な誠実者だということを知っている。

 助力を申し出た桜に、キャスターは新しいサーヴァントとしてアサシンを授けた。彼女が慎二にそうしていたのとは違う、根本からの再契約だ。宝具でキャスターとの縁を絶たれたアサシンは、いま言葉の通り桜のサーヴァントとなっていた。

 

 はあ、と桜は息を吐いた。

 

 視線を移せば、眼下、一〇メーター近く離れたところに姉とそのサーヴァントの姿がある。

 凛は組んでいた腕を解き、自然体でこちらに向き直った。その姿からは、隠そうという意図すら感じられない敵意が滲んでいる。

 

「お話は終わった? 桜」

 

 疑問というより確認に近い声。

 桜は答えず、足元の小壜に視線を落とし、そして上げた。

 戦うという覚悟は、この数日で既に何度も固めている。

 その相手がたとえ実の姉だとしても、今更この覚悟は変えられない。

 

 自分は。

 自分は、こうして戦い、助けられたという借りを返すのだ。

 

「――――はい。終わりました」

 

 アーチャーが一歩踏み出した。

 答えるように、アサシンが一歩前に出る。

 桜は思う。

 この戦いは、サーヴァント同士とマスター同士、遠慮も何もない潰しあいになるだろうと思考する。

 

 桜は再び息を吐き、そして夜空を仰いだ。

 

「見て下さい、姉さん(・・・)。満月じゃないけど、今夜はこんなにも月が綺麗ですよ」

 

 これが最後、と。

 これ以上の会話はないと覚悟して、桜は凛に呼びかけた。

 

「ええ、そうね。今夜は本当に、月が綺麗」

 

 そんな桜の気持ちが通じたのか、弾むような声で凛が答えた。

 

「今夜はこんなにも、月が綺麗だから」

 

 桜は頷き、凛が頷く。

 

 

 

「涼しい夜になりそうですね、姉さん」

「暑い夜になりそうね、桜」

 

 

 

 かくて赤い風は疾走を開始し、青い風はそれを迎え打つべく前に出た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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