Fate / other night
17 / Heliotrope
ざり、と石段を踏みしめる音がして、凛は音の方向に顔を向けた。
周囲を覆っていた氷の壁は既にない。炎の剣も既に形を解いており、残ったのは何事もなかったかのようにその場に漂う夜気だけだ。否、それだけであろう筈がない。石段には幾つもの穴が穿たれ、繰り広げられた魔術戦の規模を静かに物語っていた。
「アーチャー」
数メータ程低い位置。傍らの林から姿を現した赤い騎士を、凛が呼ぶ。
そして、
「――――アサシン」
驚いたような声で、桜がその名を呼んでいた。
凛は顔をしかめ、睨みつけるように自らのサーヴァントを見下ろす。
「ちょっと。どういうことよ、アーチャー」
「言わせるな。私とて、馬鹿なことをしているという自覚ぐらいはある」
不貞腐れたようにそう言うアーチャー。その傍らには陣羽織を羽織った侍の姿があり、アーチャーはその侍に、アサシンに肩を貸していた。
アサシンは口の端から赤い筋を垂らしながら、それでもなお流麗に、面白げに繭を潜めて見せた。
「なに、気にするな、アーチャーのマスターよ。私が無理を言っただけだ。この者に非はない。ああ、すまなかったな、アーチャー。もういい。下ろしてくれ」
言われ、アーチャーはアサシンを石段の上に座らせた。アサシンは石段に対して平行に腰を下ろし、はあ、と息を吐く。ぽたりと垂れた血の雫が石段に落ち、僅かな音を立てた。
その様を見て、今更ながらに凛は気付いた。アサシンの胸元、身体の中心からほんの少しだけ外れた部分が、どす黒く染まっている。服を内側から染め上げたのは、まず間違いなくアサシンの出血。
考えるまでもない。
アレは致命傷だ。どんな戦いが繰り広げられたかは知らないが、その勝者がアーチャーであるという証。突かれたのか、それとも斬られたのかは判然としないが、それが確実に死に至る損傷だということは知れる。単に即死ではないというだけで、アサシンはもう、助からない。
おそらくはそれを理解したのだろう、桜が息を呑むんだ。桜は、アサシンのマスターは悲痛に顔をゆがめ、胸の前で手を組みながらアサシンの元に駆け寄る。アサシンの背に廻そうとした手を、アサシン自身がやんわりと止めた。
「申し訳ないな、主殿。結局、勝てなんだ」
「アサシン……!」
桜は息も絶え絶えのアサシンを見て、己の令呪の存在を思い出した。キャスターよりマスターの権利を譲渡された際、この身に新たに刻まれた三つの強制命令権。それを使えば。あらゆる束縛を無効化するそれを使えば、ひょっとしたら、ひょっとしたら、アサシンを助けることぐらい出来るかもしれない。
だが。
「桜」
その思いを見透かしたかのように、凛が冷たい、魔術師としての声を上げた。
「分かってると思うけど。令呪を使おうなんて思ったら、私も相応の命令をアーチャーに下すわよ」
「――――ッ」
桜は唇を噛む。
ああ、そうだとも。自分は負けたのだ。負けたのに、負けたのに、負けたのに――――そんな事を望むなんて、確かに、虫がよすぎる。
だから。
「アサ、シン」
だから桜は、アサシンを呼んだ。搾り出すように、しかし決して掠れさせることなく、明確な発音として、その存在を呼んだ。
「アサシン――――ありがとうございます、アサシン。私のために力を貸してくれて」
それと、と言いながら、桜は顔を俯かせた。
ごめんなさいと。震えを必死に隠した声でそう言って、ぎゅ、と自分の手を握り締める。
「ごめんなさい、ごめんなさい、アサシン。私がマスターじゃなければ、きっと、こんなことには、」
「いや、それは違うぞ、主殿」
こんなことにはなりませんでした、と最後まで言わせることはなく。
笑いながら、だが同時に厳しい声で、アサシンは桜の言葉を遮った。
ふん、と息を吐くアサシン。がは、と咳き込めば、血の塊が喀血となり石段に散らばった。袖で口元の血を拭い、アサシンは痩せ我慢と容易に知れる涼しげな笑みを顔に浮かべる。
「私は満足しているとも、主殿。結局最後には勝てなんだが、それでも満足している。全力で剣が振るえて、いま、この上なく愉快な心持だ」
アサシンの言葉に嘘はない。このサーヴァントは、いままさに死に至ろうとしている侍は、その結末を迎えてなおそれに満足している。
それが嘘偽りない本心だと悟り、桜は息を呑んだ。
アサシンは顔を上げ、傍らに立つ赤い弓兵を見上げた。アーチャーは不貞腐れたように顔を顰め、不可解そうに瞳を閉じている。だがその姿に隙はなく、その注意がアサシンに向けられているのは、桜にも容易に理解できた。アサシンが不用意に動くことがあれば、おそらくはその瞬間に、このサーヴァントは何の躊躇いもなくアサシンに止めを差すだろう。
そも、凛の態度を鑑みれば、アーチャーがアサシンをここまで連れてきたこと自体が奇跡に近い出来事なのだろう。なにせあの弓兵は、必要とあらば容赦を捨てることの出来る姉のサーヴァントなのだ。戦いで手を抜くことなどありえないし、何より――――倒せる敵を、倒さない筈もない。
そんなアーチャーが、何故、アサシンを生きたまま自分たちの前まで連れてきたかは知れない。
だが、その理由が何であれ、することは決まっていた。
桜は顔を上げた。傍らのアーチャーを見上げ、しかし直視は出来ず、僅かに視線を外す。
「アーチャー。……ありがとうございます。アサシンを、連れてきてくれて」
「礼を言われる筋合いなどない。……文句を言われる道理ならありそうだが」
「あら、よく分かってるじゃない、アーチャー」
にこり、という擬音すら聞こえてきそうな声音で、凛が声を上げた。
凛は顔に満面の笑みを浮かべ、自分のサーヴァントに視線を下す。
「それで。なんでアサシンを連れてきたの、アーチャー」
「……はあ。君は本当に、何処か抜けているな、凛」
「ちょっと。どういうことよ、それ」
「そのままの意味だ。アサシンが言っていただろう。桜の命が、キャスターに握られている、と」
アーチャーは細く目を開け、その視線をこちらに向けてきた。
アサシンと自分とを交互に見遣り、頷く一つと共にその矛先を凛に向ける。
「その話が嘘だというのは桜の言い分だが、私としては、キャスターが何も手を加えていないということの方が信じられなくてな。不本意ながらこういう手段を、」
言いかけたアーチャーの表情が、瞬く暇すら与えずに変化した。
呆から疑へ、疑から緊へと刹那で移り変わり、弓兵が声を張り上げる。
「跳べ、凛!」
「え?」
凛が、不意を突かれたかのように声を上げた瞬間。
「――――伏せろ、主殿!」
アサシンが緊張した声を上げ、血まみれの身体を動かして桜の身体を無理矢理石段に伏せさせる。
そして。
石段に打ち込まれた凶弾が、爆発も無くただ純粋な衝撃のみを伴って、凛の居た位置を吹き飛ばした。
まず抱いたのは、なんて無茶を、という感嘆じみた驚きだった。
おそらくは、キャスターの援護を受けてだろう。光の中から現れた宗一郎は、最初の一撃で確実にセイバーの肩を破壊していた。ぺき、などという軽い音が<、肉を殴打される鈍い音の中に辛うじて聞こえる。宗一郎の拳が炸裂したのはセイバーの左肩。ならばいまのは鎖骨の折れる音か、それとも肩甲骨に皹のはいった音だったのか。
まあ、なんにせよ、セイバーの肩が砕かれたという事実に変化はない。ぐたり、と糸を切られたかのように力を失い下がる左腕。セイバーは唇を噛み、接近戦の間合いに位置する宗一郎を追い払うべく右の魔剣を持ち上げ、
その隙を、宗一郎の拳が殴打した。
「――――つ」
鳩尾に一撃を喰らい、セイバーが力なく息を吐いた。振り上げられようとしていた魔剣から力が抜ける。突き上げるような一撃に、セイバーの身体が僅か一瞬、中に浮いた。その隙を逃す筈もなく、宗一郎はそのまま、教壇に立つときとなんら代わらぬ振る舞いで、流れるように自然な連撃を繰り出す。
まずは左。ボルトで固定されたかのように垂直に曲がった左腕が地面に対して水平に弧を描き、フックの形でセイバーの左腕に止めを差す。打点は精密に手首。セイバーの手があらぬ方向に折れ曲がり、力を失った指から魔杖が弾かれる。壊れたプロペラのように、くるくると回転しながら飛んで行く魔杖。その行く末が気になったが、無論、そちらに注意を払う余裕などある筈もない。
続くニ撃目はまたしても左。振りぬいた腕を、今度は垂直に立て右腕を外に弾き飛ばす。裏拳の形で炸裂した打撃は容易にセイバーの肘を砕き、その姿勢のまま放たれた同じような一撃が、いともあっさりとセイバーの魔剣を宙に弾く。セイバーの手を離れたが為か、魔剣は空気に解けるようにして夜に消えた。
連撃は終わらない。セイバーの武器を無効化する、という策が終わったためか、次の一撃はいままで以上に早く、凶悪だった。半歩を踏み込みながら繰り出された左の一撃は、しなるような動きと速さで、殊容赦なくセイバーの側頭に炸裂した。もはやばぢん、という音すら立て、セイバーの身体が傾く。
そして。
これが最期、とばかりに、宗一郎が僅かに身を沈めた。腰を落とすその動作は、いままで宗一郎が微塵も見せることのなかった予備動作。時に攻撃を読まれる原因となるそれは、言い換えれば、大撃を放つ準備動作とも言える。
「あ――――」
セイバーの口から、息のようなものが漏れたと思ったのと同時。
身体全身をぶつけるような踏み込みで、いまのいままで押し止められていた右腕が解き放たれた。直線距離を最高速度で飛翔する一撃は、例えるなら攻城用弓具。はるかな太古、敵の城壁を打ち砕くために用いられた大型兵器に類似すらしている。その先端は拳ではなく掌。開かれながらに折りたたまれた五指が、心の臓を握りつぶさんとばかりにセイバーの身体を打ち据えた。
「――――ッ!!」
セイバーの口からは、もはや吐息すらも満足に漏れることがない。
最高の一撃を受けたセイバーは、まるで鞠か何かのようにあっさりと吹き飛ばされ、その道中。
地面と水平に飛ばされながら、痛みに歪み、おそらくは意識すら曖昧な顔を更に歪め、
「ごめんなさい、マスター……!」
掠れるような声でそう言い、呆れたくなるほどに見事な蹴りを、士郎の腹に叩き込んだ。
「が――――ッ!?」
突然の一撃に、肺に入っていた空気が全て吐き出される。身体が中に浮く感覚。意識が一瞬白濁して、気付いたときには身体が地面を転がっていた。ざざざ、と背中で地面を削る気配。は、とも、あ、とも声を漏らせない。言葉を紡ぐには、決定的に酸素が不足している。
言葉らしい言葉を紡げたのは、飛翔の末の着地が終わり、身体が完全に停止してからだった。身体が反射的に呼吸を求めて、直後、あまりの痛みに咳き込んでしまう。身体の中心をごっそりと持っていかれたかのような鈍痛。さすがに手加減はしたのだろうが、あの勢いで吹っ飛ぶセイバーが繰り出した一撃をまともに喰らったのだ。肉をこそがれなかっただけマシと思わなければならないのかもしれない。
そこまで考え、ようやく、あ、と士郎は声を漏らした。
「セイバー……!」
身体に力を入れれば、それだけで逃げ出したくなるほどの鈍痛が生まれる。あまりの痛みに更に咳き込み、それを押して身体を起こした。
セイバーは、ここから二十メータ以上離れたところで、自分と同じように咳き込んでいた。もっとも、あちらの咳き込み具合は度合いが違う。セイバーが自分に蹴りを浴びせたのは、あくまで自分を退避させるため。あの場に留まれば、次の一挙動でこの心臓を突き潰しただろう宗一郎の間合いから逃すための手段だ。
それに対し、セイバーが喰らった一撃は、全てが致命傷じみた拳の連撃。生身で喰らえば一撃で首が飛んでも可笑しくないような打撃だ。それを四撃。瞬く内に繰り広げられたその攻撃、その殺傷力など推して知るに余りある。
「――――あ」
セイバーの口から漏れた声が風に乗り、辛うじて士郎の耳に届いた。
彼女は頼りない動作で立ち上がった。ぐらり、と身体が傾き、だが即座に姿勢を持ち直す。その顔は真っ直ぐに前を向いているが、両腕の負傷は決定的だ。手首を砕かれた左腕と、腕ごと討ち折られた右の腕。セイバーは舌打ちをするように顔を顰め、それでもなお折れた両腕を挙げ、拳法の構えらしきものを取ってみせた。
その視線の先に居るのは、依然生気というものをまるで滲ませることなく幽然と佇む、葛木総一郎その人である。葛木は僅かな構えを取ったまま、一歩も動くことなく、しかし隙を見せればその瞬間命を狩ると存分に態度で語りながら、静かに其処に立っていた。
セイバーの顔に苦渋が、焦りが浮かぶ。それも当然。セイバーが何を謀っているのかは分からないが、その体術が宗一郎に勝ることはないだろう。先の連撃を見たからこそ、それが断言できる。最初の一撃なら、比較的無事な左手を盾にすることで防ぐことぐらい出来るだろう。だが、それで終わり。両腕を砕かれたセイバーは、今度こそ宗一郎の大砲じみた一撃の前に命を散らすことになる。
しかし、宗一郎から仕掛けるてくるような気配はない。宗一郎はただ静かにセイバーを見据えるだけで、それ以上の動きをしようとしない。それはセイバーも同じだ。セイバーは構えを取り、焦りを顔に浮かべながら、必死に状況を打破しようとしている。
魔杖を持たないセイバーが武器を作り出すことは、不可能だ。セイバーが愛用していた"万難排す絶対の剣"は、あくまであの魔杖を前提とした宝具だ。あれを持たぬセイバーが有する宝具は宝石剣のみであり、しかしいま、セイバーに宝石剣を振るうだけの余力は無い。セイバーの焦りと、其処に伺える疲労を見れば、その程度の判別は容易い。
だが、何よりも問題なのは。
「まったく。とんでもないサーヴァントを従えているのね、坊や」
空間を渡ってきたのか。
衛宮士郎の目前に、黒い法衣のサーヴァントが、怒りを滲ませた気配で姿を見せたことだった。
闇が濃縮するようにして姿を見せたキャスターは、その振る舞いの枝葉に、隠しようのない怒りを滲ませていた。
たん、と一歩歩いたその足が、からん、と地面に転がっていたそれを蹴飛ばす。
キャスターは衛宮士郎の目の前に立つと、四つんばいになったままのこちらを見下ろしながら、憎々しげに口を開いた。
「冗談にも程があるわ。平行世界への干渉なんて、まさに魔法の領域でしょう」
宗一郎が打って出ないのは、それが理由。
セイバーが焦りを浮かべているのは、これが理由。
キャスターの援護を受けていたのだろう宗一郎が、魔術の光を拓いてまで担ったことは、セイバーと自分とを分離させることだ。確かにセイバーはキャスターの魔術に対抗してみせたが、人間の魔術師でしかない自分にキャスターの相手が出来る筈もない。故に宗一郎はセイバーの相手をし、その時点で自分を殺せるならそれで良し、無理ならセイバーと自分とを引き離せばいい。あとはキャスターが、この身体をいとも簡単に吹き飛ばしでそれで終わり。とても分かりやすい、簡単な構図だ。
「本当、なんていう規格外なのかしら。セイバー剣士のクラスにあるくせに、あれほどの魔術を連発するだなんて」
セイバーは僅かに目を引き締め、覚悟を決めたようだった。腰を沈める様が見える。ああ、確かにそれが一番確実な策だろう。キャスターがこの身を吹き飛ばすより先に、セイバーがキャスターのマスターを打ち倒せばいい。キャスターが自分に相対しているように、セイバーも宗一郎に相対しているのだから。
――――そう。
それが例え、敵う筈のない相手だとしても。
「――――あ」
思わず、声が漏れた。
息を吐く。
目の前にあるそれを見る。
顔を上げる。
セイバーは既に行動に移っていた。貯めた足の発條を開放し、低い姿勢のまま疾走を開始する。それを静かに待ち受ける宗一郎。その顔は相変わらずの無表情で、緊張も、ましてセイバーを嘲笑う表情があるはずもない。
だからこそ、余計に。
セイバーの行動が、無謀な策なのだと思い知らされた。
「――――あ」
させない。
絶対に、セイバーに、彼女にそんな真似はさせられない。
思い出す。赤い夢。戦場跡で泣いていた彼女。何もなかった筈の男が、それでも何かを残してしまった赤い少女。その成れの果て。
そんな彼女に、これ以上、無茶をさせてなるものか。
自分が、迷惑を掛けてなるものか。
「けれど、もういういわ。坊やのサーヴァントは私が頂きます。坊や、あなたは疾く死になさい」
時間がない。キャスターの指がこちらを向いた。あとはキャスターが一言を呟けばこの身は終わる。
セイバーは一瞬で距離を詰め、宗一郎の間合いに入り込んでいた。即座に迎撃に移る宗一郎。彼は完全なタイミングで迎撃の一撃を繰り出そうとする。それは覚悟の内なのか、それとも何か狙いがあるのか、予想通り左腕を盾にするようにして進むセイバー。
二人の激突まで一秒もない。
キャスターが魔術を放つまで、こちらも一秒なんてないだろう。
時間がない。時間がない。時間がない。
この現状を打破する技術は自分にはない。
この苦境を乗り切る魔術は自分にはない。
そう、自分には、まだ、ない。
だから。
「力を貸せ――――」
キャスターが口を開くより、ほんの少しだけ早く。
「――――この馬鹿野郎!!」
士郎は、目の前に転がってきていたセイバーの魔杖を左腕で掴み上げた。
それが、破滅に繋がる手段だと十二分に理解しながら。
まず異常が起きたのは、やはり、それを掴んだ左腕。みしりみしりと骨が軋みを上げ、ばつんばつんと内部で肉と健が断裂を繰り返す。
「が――――!」
ずぶり、と来た感触に、士郎は思わず声を上げていた。
「な――――!?」
キャスターの漏らす驚愕の声が、何故か遠い。
遠い向こうで、誰かが足を止める気配。声が聞こえる。誰かがやめなさいと叫んでいる。
「ぎ――――あ――――」
けれど、そんなものに意識を払う余裕は無い。
手の平にずぶりと潜り込んできた何かは神経と血管を浸食し蹂躙し、多すぎる知識と情報を無理やりこちらの脳髄に刻み込もうとする。
視界が白濁する。一秒が百瞬に引き伸ばされる。刹那が無限に等価され、無限が刹那の間隙に堕ちる。
眼球の裏側から視界に割り込む誰かの記憶。十年を越える月日。幾多もの戦場と、それを共に乗り越えた彼女の記憶。
次から次へと供給される景色は全て彼女がらみのもので、ああ、なるほど。
コイツは、確かに、疑いようもないほどに、彼女を愛していたのだ。
「づ――――」
背筋を駆け上がる感触は、魔術回路を形成するときのそれに似ている。脊髄に焼けた針を通すような錯覚。埋め込まれた針は形を変え、神経という神経を喰らい犯し書き換えようとする。
ぶちん、と音がして、左腕の一部が内側から裂けた。覗いたのは血と肉と、そして剣の切っ先。
あ、と息を飲む暇もない。まるでそれを皮切りにしたかのように、左腕が二周りほど膨れ上がる。ぶちぶちと繊維を切り裂く音を立てながら、幾本もの剣がその切っ先を覗かせる。イメージとしては針が詰め込まれた風船。辛うじて原型は止めているが、その腕は今にも内側から弾け飛んでしまいそう。
「やめなさい――――やめなさい、マスター!!」
誰かの声が聞こえる。
コイツが誰よりも大切に思い、自分の憧れる少女のその行く末が、絶叫に近い声で懇願している。
「あなたがそれを使えば――――!!」
使えば、何だというのか。
何が起こるのかはわからないけれど、なんにせよ、もう遅い。
神経の侵食はついの脳にまで到達し、意識の中に経験したことのない記憶が刻まれる。
その、あまりの情報量に嘔吐した。
眼球が暑い。喉がカラカラだ。ふつふつと血が沸騰し、身体のあちこちで筋肉がばつんばつんと千切れていく。
意識を駆け抜けていく誰かの記憶とその知識。けれどダメだ。これは衛宮士郎の知識だが俺の知識ではない。同一人物ではあるかもしれないが同時人物ではないその矛盾。俺たちは同じだが同じではなく、一人だが一人ではないというその不条理。
「が――――!」
びしゃり、と吐いたものには、赤いものが幾分混ざっていた気がした。
他人の記憶は共有出来ない。他人の知識は共有出来ない。
杖の中の人間が持つ記憶も知識も、憶えることなんて出来はしない。
だから、代わりに記録した。脳髄を焼き切らんばかりの圧力で駆け巡る情報を、一片たりとも逃すまいと必死に記録した。反動なんて知らない、副作用なんて考える気もしない。がくがくと揺さぶられる意識を刃に、脆弱な脊髄を石版に。僅かな、そう、日常の僅かな記憶すら逃すまいと全てを脳髄に刻み込む。
ぱしん、と乾いた音。音源は左腕の中、握り締めた魔杖だ。
木によって形成されたそれは、士郎の魔力に呼応するかのように自身に皹を走らせ、その外装を拒絶する。
ぱぁん、と何かが破裂し、それを覆っていた外見が弾かれた。木の偽装の中から現れたのは、それまでの魔杖より一回りほど小さい簡素な杖。先端には双蛇の装飾ではなく、赤い、何処かで見たような鏃に似た赤い宝石が取り付けられている。
「――――あ」
それで、いろいろと理解した。無意識のうちに、右腕でズボンのポケットを探る。指先に伝わった硬い感触。形状を探るまでも、見て確かめるまでもない。あの夜、セイバーとであったあの月夜、不思議と生き延びた自分のそばに落ちていた赤い宝石。
その持ち主を、今更ながらに理解して。
「あ――――あああぁぁぁぁぁ!」
ありとあらゆる痛みと悔念を捻じ伏せて。
その宝具を、記録した技術を、開放する。
出来ぬ筈がない。出来ぬ道理がない。
なぜならこの宝具は、紛れもなく。
「"何時か手にする其の奇跡"!!」
紛れもなく、エ□□シ□ウで出来ているのだから。
ぐん、と右手に重みが生まれる。
動かすことすらままならない眼球を辛うじて巡らしそちらを見れば、其処には何時か見たような一振りの剣がある。
士郎は麻痺するほどに強く奥歯を噛み締めながら、右手のそれをゆっくりと左手の弓に番えた。投影した弓は、誰かが使っていたのと同じ黒い光沢の無い洋弓。其処に何かを感じ、しかしそれ以上の理解を放棄して士郎は弦を引いた。
唱えるべき言葉など決まっているし、射るべき標的も一つしかない。
剣を番えたまま、その先端を遠い幽鬼に向ける。
そして。
「"偽――――"」
投影した宝具の真名を呟き、引き絞った弦を開放しようとして、その瞬間。
「――――!!」
誰かが誰かの名を呼びながら、その射軸上に飛び込んできた。
ほとんど見えない眼球が辛うじて捉えたのは、闇に翻った黒い法衣。
その向こう側。
僅かに覗いたその瞳に、いつか、つい最近見た誰かの瞳を思い出し、
「"――――螺旋剣"!」
士郎は"矢"を解き放った。
[Go to Next]