Fate / other night

18 / Fairy of Winter



 からん、と"何時か手にする其の奇跡"が地面に落ちた。
 士郎はその場に蹲るように膝を着き、原型を止めぬ左腕を右腕で押さえ込んだ。服の上から押さえ込んだ腕は角材のように硬く、力を込めても微塵も動く気配がしない。伝わってくるのは痛みだけ。肘から手首までの間にしかなかった裂傷は、いまや余す箇所なく腕全体に及んでいる。見られる傷口は悉く内側から裂けており、その奥には血や肉と共に、どう考えても骨ではない白いものが見て取れた。五指は全てがあらぬ方向に捻じ曲がり、その様相は悪趣味な華を連想させさえする。

「づ――――あ」

 ぜいぜいと息を吐き、痛覚神経一本一本にざくざくと針を突き立てられるような痛みをやり過ごす。それが精一杯。呼吸が荒いのは痛みだけのせいではなく、単に満足に肺が機能しないからだし、それをいうなら視界だって不完全だ。遠近感がない視界はどちらかの目が働いていないという証だろうし、見えていない目がどちらなのかも判然としない。視野はいつもの半分以下。まるで紙に開けた穴(ピンホール)越しに外を覗いているみたい。
血の味しかしない唾液を飲み込んで、士郎は顔を上げた。遠く。それほど離れていたわけではなかった筈なのに、不思議と届かないほど遠いと思えるその場所に、数えて二つの姿がある。

 一つは葛木宗一郎。目の前の光景に眉すら潜めない彼は地面に膝をつき、その深緑のスーツを赤く染めていた。僅かに俯いたその顔は、視線は、真っ直ぐに腕に抱いた彼女の元に注がれている。
 だからそう、それが二つ目。纏っていたローブはもはや微塵の面影もなく、その下の肉体は既に死に体だ。キャスターは全身から血を滲ませ、口の端からは毒を盛られたかのように血を流しながら、それでも満足そうに宗一郎の腕に身を委ねていた。

「――――」

 キャスターの口が僅か動く。何を呟いたのか、おそらくは宗一郎のみが聞き取れたことだろう。
 宗一郎は力ないキャスターを抱いたまま顔を上げ、顔色一つ変えず、ただ一度だけ視線を反らしたあと、

「衛宮、一つ尋ねる。何故外した。あれほどの好機、二度とはないぞ」

 そんな、聞くまでもないことを問うてきた。
 ぎり、と歯を噛み締め痛みを堪え、士郎は身体を起こした。ろくに曲がらない足でどうにか均衡を保ち、宗一郎の視線に応える。

「――――、よ」

 その選択に、特別大した理由はない。
 確実に撃ち抜けたその瞬間に、弦を手放すその刹那前に。宗一郎と、それをかばったキャスターから力いっぱい狙いを反らした理由なんて、決してそんなに多くはない。

 ただ、その瞳が。
 キャスターがローブの奥に覗かせたその瞳に、泣きたくなるほど見覚えがあったからだけだ。

「――――か、よ」

 魔女の瞳は、つい最近目にしたそれと酷似していた。
 それは例えば、親に捨てられた白い少女の瞳だったり、何故助けてくれなかったのかとこの身を糾弾した後輩の瞳。
 大事なものに、大事にしたかったものに裏切られた哀愁の瞳。
 もっと簡単に言うのなら。いいや、裏返してその事実を言うのなら。
 大切なものを喪った、喪おうとする者が浮かべる、寂寥の瞳。

「そんなこと――――出来るかよ!」

 士郎は歯を噛む。それしか出来ないと自嘲しながら、ただひたすらに歯圧を高める。
 甘いということは分かっている。誰にだって大事なものがあるということぐらい、当然として理解している。敵に、打ち倒すべき者にも当然のように護るべきものがあり、相手を倒すということは、相手を大事なものごと踏みつけることだということを知っているし、それが当たり前だと認識してもいる。

 だけど。
 だけど、どうして。どうして、そんな目を見せたキャスターを撃てようか。

 衛宮切詞に捨てられたイリヤスフィールの気持ちを知り、救えなかった桜の気持ちを知った自分が、どうして彼女たちと同じ瞳を見せた相手を踏みつけられようか。
 ぽたり、と、血ではない液体が地面に落ちて、士郎は自分が泣いていることに気がついた。痛みからくるものではない。左腕は、もはや痛みなんて言葉が生易しいほどの刺激を伝えてくるが、それが逆に意識をクリアにしてくれる。

「出来るかよ、出来るかよ、出来るかよ出来るかよ出来るかよ――――出来ない、よ」

 例え、それが甘えだとしても。
 仮に、それが間違いだったとしても。
 衛宮士郎に、キャスターは殺せない。キャスターが我が身を投げ出して庇おうとした宗一郎も、殺せない。

 だって。
 もし躊躇わなければ。もし狙いを外さなければ。もし射殺していたのなら。
 ……それは、イリヤを、桜を裏切ることだから。いいや、裏切るというのなら、もうずっと裏切ってきたのだろう。切詞に捨てられたイリヤスフィール。助けを求め続けた間桐桜。そんな二人の少女を裏切って、謝ることすら出来なくなる。謝る権利すら亡くしてしまう。
 だから撃てなかった。イリヤと、桜と同じ瞳をしたキャスターを、殺すことなんて出来なかった。

 何故ならば、その先に。
 桜とイリヤを裏切って、裏切ったことすら気付かずに時間を過ごした結果が、あの赤い戦場なのだから。

「マスター」

 不意に聞こえたセイバーの声。士郎は顔を上げ、目の前に佇む黒いコートのサーヴァントを見る。いつの間に近づいてきていたのか、セイバーは身体を曲げ、治癒された両腕で地面に転がる魔杖を拾い上げた。そのままそれを胸に抱き、視線を逸らしたまま、だが紛れもなく怒気を孕んだ声で問うてくる。

「マスター。何故、これを手にしようなんて思ったの? これの中身は想像がついている筈なのに」
「知ってる。けど、他に方法がなかったんだからしょうがないだろ」

 言葉を震わせるのが酷く億劫だ。呂律を廻すのが精一杯。
 苦労しながらそれだけを答えると、セイバーは一瞬顔を伏せたあと、何事もなかったかのように宗一郎たちの方に向き直った。魔杖を左手に保持し、右腕に細身の魔剣を投影する。

「それで。どうするの? キャスターのマスター。まだ戦うつもり?」
「――――」

 宗一郎は答えない。血まみれのキャスターを腕に抱いた幽鬼は無言のまま、しかしキャスターの身体を優しく地面に横たえ、微塵の躊躇いもなく構えを取った。
 セイバーの身体に緊張が走る。それも当然。宗一郎の構えには未だ衰えぬ戦意があり、敵対するものを打ち砕くと言う必殺の気負いも健在だ。
 だが、それはあくまで見た目にすぎない。意識を集中するまでもない。あの杖を介して自分のものではない記憶を見せ付けられた影響なのか、それが理解できてしまう。やけに狭く暗い視界の中、静かに構える宗一郎の身体には、しかし。

「駄目だ、セイバー」

 魔剣を構えるセイバーに、士郎は静かにそう命じた。
 宗一郎の構え。眉一つ動かさぬ幽鬼の表情。その全身から緩く発せられる殺気。それらは全て、つい先ほどまでの宗一郎とまるで同じだ。
 だから、違いはただ一点。僅かな、そして決定的な差異が其処に見て取れる。

「葛木に、もう戦う術はない。だから、止めてくれ、セイバー」

 セイバーを圧倒した葛木の拳。その原因は、一介の人間に過ぎない葛木が英霊であるセイバーに有効打を繰り出すことができた理由は、キャスターがその拳に強化を掛けていたからだ。
 そして、いま。キャスターにそれだけの余力はないのか、宗一郎のその構えから、必殺の悪寒だけが消えている。殺気はあるが、それはあくまで殺気にすぎない。その殺気を実現させるだけの強化が、宗一郎の身体から消えていた。

「マスター」

 士郎の懇願に、セイバーは醒めた声を返した。

「甘いわよ、あなた。それに、マスターだって分かってるでしょう? どうせあのまま放っておいたって」
「――――」

 そう。
 そんなことは、承知している。
 キャスターは既に死に体だ。英霊であるキャスターならば、周囲の魔力を吸収することで回復を謀ることも出来るかもしれない。だが、その余裕すら既にないのだろう。癒すべき基盤(からだ)が、とっくに瀕死(ぼろぼろ)なのだ。
 自己再生が間に合わない。死に逝く身体と治癒される身体のバランスはどうあっても覆せない。十を失いながら一を取り戻すことに、いったいどれほどの救いがあるというのか。
 仮に、キャスターを救えるとしたら、その方法は一つだけ。あの夜に自分がそうされたように、外部から助けを施すほかにない。だが自分にそのような技術はなく、ああ、セイバーにはあるかもしれないが、彼女はその選択をしないだろう。

 それに、なによりも。

「――――どうした」

 助けは要らぬと。
 敵に送られる塩は無いと。
 止めることは出来ぬと。
 ……それは、衛宮(おまえ)の明らかな甘えだと。
 無表情なその顔で、しかし何よりも雄弁に語りながら、宗一郎が呟いた。

「来ないのならば、こちらから行くぞ」

 宗一郎の腰が僅かに沈む。
 あれは移動のための予備動作だ。キャスターの補助がなくなったいま、宗一郎がどれだけの身体能力を誇るのかは知れないが、セイバーに叶う筈がないだろう。所詮は人間と英霊。それを比べる方がどうかしている。
 だがおそらく、宗一郎にとって、そんなコト事実は瑣末事に過ぎないのだろう。
 宗一郎は僅かにざり、と足元を揺らし、

 近づいてくる足音に、小さく眉を顰めた。








 声が聞こえた刹那、舌打ちと、どん、という衝撃が身体を襲った。
 突然のことに理解できない。遠慮ない体当たりに身体はそのまま突き飛ばされて、後方の石段に着地する。受身を取る間もなく、石段にぶつけた後頭部が、がつん、となかなかに洒落の効いた音を立ててくれた。

「――――ッ」

 想像以上の痛みに、思わず頭を抱えてしまう。
 凛は目の端に涙を浮かべながら、文句を言おうと顔を上げ、

「――――アーチャー?」

 目の前の光景に、そのまま息を飲んだ。

 墓石が生えていた。大質量弾が炸裂したかのように吹き飛ばされ、皹の入った石段の中央。つい先ほどまで自分が立っていた場所に、小さなクレーターが出現していた。
 その中央に聳えているのは、無骨な、剣と呼ぶことさえ躊躇わされる斧剣だった。どれほどの腕力でもって・・投擲されたのか、地面に突き立ったそれは、その半分ほどが地面に埋まっている。
 そして、そのすぐ傍らに。
 半身を削がれた、赤い騎士の姿があった。
 その装いが、いつも以上に赤いのは、決して気のせいではないだろう。斧剣の直撃は辛うじて回避できたのだろうが、その余波までは防ぎきれなかったのだろう。口の端から血の筋を垂らすアーチャーは、その右半身をごっそりと削り取られていた。

「まったく。君は、もう少し周辺状況に気を配った方がいい」

 呆れたようにそういうアーチャー。
 その、あまりにも普通すぎる振る舞いが、逆に頭にきた。凛は立ち上がり、弓兵に駆け寄ろうとして、アーチャー本人に手で制された。

「冷静になれ、凛。君には、やることがあるだろう」

 その一言に、凛は下唇を噛んだ。ああ、そうだとも。冷静になるのが第一だ。だが、考えるべきことなんて何処にある? この斧剣に見覚えがあるし、その持ち主なんて一人しか知らない。ならば起こったことは火を見るより明らかで、次に起こることなんて林檎を地面に落とすより簡単に想定できる。
 凛は気を引き締め、石段の下、夜闇の向こう側に目を向けた。

 目を凝らすまでもない。
 遠い眼下。薄い闇の向こう側で、(くろがね)の巨人と、雪のように白い少女の姿があった。

「バーサーカー……!」

 その呟きが聞こえたどうか、巨人と少女は一段ずつ、ゆっくりと石段を登り始める。
 確かに、考えてみるべきだったのだ。
 イリヤは桜がここに居ると告げた。そして自分たちは、桜を救出に向かうとイリヤに告げている。それはつまりキャスターと自分たちが衝突するということで、勝敗はともあれ、生き残った者にも少なからずの消耗を抱えるということだ。
 ならば、それを突かない愚策が何処にある。
 漁夫の利を狙わないという選択が、何故存在しうる。
 凛は舌を打った。やられた、と思う。イリヤスフィールの狙いは、最初からこの展開だったのか。
 苦い思考に凛が顔を歪めると、ぽつり、と、ごく当たり前のようにアーチャーが声を上げた。

「それは違うぞ、凛」
「え?」
「イリヤは、最初からこの状況を狙って情報を流したわけではないだろう。後から考えて、丁度いいから討って出た、というのが適当なところか。まあ確証はないが」

 淡々と言い、アーチャーは身を翻す。だくだくと流れていた血は既に止まり、だが傷は、喪失はそのままだ。赤い弓兵はやれやれと呟き、遠い、だが先ほどよりは確実に近い場所に居るバーサーカーを見下ろした。

「アーチャー、あなた」
「行け、凛。ここは任された。――――時に、アサシン。桜は無事だな?」
「ああ、無論だとも。尤も、私の血がついてしまったがな。許せ、主殿」

 アーチャーの言葉に答え、身を伏せていたアサシンが身体を起こした。アサシンは庇っていた桜を立たせると、手を振って凛の元へ行けと示す。

「アサ、シン」
「行って下され、主殿。なに、気に病まずとも結構。先の私の言葉、嘘ではない」

 アサシンは笑うようにそう言って、瀕死の身体を事も無げに立ち上がらせて見せた。
 青い衣の侍は赤い弓兵の隣に立ち、く、と僅かに笑い声を上げる。

「どうした、アサシン」
「いや、なに。私は私で門番の役目を果たすだけよ。――――行くがいい、アーチャーのマスター。主殿は任せたぞ」
「アサシン!」

 桜の叫び声。
 凛は呆れながら息を吐き、自分の頬を叩いて桜の腕を掴んだ。

「行くわよ、桜」
「離して――――離して下さい、姉さん!」

 凛の腕を振り払うように、桜が拒絶を示す。
 桜はアサシンの背中を見たまま、泣き叫ぶように言葉を口にした。

「アサシンが、だって、アサシンが! 私はアサシンのマスターだから、一緒に居ないと――――」
「ああ、もう、頭を冷やしなさい、この馬鹿!」

 言うが早いか、桜の腕を掴まぬ腕が振るわれた。乾いた音が響いて、桜の頬に赤い跡が残る。
 何が起こったのか理解も出来ずにぽかんとした桜に、凛は告げる。

「言ったでしょ? あなたには士郎に謝ってもらうって。あなたには死んでもらっちゃ困るのよ、桜!」

 一方的にそう告げて、凛は走り出した。まだ抵抗を見せる、しかし先ほどよりは力ない桜を無理矢理引きずるようにして、石段を残り少ない石段を駆け上がる。
 その背中に。

「ああ、そう言えば、凛」

 彼女のサーヴァントの、最期の言葉が掛けられた。
 凛は足を止める。振り向かない。振り向くわけには行かない。振り向けば絶対に躊躇いが生まれると理解しているから、そんなことは、アーチャーとアサシンの思いを踏みにじるようなことは出来ない。
 そんな凛の思考は百も承知なのか、アーチャーは柔らかい、安堵ともいえる声で言葉の先を続けた。

「セイバーに言っておいてくれ。イリヤは、絶対に殺すな、と。貸しは、それで無しだ」
「分かったわ。けれど、なかなか無茶な要求をするのね、アーチャー」
「偶にはな。それとも不服か? 凛」
「ううん、別に。果たすのは私じゃないし」

 ふう、と声の震えを抑えるために一息。

「――――じゃあ、頑張りなさいね、アーチャー。あなたが私のサーヴァントで、本当によかった」
「同感だ。桜と、あの馬鹿を頼む。……元気でな、遠坂」

 苦笑したような最後の呼称に眉を顰め、しかし凛はすぐに足を動かした。
 躊躇いはなく。思いも、遺恨も、後悔すら残さず、真っ直ぐに石段を駆け上がる。

「姉さん」

 山門を潜り抜けたとき、ふと手が軽くなった。見れば桜は、それまでの思いを引きずる足取りをやめ、立派に足を動かしている。辛そうに歪んでいた顔は、何かを決意したかのように、何かに気付かされたかのように引き締まっていた。

「離してください。私、一人で走れます」
「ええ、そうみたいね」

 出来るだけ淡々と呟いて、言われた通りに桜の手を離す。
 桜は掴まれていた腕に反対側の手で触れて、しっかりとした走りで、あっという間に凛の隣に並んだ。

「――――」
「――――」

 言葉を交わすことなんて出来ない。
 そんな余裕はないし、猶予もない。

 ただ、前を見て。

 背後に狂戦士の咆哮を聞きながら、二人は夜の境内を駆け抜けた。





 二人のマスターが石段を去ってしばらくしたあと、王者の風格すら漂わせ、灰色の巨人がアーチャーとアサシンの前に姿を見せた。

「アサシン」
「ふむ? どうした、アーチャー」

 隣で長刀を構えることなく遊ばせるアサシンに、アーチャーは声を掛けた。

「何合程度なら保つ?」
「あの巨漢となれば、良くて三合か。なにせこの有様でな。いや、おまえの一撃は強烈だった」

 バーサーカーはゆっくりと距離を詰め、二人の前で堂々と地面に突き立った斧剣を引き抜いて見せた。
 それを確認すると、狂戦士の肩に腰掛けていたイリヤはするりと地面に舞い降りる。着ている服の裾が僅かに揺れ、何事もなかったかのように月の光に浮かび上がった。
 アーチャーはふん、と息を吐き、残った左手に剣を投影する。

「私もその程度が精々だ」
「そうか」

 主を下ろした巨人は、夜空に向け咆哮を上げた。
 夜の空気を振るわせる大声に、アーチャーは苦笑にも似た笑みを浮かべてみせる。

「ではアサシン。死に損ないらしく、醜く惨めに抵抗してやるとしよう」
「異存ない」

 同じく苦笑するようにアサシンが答え、そして。

「やっちゃえ、バーサーカー」

 白い少女の命令を合図に、勝敗の分かりきった戦いが始まった。








 足音の主は、桜と凛の二人だった。
 全力で走ってきたらしい二人は、士郎たちと宗一郎たちを頂点とした場合に正三角形を描く位置で足を止め、驚きに息を飲んだ。
 桜の驚きは、宗一郎と、地面に横たわり死に逝こうとしているキャスターを見たが為。
 凛の驚きは、こちらはこちらで満身創痍の身体を見たからだろう。

「間桐か」

 そんな二人の驚きを気にした風もなく、淡々と宗一郎が呟く。構えは解かぬまま、視線すら向けぬまま、ふむ、と頷いた。

「アサシンは敗れたか。手詰まりとはこのことだな」

 言う台詞には、しかし怒りも焦りも何もない。
 ただ事実を述べているだけという、それだけのこと。

「葛木、先生」
「どうした、間桐。アサシンが敗れたなら、既におまえに戦う術はあるまい。生き延びたければ逃げるがいい。時間ぐらいは私が稼ごう」
「――――え」

 疑問の呟きは、果たして誰のものだったのか。
 士郎は呆然と。セイバーは驚いたように。そして桜と凛は息を飲みながら、時間を稼ぐと、しばらくは盾になると告げた教師を見る。澄んだ、澄みすぎた瞳からは、その真意を謀り知ることなんて出来ない。
 だから、その台詞は紛れもない真実だった。宗一郎は、教壇に立つときと同じだけの誠実さで、先の言葉を口にしていた。
 桜は宗一郎の言い分に顔を伏せ、しかし、すぐに顔を上げた。その顔に驚きはなく、引き締められた決意の感情だけが浮かんでいる。

「嫌です。私は、逃げません」
「間桐」
「逃げません、逃げれません。だって私は、まだ、キャスターになんのお礼もしていませんから」

 自分に言い聞かせるようにそう言って、桜は駆け出した。構えを解かぬ宗一郎と、死に瀕したキャスターの下に。
 そんな桜の背中を見遣り、凛が息を着いた。思考を切り替えるための吐息。僅か一瞬瞳を閉じた凛はすぐに目を開き、細めた視線をこちらと宗一郎の交互に送って見せる。

「士郎、葛木。提案があるわ」
「遠坂?」

 予想外の言葉に、士郎は思わず問い返していた。
 凛は小さく頷き、緊張を孕んだ、真剣そのものの口調で先を続ける。

「見て分かると思うけど、アサシンは私のアーチャーが倒したわ。でも、アーチャーも倒された。乱入してきたバーサーカーにね」

 その言葉に、士郎は息を飲んだ。傍らのセイバーに目をやれば、セイバーは苦りきった表情で口元に手を添えていた。

「しまった……漁夫の利を狙うイリヤのこと、考えもしなかった」
「そういうこと。私のサーヴァントは――――もう、居ないし、セイバー、あなた一人じゃバーサーカーには勝てない。違う?」

 その問いに、セイバーは無言で肯定を示す。
 凛は頷き、鋭い視線を宗一郎に向けた。

「そういう訳よ、葛木。セイバーだけじゃバーサーカーには敵わない。だから、」
「だから、手を組め、か?」

 物怖じの欠片も感じさせない確認に、士郎は息を飲んだ。原因は知れぬ。ただ、その行為は間違いではないのかと問うその気配が、不条理なほどの迫力でこちらを脅迫してくる。
 だが、凛はそんな気配をものともせずに頷いた。

「ええ、そうよ」
「だが、それで私たちに何の得がある? 相互に利益がなければ、協定関係とは言えないぞ」
「分かってるわ。だから、手を組むなら、私が全力でキャスターに魔力を注いで回復させるわ。桜だけじゃきっと足りない。勿論、絶対に回復させるって確約は出来ないけど、どうする?」
「――――」

 凛の問いに答えず、宗一郎はここに来て初めて、セイバーから視線を逸らした。向けられたのは眼下。地面に横たわり、いまだ息絶えぬまま、しかし確実に終わりに向け転がり落ちているキャスターだ。その傍らには桜がおり、キャスターの傷口という傷口に手を当てている。傷を治しているのか、それとも本質が霊体たるサーヴァント、単に魔力を注ぎ込んでいるのか、そこまでは判断出来ない。
 ただ、宗一郎はその様子を見て、僅かに息を吐いたようだった。ふむ、と頷き、あっさりと、何の躊躇いもなく構えを解いてみせる。

「葛木」
「どうした、衛宮。おまえが組めないと言うのなら、今すぐにでも仕切りなおすが」

 その返事に、士郎は息を吐いた。見れば、セイバーはとことん不服そうな顔を明後日の方向に向けている。理性では凛の提案が妥当と理解しつつも、誇りとかその辺のものがセイバーを素直に頷かせないのだろう。
 だから、代わりに士郎は頷いた。頷き、セイバーに告げる。

「葛木と手を組むぞ、セイバー」
「……ああ、もう。分かったわよ、マスター」

 不貞腐れたように言って、右手の剣を消すセイバー。
 士郎は肩の力を抜いて、ぐらり、とそのままバランスを崩した。すんでの所で踏みとどまり、転倒だけは回避する。
 悲鳴を上げる身体に鞭打って、士郎は凛に歩み寄った。辛そうに顔を歪める凛を不思議に思いながら、当たり前のようにその問いを発した。

「それで。俺たちは、時間稼ぎをすればすればいいんだよな?」
「ええ、そうよ。キャスターは、私と桜で絶対に回復させるから、それまでは頑張って。お願い」
「ああ、わかった」

 頷くと、凛はたたた、とキャスターの下に走り寄った。
 その背中を、よく見えない視界で捕らえながら、はあ、と頷く。

「マスター」
「ん? どうした、セイバー」
「どうした、って、あなたも下がっていなさい、マスター。さっきは私が折れたんだから、今度はマスターが折れる番でしょう」
「――――ああ、そうだな。悪い、じゃあ、少しだけ、任せる」

 頷いた言葉は、自分でも驚くほどに細く、掠れていた。
 そのことを疑問に思うより、少しだけ早く。

「――――あれ?」

 自分のものとすら理解できない声を残し、士郎の意識は掻き消えた。





 地面に倒れる士郎の身体を、セイバーはすんでの所で抱きかかえた。

「マスター? ちょっと、マスター!」

 大声で呼びかけるが、反応がない。完全に意識を失っている。
 セイバーは舌を打った。当たり前だ、と思う。本質的に同じである士郎がこの杖に触れれば、それだけで双方が双方に侵食するということぐらい、前々から分かっていたことだ。
 おそらくはいま、士郎の脳はフル回転しているのだろう。押し付けられた知識を、扱えないなら扱えないで封印するか、それとも刻み込むか、その処理で追われているのだろう。意識を失ったのはそれが原因だ。脳を圧迫する情報を一刻も早く処理するため、意識を保つだけの余裕がなくなったに過ぎない。
 セイバーは士郎に肩を貸し、凛たちの元に歩んだ。

「これ、頼むわ。すぐに意識が戻ると思うけど、それまではお願い」

 息を飲む凛と桜。だが凛は即座に、桜は一泊遅れて、キャスターの治療に取り掛かる。治療、とは言っても、それは単に魔力を流し込んでいるだけだ。ぼろぼろになり、自己治癒さえ追いつかなくなったキャスターを、自己治癒が叶う程度まで回復させる。それがこの二人の目的だ。
 やれやれ、とセイバーは苦笑した。士郎に意識はない。だがそれはあくまで一時的なもので、肉体的損害に目を瞑るのなら、まだまだ問題ないと言っても構わない。ならば確かに、先に手を施すのはキャスターであるべきだ。二人とも、そのことをよく理解しているらしい。

 だから、セイバーは背を向けて歩き出した。
 すると。

「セイバー」

 凛の言葉が、背後から掛けられた。

「アーチャーからの伝言よ。イリヤを絶対に殺すな、って。それで貸しは無しにするだそうよ」
「――――ふん。まったく、無茶な要求してくれるわね」

 苦笑しながらそう返す。
 会話はそれで終わり。
 セイバーは魔杖と、投影した魔剣を手に、ゆっくりと歩き出す。

 急ぐ必要なんて皆無。
 何故ならば、もうすぐそこに。

「お話は終わった? セイバー」

 すぐそこに、狂戦士と白い少女の姿があるのだから。
 少女は巨人の傍らに立ち、静かな笑みを浮かべている。
 その身なりが気になって、セイバーは眉を顰めた。

「イリヤ、その格好」
「えへへ。似合うかな?」

 笑いながら言うイリヤ。しかしその瞳は決して緩まず、冷たい、冬を思わせる輝きでこちらを見据えている。

「ええ、似合うわね」
「嬉しいわ。褒めてくれるなんて思わなかったから」

 言って、白い少女は数歩を後ろに下がる。
 セイバーは、今にも放たれようとしているバーサーカーを前にして、なお笑みを浮かべて見せた。

「じゃあ」

 (つい)、とイリヤが腕を掲げた。ゆるりと伸ばされた手は、真っ直ぐにこちらを示している。

「――――やっちゃえ、バーサーカー」

 その一言を契機に。
 黒い暴風が、一直線に解き放たれた。















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