Fate / other night
19 / And thus I pray, unlimited blade works
ぼろぼろになったキャスターの身体。その胸の中心に手を当て、魔力を流し込む手を止めぬまま、凛は傍らの桜に問いかける。
「桜、あの小瓶、もう残ってないの!?」
「あれが最後です! あとは私たちの力でどうにかするしか――――!!」
キャスターの身体を挟んだ反対側で、同じように魔力を供給する桜の言葉には悲痛の色が濃い。
ち、と凛は舌を打つ。桜が持っていた十の小瓶のうち、使うことのなかった最後の一。凛の奥の手である宝石と同等の魔力を込められていたそれ。その魔力を全て注ぎ込んでなお、キャスターの容態は回復に向かっていなかった。
いや、回復に向かっていない訳ではない。キャスターの傷は、魔力を注ぎ始めた時に比べれば格段に癒えているし、その顔にも生気が戻っている。周囲に満ちた濃い魔力を、二人掛かりでキャスターに流し込んでいるのだ。自力で魔力補給のできないキャスターに、自分たちがポンプとなることで魔力を押し込んでいる。周囲の魔力はまだ濃いままだし、いまの状況が続けばキャスターが命を落とすことはないだろう。
しかし。
(足りない。あと少し、本当に少しだけ、魔力が足りない!)
しかし、いまのままでは決してキャスターは意識を取り戻さないだろう。肉体の損害と自己治癒、その両者の絶望的なバランスは崩された。だが、それは決して優勢が反転したという意味ではなく、圧倒的優勢ではなくなったという意味に過ぎない。
今の状態を一言で言うのなら、均衡。五を失いながら五を取り戻しているのと同じだ。あと一息。小指の先ほどの余分な魔力があれば、それだけで均衡は崩れ去る。最後に少しだけ背中を押してやることができたなら、キャスターは自力で回復することができるだろう。
だが、その余量魔力が、何処を探しても見当たらない。
凛は舌を打つ。周囲の魔力はまだまだ衰える気配を見せないし、やれと言われれば、この状態を一時間以上持続させるだけの決意もある。それは桜とて同じだろう。いや、キャスターを救いたいと言う決意は、きっと桜のほうが強いはずだ。しかし、セイバーはどうだろうか。あのステージが違う化け物相手に、それほど長い間前線を張ることなんて出来ないに違いない。
キャスターへの魔力提供を緩めぬまま、凛は必死で思考を巡らせた。キャスターを後押しする最後の魔力、それがどこかに存在していないか、持てる注意の全てを注いで思考する。
無論。
そんなもの、何処にも残っていないと冷静に判ずる理性を抱えながら。
士郎は怒りを覚えていた。
赤い戦場跡で、男の亡骸を抱きながら涙を流す彼女。その結末に対して怒っていたし、その結末を迎えた男に対しても怒っていた。
理解出来ない。納得出来ない。
何故、彼女が泣かなければならないのか、検討もつきはしない。
だって、男は空っぽだったのだ。幼いころに見舞われた火災で全てを失い、我すらもそこで行き詰った。その後抱いた理念は借り物で、願った夢すらヒト他人のもの。なんて滑稽。我事ながらに笑い種だ。分かる。分かってしまう。男の一生を全て見せられた自分には、それが救いようのない間違いだと理解できてしまう。
だから、余計、頭にくる。
間違えるのは自由だ。間違えるのは勝手だ。
この道が。
男が抱き、自分が抱いたその理念が間違いで、その先に破滅しかないのだとしても、それが自分の責任ならば甘受しよう。それがどんな愚考であり愚行でも、自分にはそれしかないのだから仕様がない。
それに、そんな未来、とっくの昔に理解していた。理解して、蓋をして、見ないふりを続けてきただけだ。だって、自分にはそれしかなかったから。全てを失った衛宮士郎が衛宮士郎であり続けるためには、何か、借り物でも構わない、何かで自分を形作るしかなかったのだから。
だけど。
この道の終着駅が破滅だけだとしても。
衛宮士郎を待ち受けているのが、救いようのない終わりだけだとしても。
ああ、いや、そんなものは全部おまけだ。
ここに来てまで意地を張る必要なんてない。
衛宮士郎は怒りを覚えている。
何よりも。
死ぬことで、遠坂凛を悲しませたどこかの自分に、滾り尽きない怒りを覚えている。
男は空っぽだった。衛宮士郎は空っぽだった。
だから何も持ってはいなかったし、自分を勘定に入れることすらしなかった。
それが間違いだと言われても、どうにも実感することが出来ない。
自分は空っぽだから、何も持っていないから、誰も悲しませないと頭のどこかで考えていた。衛宮士郎は空っぽだから。衛宮士郎は何も持っていなかったから。何も持っていなかったら誰にも影響など与えないと思っていたし、自分が死んだとしても、それは誰にも何も及ぼさない、静かな終わりだと甘えていた。
そう、甘え。
とんでもない、それこそ信じられないような、最大級の甘えだった。
空っぽのまま生きられる筈がない。
何も持たないままに生き続けられる道理がない。
ああ、知らなかった。
衛宮士郎は空っぽだったから、だからこそ。
抱えきれない、こんなにも多くのものを背負っていたことに、気付かなかった。
「――――そういう、ことかよ」
士郎は呟いた。身体のない夢の中、返事を返す他人など居ない赤い世界で、それでもなお呟いた。
おもむろに世界が白味を帯びる。柔らかな白光が地面から溢れ出し、赤い戦場跡をゆっくりと、だが確実に塗り潰し始めた。周囲に転がる死体も、彼女も、彼女の腕の中の男も、全てを白く塗りつぶす。
夢が、醒める。
伝えたいことを伝えたが為か、夢を見せていた誰かが、この終幕を終わらせようとしている。
世界はやがて全てが白に溶け、闇に転じる。刻まれた世界は知識と記憶に還元されこの身の中へ。ああ、いいさ、受け入れてやる。自分が間違っているという事実も、それに気付かなかったが為に彼女を悲しませたという罪も、その何もかも。いまは動けないおまえの代わりに、俺が全て背負ってやる。
意識が遠くなる感覚を憶え、士郎は夢の世界に別れを告げた。
その瞬間。
夢から醒める、僅か前に。
この夢を見せたそいつに、せめて、短い一言を告げる。
「おまえはいつか彼女に謝れ」
(俺は――――)
俺は、ここで彼女を助ける。
その言葉に応えるように。
杖の中から流れ込んできていた誰かの意識が、僅か、苦笑したような気がした。
打つ手がなかった。
まさに八方塞がり、四面楚歌。打つ手は全て打ったし、使えそうな魔力は全て注ぎこんだ。
それでも、まだ足りない。
キャスターを復活させるには、ほんの一握り、小指の先ほどの魔力が決定的に不足している。
「姉さん、何か、他に何かないんですか?」
「あったらもう使ってるわ。桜、あなたも何か考えなさい。あと少し、本当にあと少しでいいの。あとほんの少しの魔力があれば、キャスターは助かるんだから」
桜の言葉を、切り捨てるようにそう返す。
しかし、凛はとうの昔に承知していた。打てる手は全て打ったし、考えられる可能性は全て検証し、それを既に七度繰り返した。もとより選択肢は多くなく、取れる手段も限られている。だからこそ全ての選択肢を想定できたのだし、同時に、全てが無駄と理解できてしまった。
凛は舌を打った。打つ手がない。打開策がない。行き詰まり、袋小路だ。その事実を認識しながら、それでもなお凛は可能性を探ろうとして、
「――――凛」
驚くほどに透き通った、士郎の言葉を耳にした。
「士郎!?」
キャスターへの魔力提供を止めぬまま、凛は顔だけを士郎に向けた。
仰向けのまま放って置かれた士郎は、片目を瞑りながら、その顔をこちらに向けた。
そして凛は息を飲む。士郎の瞳。何処か遠くを見るような瞳が、不意に誰かを彷彿とさせたが為に。
「先輩、大丈夫ですか?」
桜の、心配そうな、けれど確実に弾みを持った声。
士郎は片目を閉じたまま、そんな桜に柔らかく笑い掛ける。
「ああ、桜、か。ごめん、桜。俺、ずっと――――気付かなかった」
「――――」
淡々とした、そして限りなく誠実なその言葉に、桜が息を飲む。
「あとで、あとでちゃんと謝るから。謝るから、俺、行くよ」
「え?」
疑問符を上げたのは桜と自分、果たしてどちらだったのだろうか。
士郎はさも当然のように身を起こし、ぼろぼろの左手を抱えながら、傷口から止まらぬ血を垂らしながら、足を引きずって歩き出した。
無論。
バーサーカーと刃を交える、明らかに劣勢のセイバーに向けて。
「ちょっと、待ちなさい、士郎!」
思わず掛けた静止の言葉に、士郎はぴたりと足取りを止めた。
肩越しにこちらを振り返り、その淀みない視線をこちらに向けてくる。だがその瞳はけっしてこちらを映してはおらず、何処か遠い、別の景色を目にしているようだった。
凛は首を振る。そんな不吉な、士郎という半人前の魔術師には不似合いすぎるイメージを振り払い、言葉を続けようとして、
「そう言えば、り――――遠坂」
士郎がポケットから取り出したそれを見て、息を飲んだ。
「これ。何かの役に立つか?」
言いながら士郎が差し出してきたのは、赤い、小さな宝石だった。
憶えていない筈がない。
あの晩。士郎がランサーに殺害されたとき、その命を繋ぎとめた奥の手の宝石だ。心臓破壊という決定的な致命傷を癒すため、その中に込められていた魔力はほとんど空になってしまったが、しかし。
「――――ええ。役に立つわ」
しかし、全てを使い尽くした覚えはない。
凛が片手を上げると、士郎は躊躇いなく宝石を放ってきた。それをしかと受け取り、同時、いろいろなことを理解してしまう。
例えば、どうしてアーチャーがこれと同じ宝石を持っていたのかということや、
例えば、何故アーチャーから受け取った宝石には魔力が欠片も残っていなかったのかということや、
何よりも、アーチャーからもこの宝石を受け取っているという矛盾を、驚くほどあっさりと理解し、受け入れた自分が居た。
「いいの? 士郎」
受け取った宝石を右の手で握り締め、キャスターの胸に当てる。
そして、答えなんて承知しながら、それでも一応、その問いを返した。
士郎は視線を前に戻し、こちらに血まみれの背中だけを向けながら、ああ、と頷く。
「夢現で聞いてた。けど、別にいいだろ。り――――じゃない、遠坂がそれを選ぶなら、俺は手伝うよ」
なんの躊躇いも淀みもなくそう言って、士郎は歩き出す。
頼りない、しかし、絶対に倒れることはないと思わせるに十分すぎる足取りは、
バーサーカーは、衛宮士郎が討ち伏せると主張して止まなかった。
一歩進むだけでも重労働だった。
額から脂汗が滲み出る。浮かんだ汗は頬を伝い顎を経由してぽたりと落ちる。呼吸はそれだけで肺腑を焼くし、空気はまるでガラスの欠片みたい。足を薦めるたび、ざくりざくりと皮膚を切りつけぞりぞりと骨を削るような錯覚を覚える。
気を抜けば、一瞬後には発狂してしまいそうな痛みと刺激のなか。
歯を噛み締めて、全てに耐えながら、士郎は一歩ずつ戦場に近づいていった。
よく見えない視界に映るのは、セイバーとバーサーカーの戦いだ。無骨な斧剣を無尽に振るう狂戦士と、それをすんでの所で回避し続けるセイバー。戦況は一瞬で判断がつくほどにセイバーの劣勢で、あと数合も打ち合えば決着が着くと思わされてしまう。
尤も、だからといって簡単に打ち倒されるほどセイバーはやわではない。もう終わり、これで最後と思わせる一撃を、ぎりぎりの所で悉く回避し防御し無効化している。その実力は、なるほど、確かに感嘆ものだが、逆に、言ってしまえばそれだけだ。あの少女ならいざ知らず、このセイバーにあの狂戦士を打ち倒すことは出来はしない。それは純粋な、生前の生き方による身体能力の差だ。本来魔術師であるセイバーに、バーサーカーを打ち倒せという言葉ほど不条理なものはない。
戦場の少し手前。凛と桜を巻き込まぬ位置に立ち、士郎は一度、大きく息を吐いた。
これからやろうとしていること、その全てが馬鹿馬鹿しく思えて苦笑してしまう。
けれど、止めるつもりは微塵もない。いつかのどこかの自分がしでかした不始末を拭うことに、欠片の躊躇いも感じない。セイバーと名乗った彼女を手助けすることに、雫の不都合がある筈もない。
士郎は右手で左手を抱えながら、角材のように曲がらぬ左手をセイバーたちの方に向けて掲げた。大丈夫、問題ない、と自分に言い聞かせる。いまならば、誰かの意識がこの意識に混濁し補助してくれているいまこの瞬間ならば、バーサーカーを倒すことに不可能はない。
だから、あとは覚悟だけ。
自分を蝕むあの侵食に耐え、魔術を使い、バーサーカーを倒して、なお生き残るという強い決意。
(――――死ねない)
死ねる筈がない。やらなければならないことは星の数ほど残っているし、やるべきことはそれ以上に転がっている。
少なくとも。
自分が死ぬことで、誰かが悲しむのなら――――自分の命を、疎かに出来る筈がない。
ふう、と息を吐き、そして。
左手の甲に残った令呪を意識して、士郎はセイバーに命令を下した。
「下がってくれ、セイバー。杖は、俺が使う」
二回分残っていた令呪が光を帯び、弾けるように外郭の一つが弾け跳んだ。
これにより、残る令呪は最後の一回。
そして、
「――――マスター!?」
セイバーの、悲鳴に近い叫び声。見れば、セイバーは不自然な姿勢のまま、十メートル近い距離を一足で跳び退いていた。その腕の中に既に魔杖はなく、魔剣もない。サーヴァントの意思に関わらず、行為を強制させる絶対命令権、令呪。その縛りに従い、放り投げられた"何時か手にする其の奇跡"は綺麗な放物線を描き、至極当然の結末であるかのように士郎の左手に納まった。
瞬間。
どくり、と心臓が一際大きな鼓動を上げた。
「あ」
バーサーカーがその身体をこちらに向ける。賢明だ。魔杖を持たぬセイバーより、これを扱う自分に必殺の力があるのだと、あの狂戦士は本能的に悟っている。
「あ」
杖からの侵食が始まる。杖の中に納まった誰かの記憶。本質的に同じであるそれは共振を引き起こし、左腕を更に変質させる。折れ曲がっていた五指は螺旋を描くように絡まり合い、腕そのものも捻じ曲がる。骨は折れずに変形し、開いた裂傷から血が溢れ出た。
「あ、ああ」
狂戦士が咆哮を上げ、凄まじい速度で走り始めた。斧剣は既に振り上げられており、あと数秒もしないうちに、バーサーカーはこの身を叩き潰すだろう。
けれど。
それだけの猶予、バーサーカーを倒すには多すぎる。
意識する。思い浮かべる。痛みというノイズを全て無視。
目の前の狂戦士を打ち倒す絶対の刃。必殺の刀剣。心当たりなどありすぎるし、自分ではない衛宮士郎がそれしかないと知っている。
故に、迷わずそれを選んだ。狂戦士を打ち倒す光の刃。自分ではない彼が、狂戦士を打ち倒すために作り上げた最初の武器。
「――――投影、開始」
ぴしり、と骨に軋みが走る。無理な投影に、理性が悲鳴を上げ静止を勧告する。ああ、それも道理だ。俺は彼女を知らない。彼がセイバーと呼んだ、蒼く真っ直ぐな彼女を知らないから、その剣を確実に想定することなんて出来ない。破綻した空想は無価値な代物を作り上げるだけだし、無理な投影はこの身を食い尽くすだけだ。
故に、無理。無謀。不可能。
自分に、その剣を作ることなど出来はしない。
しかし。
いま、ここに。
この手の中にあるのは、他でもない、その剣を作り上げた自分の記憶なのだ。蒼い少女と出会い、戦いを共にし、彼女を救うことなく受け入れた彼。それが間違いだったと言うつもりはない。
言うつもりはない、が、しかし。
(その落とし前)
狂戦士が迫る。咆哮を上げながら距離を詰めてくる。
進んだ後の地面には冗談みたいな足跡が残り、踏みつけられただけでこの身体が潰されると理解するには十分すぎた。
残った猶予はあと三歩。
(ちゃんと――――付けて見せろ!)
足りない知識は杖が補助する。
届かない想定は杖が補強する。
ああ、いや、けれど、そんなものはそれこそ無粋。
もとより投影は、自分自身に戦いを挑む魔術で。
何時かの自分を、力ずくで叩き伏せるかの如く、
ここに幻想を結び、剣と化す――――!!
「■■■■■■■■――――――――!!」
狂戦士が咆哮を上げる。黒い巨体は既に目の前。無骨な剣は、あと一瞬きのうちに振り下ろされ、この身体をミンチみたいに潰すに違いない。
けれど、既に投影は終わった。右手に出現したのは、金色の、何時かの自分が蒼い少女のために作り上げた一振りの剣。
確かめるまでもない。
投影は完璧に成功したし、微塵の欠損も雫の矛盾も含まない、絶対の剣としてそれは生み出されていた。
それを。
自分ではない衛宮士郎の、全ての想いが篭ったそれを、
「あ、があああああああ!!」
力任せに振るい、剣を振り下ろそうとするバーサーカーより一瞬早く、その胸に突き立てた!
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