Fate / other night
20 / The END of the War
剣から溢れた光が、バーサーカーを、その内部から閃光で包み溢れ出た。
視界が白く染まったのは一瞬。思わず閉じてしまった目を開けば、目の前にバーサーカーの巨体が聳えている。如何な刃も受け付けぬと体現する鉄の皮膚。振り上げられた腕には破壊を叫んで止まない石斧じみた大剣が握られており、もしそれが振り下ろされていたのなら、内側からの傷で既にぼろぼろだった士郎に為す術はなかっただろう。潰されたか、切り捨てられたか。まあ、どちらであっても大差はない。
なぜならそれは、あくまで"もしも"の話だからだ。バーサーカーは、突撃しか知らぬ筈の狂戦士は、その破壊の武器を振り上げたまま、ぴたりとその動作を停止していた。
その胸には、根元まで突き刺さった黄金の剣がある。自分ではない自分。この衛宮士郎ではない衛宮士郎が、バーサーカーと戦う彼女を救うために作り出した、最初でありながら最高の模造品。かつてこの狂戦士を、一太刀で七度死に至らしめた刃が、見事にバーサーカーの巨躯を貫いている。先端は狂戦士の背中側から顔を出し、その向こう側、イリヤスフィールすらも相手にせんと静かに輝いていた。
「あ――――」
思わず、声が漏れる。気付いた。バーサーカーの突進は、勿論この身を打ち倒すという目的があったのだろうが、同時に得体の知れない自分という外敵から、あの少女を護るための行為だったのだと理解した。
それが感傷だとは思わない。胡乱な頭で思い出したのは、ギルガメッシュとの戦いだ。無数の魔弾を放つ敵との戦いで彼が自ら盾となることを選んだのと同じように、今回、彼の狂戦士は自らの背後に少女を隠すことで、最低限、彼女が巻き込まれることを防いだのだろう。
確かに、その振る舞いが狂戦士というクラスに相応しくないということぐらいは分かる。
しかし。
腕を振り上げたまま。
武器を振り上げたまま、死に体で、ぴくりとも動けぬまま。
そんな状態で、それでもなお倒れることなく、背後に少女を隠しているその行為は、その推測を確信に変えるには十分すぎた。
士郎は剣の柄を握り締めていた手を離した。その途端、実在のものとしてそこに存在していた剣は、柄から順に当然のように空気に解け、夜の闇に消えていった。
黄金の剣。勝利すべき者の手にあった、失われた名剣。
あの男が生涯において創造した幻想の中でも、特別に綺麗なその剣はあっさりと現世から消え去り、空想に堕ちる。
ざらり、と、バーサーカーの胸に穿たれた穴から、黒い砂のようなものが流れ出た。傷口を広げながら、否、傷口から順に砂となって崩れ去りながら、それでもバーサーカーは微動だにせず背後のイリヤを護り続ける。
だから、士郎は理解した。欠片の疑問も微塵の躊躇も、雫の戸惑いもなく、バーサーカーは、ずっと、イリヤスフィールを護っていたのだということを理解した。
狂戦士の身体が崩れ去る。胸に開いた穴は既に人が通れそうなほどに広がっており、四肢も含めた身体の全てが崩れ去るまで、そう時間は掛からないだろう。猶予がない。考えを纏める暇すらない。イリヤスフィールをずっと護ってきてくれた、この戦士に掛けるべき言葉が見当たらない。
士郎は歯を噛んで、こちらを見下ろすバーサーカーの顔を見上げた。滅びに向かいながらも、眉一つ動かさぬ屈強な戦士。その瞳は真っ直ぐにこちらを見ていて、同時に、何かを問いかけているようだった。
「――――あ」
許されない、と思う。
だって、自分は奪うのだ。奪ったのだ。
バーサーカーからは命を。
イリヤからはこの狂戦士を。
それだけのことを犯しておきながら、言うべき言葉が無いなんて、そんな不敬が許されるはずが無い。
時間は無かった。バーサーカーの身体は既にその大半が砂と代わり、地面に積まれることなく夜気に流れて消えている。残された猶予はあと数秒も無いだろう。なんでもいい。彼に。イリヤスフィールの隣に居てくれた、この物言わぬ巨人に、何か言葉を掛けなければ。
「――――」
正直に言えば、自分がなんと言ったのか、良く分からなかった。
わるい、と謝ったのか、
ゆるしてくれ、と嘆願したのか、それとも。
……ありがとう、と礼を述べたのか。
ただ、確かなのは。
砂に消えるバーサーカーが、その瞬間。
頭すらも崩れていくその瞬間、僅かに口の端を歪めたという事実だった。
そうして、バーサーカーが完全に消滅したあと。
士郎は息を吐き、改めてその向こう側にいた少女に視線を向けた。
決して夜闇のせいだけではない、よく見えない視界の中で、何故かその姿は浮かび上がるように鮮明だった。
イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。
バーサーカーが最後まで護ろうとした少女。
衛宮切嗣にとっての本当の子供であり、
衛宮士郎にとっての義理の姉。
ふう、と士郎は息を吐く。灼熱していた意識はいつの間にか冷めていて、腕の痛みすら鳴りを潜めていた。あの光景を認めたからだろうか、それともセイバーを護る事が出来たからだろうか。持つだけで気が触れそうになった筈の魔杖はただの杖に化しており、その先端では見覚えのある赤い宝石が静かに輝いている。
士郎は歩き出した。痛みはなく、しかし自由もない半身を引きずるように、血で赤く染まった左腕を右腕で押さえながら、一歩一歩確実に、倒れることなくイリヤの元に向かう。
その前方に、言葉もなく、セイバーが立ち塞がった。
セイバーは顔を苦渋に染め、いかにも文句あります、といった表情で手を差し出してくる。
「マスター。それ、返してもらえる?」
「ん。ありがとうな、セイバー」
簡素な礼を述べ、"何時か手にする其の奇跡"を渡す。
セイバーは複雑そうな顔で手元の魔杖とこちらの顔を見比べ、はあ、と疲れたように息を吐いた。
「まったく。使えば自分が壊れるって分かってるくせに、それでも使うのね、あなたは」
「いや、違う。壊れないっていう確信があったから、やったんだ」
セイバーの言葉に、士郎は顔を顰めながらそう返した。
つい、と視線だけでイリヤを見遣る。白い少女は静かに立ち尽くし、自分のサーヴァントが敗れたと言うのに、一歩も動こうとはしていなかった。
その姿を見て、はあ、と士郎は息を吐く。
「イリヤは、俺がどうにかする。セイバーは、キャスターの方を任せた」
「了解、マスター」
苦笑するように頷いて、セイバーは身を翻した。
離れるその背中に一瞬だけ目を遣り、また一人になって、さて、と思う。
本当に。
本当にやらなくてはならないことはこれからだと自分に言い聞かせながら、士郎は歩みを再開した。
ふう、と息を吐き、凛は手を尽くし終えたということを実感した。
視線を下ろせば、そこにはキャスターの身体がある。ローブは血に滲み、所々まだ傷が見えているが、それでもその吐息は安らかで安定している。治療は終わった。負傷と治癒の均衡は崩れ、あとは放っておいても周囲の魔力を取り込み、勝手に回復するだろう。
「終わりましたね、姉さん」
キャスターの身体を挟んで反対側から掛けられた声に、凛は、ええ、と頷いた。
「何とかなるものね。まあ、その代わり疲れたけど。物凄く疲れたけど」
割と本心で、そんなことを愚痴ってみる。
こちらはこちらで表情に疲労を滲ませた桜は、そんな凛に苦笑した。
「けど、ありがとうございます、姉さん。私の我侭を、聞いてくれて」
「別に桜の我侭を聞いたわけじゃないわ」
「でも、結果的にそうなりましたよ? バーサーカーは……先輩が、どうにかしちゃったみたいですし」
桜の言葉に、凛は顔を顰めた。その通りだ、と思う。治療中は敢えて考えないようにしていたその可能性だが、それが現実になってしまった以上、考慮しないわけにはいかない。
背後を見遣るように肩越しに視線を向ければ、先ほどまで圧倒的な力を見せ付けていたバーサーカーの身体は既に視界にはなく、代わりに士郎とセイバーが何事か会話を交わしていた。そこから少し離れたところでは、白い、ドレスのような服に身を包んだイリヤの姿がある。イリヤはその場からぴくりとも動かず、まるで親に置いていかれた子供のように呆然と立ち尽くしているように見えた。
「終わったか。遠坂、間桐」
不意に聞こえた声は、それまでキャスターの傍らで沈黙を保ち続けてきた宗一郎のものだ。
凛はそちらに顔を向け、無表情のままこちらを見下ろす宗一郎に頷いてみせる。
「聞いての通りよ。手は尽くしたし、手応えもあったわ。あとは放っておけば、勝手に目が覚めると思う」
「そうか。礼を言わせて貰う」
淡々と言う宗一郎に、凛は首を横に振った。
「別にいいわ。私は私で、目的があったから手を貸しただけだもの」
「では、どうする。間桐の言うとおり、バーサーカーは衛宮が打ち倒したぞ。既に私たちが組む理由は無くなったが」
焦るでもなく、悲観するでもなく。ただの事実として、その言葉を口にするキャスターのマスター。
凛は頷き、しかし苦笑した。
「それは士郎に訊いてもらえる? 私はもう、アーチャーを失ったんだから」
「――――ふむ。間桐」
「は、はい」
突然声を掛けられ、驚いたように返事をする桜。
宗一郎は何でもなさそうな瞳のまま、バーサーカーとセイバーが戦っていた方に目を向けながらその確認を口にする。
「アサシンは死んだか?」
「は――――はい。ごめんなさい、葛木先生」
「いや、私に謝る必要はない。だが、一つ問題がある」
「問題?」
鸚鵡返しに問う凛。
宗一郎は頷きもせず、
「ライダーとランサーは既にアサシンが破っている」
と、端的にその情報だけを伝えてきた。
息を飲む桜。同じように、凛も息を飲んだ。
召喚されたサーヴァントは計七騎。そのうち、まだ見ぬランサーとライダーが倒されているのだとしたら。
「サーヴァントは、キャスターとセイバーしか残っていない。よって、このどちらかが勝者となる、ということだな?」
「いいえ、違うわ」
否定の声は後から。
振り向けば、何時の間にそこに立っていたのか、杖を手にするセイバーがそこに居た。バーサーカーとの戦闘の名残だろう。身体を包んでいた黒い外套は所々が千切れ、みすぼらしく成り下がっている。
「それはどういうことだ? セイバー」
先の否定に、宗一郎は首を傾げるでもなく、静かな瞳でセイバーにそう問うた。
セイバーは肩をすくめ、苦笑のような笑みを浮かべて見せる。
「聞いていないの? まあ、いいわ。私が直接話すから」
そうして、セイバーは杖の先端を、眠るキャスターの眼前に突きつけた。
な、と抗議の声を上げようとした桜を視線だけで黙らせて、セイバーは告げる。
「寝たふりは止めなさい、キャスター。もう目が覚めているんでしょう?」
息を飲んだのは、果たして誰だったのだろうか。
絶対の自信に裏打ちされたセイバーの言葉。一番驚かねばならず、しかし誰よりも静かにその言葉を受け止めたのは、他でもない、キャスターのマスターである宗一郎だった。
宗一郎は幽然と。異論を唱えるでもなく、異議を申し立てるでもなく、セイバーの瞳を見返す。
或いは。
或いは、キャスターのマスターである彼は、その事実をとうの昔に知っていたのかもしれない。
そんな凛の思考を証明するように、
「……まったく。可愛げがないわね」
呆れたような響きを孕みながら、キャスターが薄目を開いてそう呟いた。
イリヤまでの距離を、随分と長い時間を掛けて歩いた気がした。
一歩ずつ。半身を引きずりながら、それでも倒れることもよろけることもなく着実に近づき、やがて、少女の眼前に至る。
「――――イリヤ」
少女の装いを見て、今更ながらに、士郎は驚きを覚えた。イリヤが着ているのは、見た覚えのある紫の上着と白のスカートではなく、白い、目を覆いたくなるほどに白いドレスだった。その頭に頂いているのは、同色の輝きを携えた冠。そして、服にあしらわれた幾つかの円環の装飾が、何故か輝くような光を帯びていた。
イリヤは顔を上げる。人形のようなその顔に若干の笑みを浮かべ、小さな声で、少女は口を開いた。
「あーあ。バーサーカー、負けちゃった」
声は、果てしなく淡白。浮きも沈みもしないそれは、明らかな擬態の言葉だと知れる。
「強いね、シロウ。本当に、物凄く、強い」
こちらを見上げるイリヤの瞳を見て、士郎はふとその疑問に捕らわれた。赤い瞳。宝石のように赤い瞳は、しかし、記憶の中の少女と違い、微塵の輝きも携えていない。
その理由を考えて、推察して、士郎は息を飲んだ。
光を映さない瞳。
それは、つまり。
「イリヤ。おまえ、目が」
「あ、ばれちゃった。うん、そうだよ、シロウ。私、いま、目が見えない。ううん、言葉をしゃべるだけでも精一杯なの」
抑揚の無い言葉。変調の無い声。それはまるでレコーダーに録音された機会音声のように味気なく、幕越しの声のように薄っぺらだ。
「でもね、それはしょうがないことなの、シロウ。だって私は聖杯だから。戦いを終え、敗れたサーヴァントが流れ込む聖杯という器。それが、私。それこそが、イリヤスフィール・フォン・アインツベルン」
謡うようにそう言って、白い少女は一歩前に出る。
しかし士郎は動かず、結果として、手を伸ばせば身体に触れられる位置にイリヤは立った。
「――――イリヤ」
「それでね、シロウ」
士郎の言葉を遮るように。
士郎の言葉など聴きたくないというように。
士郎の言葉が、耐えられないと言わんばかりに。
少女は士郎の言葉を遮り、口を動かす。
「聖杯戦争は、もう終わり。残ったサーヴァントはキャスターと、士郎のセイバーの二人だけ。でも、今回は途中で二人目のアーチャーが居たでしょう? だから、もう聖杯戦争は終わりなんだ。聖杯を出現させる条件が揃ったの。あとは」
そこで一旦言葉を切り、少女は僅かに顔を伏せた。
その顔が。僅か一瞬、悲痛に歪んだように見えたのは、士郎の気のせいだったのだろうか。
少女は顔を上げる。感情の無い、能面然とした顔で、言葉を繋げる。
「あとは私が場所に納まれば、それで終わり。聖杯は起動して、シロウの願いは叶う」
泣くような無表情で。
笑うような無表情で。
怒るような無表情で。
諦めるような無表情で、少女は頷いた。
「おめでとう、シロウ。嬉しい? 何でも願いが叶うんだよ? キリツグともう一度暮らすことだって出来るし、ううん、キリツグじゃない、本当の家族と幸せになることだって出来る」
「――――」
考えもしなかったその夢に、士郎は思わず息を飲んだ。
イリヤは言葉を続ける。自分の身に起こったそれに気付いているのかいないのか、ただひたすらに、その口から言葉を紡ぎ続ける。
「朝起きてお母様やお父様におはようございますって言って、みんなで楽しく御飯を食べて、暖かい日にはおひるねをして、寒い日には暖炉の前で笑いあって、おやすみなさいって言って暖かいベッドで眠るの。眠ったら楽しい明日を夢見て、本当に、本当に幸せな毎日を送るんだ」
少女の瞳には、迷いが無い。
イリヤの言葉からは、そのユメが本当にすばらしいものだという思いしか感じることが出来ない。
「ねえ、シロウ。シロウは、そういうの、欲しくない?」
少女の問いかけに対し、士郎は迷わず、
「ああ、いらない」
そう、否定を返していた。
少女が息を飲む。嘘、とその唇だけが形を作った。
「シロウ――――」
「いらないよ、イリヤ。俺は、そんな幸せ、望めない」
首を横に振る。少女には見えていないと知りながら、士郎は首を横に振った。
確かに、願ったことが無いと言えば嘘になる。あの火事は全てが嘘で、悪夢で、目が覚めれば自分はまだ子供で、居間に行けば母親と父親が笑いながら朝の挨拶をしてくれるのだと思ったことがないといえば、それは嘘になる。
けれど。
けれど、それはやはり、叶う筈のない夢で、同時に。
「だって俺、幸せだったからさ。親父に救われて、無理言って魔術教えてもらって。旅行から帰ってきた親父の土産話を聞くのが好きだったし、親父の世話を焼くのも好きだった」
その言葉は、全て真実。
断言したって構わない。
衛宮切嗣に拾われた衛宮士郎は、確かに幸せだったのだ。
「だから俺は、そんな夢、望めない。それを求めるってことは、自分が不幸だって認めることで、それは――――親父を、裏切ることだから」
衛宮切嗣を裏切ると言うことは、衛宮切嗣に拾われた自分を裏切ると言うこと。
衛宮切嗣を裏切ると言うことは、衛宮切嗣に捨てられた少女を裏切ると言うこと。
忘れる筈が無い。
自分が助けられたときに切嗣が浮かべた、幸せそうで泣きそうな笑顔も、
病院で目を覚ました自分と、養子にならないかと尋ねてきた切嗣との会話も、
旅に出た切嗣を一人待つ広い武家屋敷での寒い夜の寂しさも、
帰ってきた切嗣の土産話を聞いて、本当に楽しく楽しめたその記憶も。
全て自分を形作る、自分を構成する記憶だから。
その全てを捨てて、別の生活を望める筈が無い。
――――その全てが、本来、目の前の少女に与えられるべきだったものだとしても。
「俺は、親父に本当に幸せにしてもらった。苗字を貰って、家族まで貰って。そりゃ、親父はあれで自活能力ゼロのダメな奴だったけど、それでも立派な親だった。俺は、本当に親父に感謝している」
イリヤは何も応えない。噤まれた口は決して開かず、力強く閉じられているようにすら感じられる。
いや、それはおそらく、事実なのだろう。
残酷なことをしているな、と士郎は思う。自分に当てられた光。衛宮切嗣によってもたらされた幸福。本来それを甘受する筈だった少女にそれをひけらかす大罪。紡ぐ一言一言が、どれほどの刃となって少女を切り裂いているのだろう。どれだけの槌となり、少女の意識を打ち付けているのだろう。
けれど、いいや、だからこそ。
自分は切嗣に幸せを分けてもらったから、だからこそ。
「イリヤ」
士郎は少女の名を呼んで、右手でその手をそっと掴んだ。
びくり、と少女が身体を震わせる。それは恐怖なのか、それとも怒りなのか。憎しみでもありそうだ。
尤も、そんなことは気にしないし、気にならない。
「イリヤ――――」
告げる言葉なんて決まっている。
掲げる提案なんて一つしかない。
自分が幸せで、少女がそうでなかったと言うのなら、ならば。
「一緒に、暮らさないか」
衛宮士郎が、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンを幸せにするだけだ。
え、と少女が小さく声を上げた。
息を飲むイリヤ。何を、とその唇が震えながらに言葉を紡ぐ。
「何を言ってるの、シロウ」
「俺は親父に幸せにしてもらった。なら、イリヤは俺が幸せにする」
それは傲慢な考えなのだろうか。
拾われた衛宮士郎が、捨てられたイリヤスフィールに対して負わなければならない責任、罪。
それが、イリヤスフィールを幸せにするということだと考えるのは、救いようの無いほどに高圧な、自分勝手な思考なのだろうか。
「俺が親父に預かった幸せを、何倍にも利子をつけてイリヤに返してやる。だから、」
だから。
士郎はイリヤの手を離し、その代わりにと、イリヤの頬を拭った。
「だから、泣くな、イリヤ」
え、と少女が息を飲んだ。
「なに、を」
「気付いてないのか、イリヤ。おまえ、泣いてる。泣いてるんだ、イリヤ」
少女の手を掴んでいた手を離し、士郎はイリヤの頬を伝う涙を拭った。力加減が分からず、挙句指先にいけばいくほど感覚があやふやなせいで、つい、拭う親指にぐい、と力を込めてしまう。
少女が僅かに顔を顰めたことに気付き、士郎は慌てて手を離した。
「わ、悪い、イリヤ。力、込めすぎたみたいだ」
「――――」
少女は無言。
感情の無い顔のまま、少し赤くなった頬に自らの手を当てる。
そうしてイリヤは、光を映さぬ瞳でこちらを見上げたあと、
「どうして」
と、小さな声で呟いた。
「イリヤ?」
「どうして? どうして、シロウは――――そんな酷いことを、言うの?」
叶う筈が無いのに、と少女はこちらを見上げ、尋ねてくる。叶う筈が無いのに、手に入る筈が無い夢なのに、どうしてそれをさも当然のように口にするのかと、衛宮士郎を責め立てる。
だから士郎は、黙って首を横に振った。たとえその素振りがイリヤに見えていなくとも、気配で否定は伝わるだろうと思い、首の動きで少女の詰問を否定する。
「そんなの、決まってる」
どうしてその夢を口にするのかといえば、そんなの、答えなんて一つしかない。
ああ、ひょっとしてこの少女は忘れているのだろうか。今日の朝のあの会話。何故自分と戦いたくないのかと問われたときに返した、その返事。
「イリヤは、俺の家族だからだ」
家族だから、戦いたくない。
家族だから、幸せにしたい。
家族だから、一緒に居たい。
その思いに、欠片も嘘偽りなんてありはしない。
士郎の言葉に、イリヤは呆、と息を吐いた。焦点の揃わぬ、光を灯さぬ緋色の瞳でこちらを見上げ、呆れたように息を吐いた。
士郎は何も言わない。言うべきことは全て言ったし、伝えたかったことも全て伝えた。たとえそれが傲慢で、救いがたいほどに愚かな物言いだとしても、その思いに一片の曇りもないと断言できるだけの決意を持って少女に告げた。
どれだけの沈黙が流れただろうか。
数えるのも諦めた時間の末に、イリヤは小さく、声を発した。
「いいの?」
短い言葉は簡単に夜風に掻き消されてしまいそうで、その実どんな音よりも明瞭に士郎の耳に届いた。
少女は問うて来る。見えぬ瞳を必死にこちらに向けながら、小さい身体をより縮こまらせながら、震えるような小さな声で問うて来る。
「シロウと一緒に居ても、いいの?」
――――答えなぞ、言わなくても承知している筈なのに。
士郎は返事をする代わりに、一歩を進み、自由になる右手で少女の背中に手を廻した。躊躇わない。躊躇うことが、このイリヤに対する裏切りだと思うから、その行為に躊躇しない。
「あ」
予期しなかった力にか、少女が驚いたような声を上げる。イリヤの身体は驚くほどに軽く、呆れるほどに簡単に腕の中に納まった。
ぴしり、と乾いた音が耳に届く。
腕の中で、少女が息を飲んだようだった。
「そんなの、」
またしても、耳元でぴしり、と音がする。
見れば、少女の着ているドレスに無数の亀裂が走っていた。純白だったドレスは手が触れたところを基点に金色の輝きを保つようになり、同時に無数の亀裂に覆われる。円環の中で蠢いていた光が毛細管現象を引き起こしたかのように皹へと逃げ込み、服の表面を縦横無尽に駆け抜ける。
何が起こっているのか、何が起ころうとしているのか。
素直に言えば、あまりよく理解していないし、理解したいとも思わない。
ただ、いまは、
「そんなの、当たり前だ」
その一言を言うことで、精一杯だった。
「――――」
息を飲むように、少女が僅かに身体を強張らせる。
ぴしり、と、一際大きく硬い音が響いた。イリヤのドレスの表面を網羅していた光の皹は、一瞬だけ鳴りを潜めるように暗くなり、刹那、爆発じみた光量を放つ。ストロボなどとは比類出来ない程の白光。衝撃すらともなった光の爆発に、耳元で風が唸った。
思いも寄らぬ衝撃に、士郎は思わず手を離しそうになって、即座に力を入れ直した。離すものか、と思い、離してはならない、と自分を律する。求めたのは自分だ。願ったのは自分だ。少女は、イリヤはそれに応えたに過ぎない。ならば、どうして手を離すことが許されよう。自分から差し伸べた手を、自ら引くことがどうして叶おうか。
とぐろを巻くように練り動く風が、イリヤの髪をはためかせる。足元から舞った小石が風に乗り、頬に浅い裂傷を幾つも生んだ。むず痒いような痛みが走り、血が滲むが、それこそ今更だろう。
随分と長い間続いたと感じた光と風の乱舞は、その実一秒足らずで収まった。溢れた光はそれ自体が意思を持っているかのように周囲に拡散し、まるで質量を持っているかのように薄れ世界に溶けていく。
そうして。
光が収まり、風が潰えたその跡で。
「――――ありがとう、シロウ」
一糸纏わぬ姿になったイリヤスフィールは、その両の瞳に、涙と、見紛う事無き確かな輝きを携えながら、筆舌に尽くし難い、最高の笑顔でそう言った。
池の上空に、濃密な魔力が胎動していた。夜に満ちる魔力は緩やかな風にかき回されることもなく、ただそれが当然としてその場に淀み、蠢いている。いったいどのような仕掛けなのか、イリヤスフィールの着ていたドレスに光という形で留められたいた魔力は既に開放され、世界に満ちる魔力をより濃くしていた。
月の光によって水鏡となった池のその畔に、数えて四つの影がある。
風のみが音を立てていた中、おもむろに、白い少女が口を開いた。
「じゃあ、始めるね、シロウ。準備はいい?」
桜のコートを羽織ったイリヤが、肩越しにこちらを振り返りながらそう尋ねてくる。
士郎は頷く代わりに、傍らに立つセイバーを見遣った。その視線に気付いたか、セイバーは口の端を皮肉げに吊り上げる。
「どうしたの? マスター。過程はどうあれ、あなたが最後まで参戦したマスターには違いないわ。聖杯をどう扱うかはマスターの自由だし、それに」
言ってセイバーは視線を少しずらし、士郎から見てセイバーの反対側に立つ凛に声を掛けた。
「それに、冬木の聖杯がここまで歪んでしまっていたことに気付かなかったのは、管理者である誰かの責任よ。それをどうこうしようと、文句なんてある筈無いわよね?」
「……好き勝手言ってくれるじゃない」
腕を組みながら、苦虫を噛み潰したような顔で言う凛。
セイバーは肩を竦める。
「あら、じゃあ何か申し開きでもあるの?」
「無いわよ。聖杯の歪みについてはキャスターにも指摘されたし、なら、それは事実なんでしょ。それなら、私だってこの状態で聖杯をそのままにしておくなんてことは出来ないわ」
凛は疲れたようにそう言って、やがて顔をこちらに向けた。苦笑するような、飽きれたような顔で、それでも小さく頷いて見せる。
「いいわよ、衛宮くん。やっちゃって」
「――――ああ」
小さく答え、士郎は一歩前に出た。柔らかい笑みを浮かべるイリヤの隣に立ち、その頭の上に右手を置いた。
「頼む、イリヤ」
うん、と少女は頷き、つい、とその手を振るった。白い指が夜気を裂き、その軌跡が光る線となり空中に留まる。指は指揮棒のように淀みなく振られ、空中に描かれる図形は刻一刻とその文様を複雑に歪めていく。
文様全体を括る円は十重ニ十重を極め、その内に封ぜられた光はやがて白い塊となる。
「Anlassen.」
鈴の音を思わせる声で少女が呟いた。とん、と空中に固定された図形を指の先で叩くと、刹那、硝子の割れるような、或いは崩れるような音を立て、光の軌跡が外周円を残し内側に向かって爆ぜ割れる。
粒子に落ちた光は円の中で相互に衝突を繰り返し、更に小さな素子へと分解される。混沌を体現していた激突は何時か秩序に従った流れへと自律され、粒子加速器を思わせる動きでもってその速度を上げていく。
やがて粒子の先端が後端を捉え、外周円の内側に一回り小さな円が構築された。世界大蛇を思わせる粒子はその状態から更に速度を増し、輝きをも増していく。溢れるほどの光が円の内側に満ちて、
「Verbindung.」
再び響いたイリヤの声により、光が外界に漏れぬように押し留めていた外円が消滅した。開放された光環は再び一条の光となり、解き放たれた矢のようにイリヤの袂を離れ、池の上空に向かって飛翔する。その道中、光条の先端が裂け無数に枝分かれし、空間を包み込むようにして拡散し、池の中央上空でまた収束した。
一点に集った光は一抱え程の大きさの球に留まり、小さく震えながらその場に静止する。
そうして、イリヤは小さく息を吐き。
「――――Erschliessen.」
静かな声で、最後の言葉を結んだ。
イリヤの呪文が唱えられた瞬間、安定していた筈の光球はぶれるように上下左右へと小さな動きを繰り返し、大きく膨張して、次の瞬間一点に吸い込まれるかのようにして姿を消した。
そして、刹那の時間が経ったあと。
暴風にも似た風を僕として、それが池の上空に姿を見せていた。
ごう、と重い音が耳に届いた。
士郎は思わず顔を顰める。それの出現と同時に吹き付けた風は粘性を持つかのように肌にこびり付き、首筋を這う蜥蜴のような幻覚を残し背後に消えた。
池の上空に、黒い何かが出現していた。大きさは、遠近感を考慮してもゆうに直径3メーターを越えるであろう、黒い球体。
蠢くように、或いは轟くように表面を波打たせ、咆哮するかのように空気を歪ませるそれは、紛れもない魔力の塊だった。
う、と誰かが小さく呻いた。喉元まで上がってきた嘔吐感を飲み込みながら、士郎自身、無理もない、と思う。出現したそれはまるで黒い泥のようで、ありとあらゆる腐食を体現していた。
そんな泥を前にして、数歩、躊躇いも無くセイバーが前に出た。その口元は静かに結ばれ、その手には何時取り出したのか、宝石の刃を持つ剣が握られている。
「セイバー」
思わずその名を呼べば、彼女はにこりと笑ってみせた。
泥を視線で示し、自信に満ちた声で言う。
「さあ、マスター。最後の役目よ」
「……分かってる」
こちらを見上げるイリヤの視線を感じながら、士郎ははあ、と息を吐いた。
逃げもせず。
恐れもせず。
目を逸らすことすらせず、感覚の無い左手に意識を向けて。
「ぶち壊せ、セイバー」
感覚の無い左手に残った最後の令呪が消えていくのを不思議と悟りながら、短い言葉で、マスターとしての最後の命令を下した。
こう、と光が夜を蹂躙する。
セイバーが振るった宝石剣の軌跡はそのまま光の放射となり、池の上に浮ぶ魔力の塊を粉微塵に吹き飛ばした。
核となっていた泥が消滅したためか、周囲の魔力が急速に薄れていく。風が勢いを増し、淀んでいた空気をかき回す。そんな風に髪をはためかせながら、セイバーはくるりとこちらに向き直った。
「セイバー」
息を飲みながら、士郎は彼女を呼んだ。宝石剣を起動させた代償か、その身体が薄く透け始めている。
しかし当のセイバーは自身の変化などまるで興味が無いかのように笑みを浮かべ、軽く手を上げた。士郎は一瞬思考し、その動作が何を意味しているのかを悟る。
士郎は歩き出した。イリヤの頭に載せていた右手をどけ、ふらつきながら、それでも一歩ずつ確かに、この聖杯戦争を共に戦ったセイバーに歩み寄る。セイバーの前に辿り着いたとき、既に彼女の身体はほとんど硝子のように向こう側が透けてしまっていた。
だが、セイバーは何も厭うことなく口の端を笑みに歪める。
士郎はそれに応えるように、右手を高く上げてみせた。
同時に、どちらが示し合わせたわけでもなく、それを打ち合わせる。
ぱぁん、と高く音が響いたハイ・タッチ。
セイバーはにやりと意地の悪い笑みを浮かべ、
「じゃあね、士郎。中々に楽しかったわよ」
そんな事を、言ってくれた。
「は――――それはこっちの台詞だ」
ぼろぼろの身体で、しかし士郎は強がってみせる。
セイバーが満足にそうに頷くのを認め、ごう、と吹き付けた風に思わず眼を閉じた。
そして、瞳を開いたとき。
薄れ掛けていた黒衣の女性は、既にもう、何処にも居なかった。
誰も居なくなり、そして清められた池を見ながら士郎は思う。
背後にイリヤスフィール。その隣に凛が佇むのを感じながら、
この戦争が、終わったのだと、理解した。
[And Sunrise]