木洩れ陽喫茶



 2月14日。

 世間ではバレンタインという、原型オリジナルからはよほど捻じ曲がってしまった風習が騒がれるその日。

 いつものように、衛宮邸には俺を含む5人の姿があった。






















  Fate/stay night after story…

  バレンタインの過ごし方





















 時刻はお昼を廻ったあたり。

 少し早めの昼食は既に終わっている。俺は使った食器を流しで洗い、お茶会を始める面子の元に戻った。

 俺が定位置に着くと、まるでそれを待っていたかのように遠坂が話を振ってくる。

「ねえ士郎、今日が何の日なのか知ってる?」

「ああ、バレンタインだろ?」

 できるだけ素っ気無く返す。

 すると、

「ええ、そうね。バレンタインね」

 なんて風に、にんまりと笑うあかいあくま。

 そんな遠坂の表情を見て、桜と藤ねえがびくりと身体を震わせる。……いや、気持ちは分からなくもない。なにせ遠坂の笑顔は、私色々と企んでますようふふふ、と言わんばかりのいじめっ子の微笑なのだ。


 つまり、俺が素っ気無くならざるをえないのはそういうコト。勿論俺だって今日がバレンタインだってことは先刻承知だし、遠坂やセイバーが数日前から微妙に落ち着きがなくなっているのも、実は気付いている。その、遠坂に期待もしているのだが――――そんな淡い気持ちを軽く粉砕するぐらい、遠坂の笑みは不気味だったりする。

 だが。

「リン、少しは落ち着いてください」

 お茶を飲みながら、言っても無駄でしょうけど、と言わんばかりのため息と共に呟くセイバー。

「あら、私は落ち着いてるわよ?」

「……そうですね、言い方を間違えました。少しは自重してください」

「何のことかしら。私には心当たりございませんわ」

 本気でご機嫌なのか、お嬢様言葉なんぞでそう言って、またうふふと笑う遠坂。

 その姿は、なんていうか、遠足を明日に備えた小学生みたいな、そんな感じ。こんなことを口にしたら、速攻でガントが飛んできそうな気もするけど、とにかくそんな、明日が楽しみで楽しみでしょうがないっていう顔だ。




――――或いは。得物が罠に掛かるのを心待ちにする狩猟者の笑み。

 



ふと思ったその喩えに、俺は本気で寒気を覚える。

……先生。俺、逃げてもいいでしょうか。

「うぅ、士郎。なんか遠坂さんが怖いよぅ」

 俺の一縷の希望を砕くように、涙目の藤ねえが言う。

 その目は必死に“どうにかして”と訴えてきているのだが、藤ねえよ、それは無理と言うものだ。あんな最高にノリノリの遠坂を、本気で俺如きに止められるとでも思っているのか。

「……はあ、もういいです、リン。勝手にしてください」

 ついに自分の使い魔からも愛想を着かされる遠坂。

 と、セイバーは湯飲みをテーブルの上に戻し、今度はテーブルの下から何かを取り出し俺に差し出す。

「ではシロウ、これは私からです」

「え? セイバーが?」

 それは、小さな水色の紙袋。感じる重さと感触から、中に入っているのは個別にラッピングされたチョコが数個だと知れる。

 セイバーは微笑み、はい、と頷いた。

「私たちに日頃素晴らしい食事を振舞ってくれる、そのお礼です。お口に合えばいいのですが」

「あ、いや、うん。嬉しいよ。ありがと」

 ……正直、これはちょっと意外だった。セイバーが遠坂と一緒にいろいろしてたのは知っていたが、それはあくまで遠坂の“使い魔”としての行動で、遠坂の手伝いとかその程度のことをしているのだと思っていたのだ。

まさか普通にチョコを用意していてくれたとは思わず、俺はなんの面白みも無い返事を返してしまう。

 それを見ていた藤ねえが、今度は自分とばかりにはいはい、と手を上げる。

「じゃあこれ、士郎に私からね」

 言いながら自身満々に藤ねえが差し出したのは、どう見てもコンビニで購入可能なあのお菓子。

「……藤ねえ、今年もポッキーか」

「あら。士郎はポッキー嫌い?」

 いや、嫌いじゃないけど。微妙に問題はそこじゃないというか。

ここまで来ると別の意味で義理ですらないんじゃないかと訝しんでしまいそうです、はい。

 というか。この手のネタは普通一回限りじゃないのか。

俺、藤ねえからバレンタインにポッキー以外の品を貰った記憶が無いんだが。

「……まあ、いいけど。ホワイトデーも相応のものしか返さないからな、俺」

「ふふーん。そんなこと言って、士郎はちゃんと手作りお菓子を作ってくれるのを知ってるわよぅ」

 何故か胸を張って威張り散らす虎縞教師。


 ――――凄いな。この人間に教員免許を授けるこの国って。


「あ、あの、先輩」

 絶妙に現実逃避をしかけた俺を、桜が現実に呼び戻す。

 顔を向ければ、桜はやけに落ち着き無く視線をあちらこちらに飛ばしている。視線が合うととたんに真っ赤に顔を染め、慌てて視線を逸らす。で、ひたすらきょろきょろしているうちにまた俺と視線が合って、顔を赤くして、以下ループ。

 なんか放っておくと延々と続きそうなので、いい加減に見切りをつけてこちらから声を掛けてみることにする。

「桜? どうしたんだ?」

「あの、その、えっと」

 桜はわたわたとうろたえたあと、自分を落ち着けるように大きく深呼吸、そして顔を真っ赤に染め上げながら、

「これ……私からです」

 か細い声でそう言って、ピンクの包装紙で包まれたハート型のチョコを差し出した。

「――――」

 凄い。おそらくチョコにラップを巻いて、その上から包装紙で包んだのだろう。形は綺麗なハート型をしているし、包みに使っているピンクの紙も派手でなく、控えめだ。アクセントとばかりに巻かれたリボンは、桜が使っているリボンと同じ赤。

 なんと言うか。俺なんかが貰うにしては、あまりに手が込んでいるというか。

「桜」

「えっ、あ、はい。なんでしょう」

「これ、ホントに俺なんかが貰っていいのか?」

「も――――もちろんです! 頑張って作ったんですから!」

 真っ赤な顔で、それでもこくこくと頷く桜。

「――――じゃあ、ありがたく貰っとく。サンキュな、桜」

「……いいえ。先輩の口に合えば、なによりです」

 俺は微笑ましい気持ちで桜のチョコを受け取って、















 ――――ぞくり。
















 最高の悪寒を覚えて、瞬間的に遠坂の方に顔を向けた。

「? あら、どうしたの衛宮くん」

 にこにこと、相変わらずの笑みで尋ねてくる遠坂。

 ……いや、俺は騙されないぞ。というか見たぞ。一瞬。ほんの一瞬だけ、獲物を狙う鷹よりも鋭くなったその眼差しを。

 遠坂は微笑んでいる。

 他のみんなの視線は、当然の如く遠坂に向けられている。

 しかし遠坂は何も言わず、ただ微笑んでいるだけだ。

 ……これはあれか。俺から言い出せっていう無言の催促ですか。

「――――遠坂」

 恥ずかしい思いを無視して、俺は口を開く。

「その。ええと、欲しいんだが」

「あら、何がかしら? 衛宮くん」

 笑みのまま、そんなことを平然と訊き返してくるあかいあくま。

 う、と俺は後ずさりそうになったのを必死で堪え、どうにか先の言葉を補足する。

「チョコ、欲しいんだが」

「そう? でも、私なんかが上げなくても、三人から貰っているならもう十分じゃない?」

 全然本気じゃなさそうに、そんなコトをのたまう遠坂。

 これはあれだ。俺の返事なんか、それこそとっくに予想しているくせに、敢えて尋ねるっていう新手のいじめだ。

 見れば遠坂はにこにこと微笑んだまま、ただその視線が“ほらほら早く言いなさいよ”と急かしている。

 ……いじめっ子遠坂、ここに極まり。

 俺は、それが明白な敗北宣言だと理解しながら、それでも言わないわけにはいかなかった。

「――――俺は、遠坂のことが好きだから。だから、遠坂からチョコが欲しい」

 できるだけ無心で。できるだけ恥ずかしがらず、かつ慌てないように、自分の感情制御に全力を傾けながらそんなことを言う。そうでもしなきゃ、こんな恥ずかしい台詞言えるもんか。

 遠坂は俺の言葉に瞳を閉じ、しばらく考えたあと、にこっ、と笑って頷いた。

「うん、じゃあ士郎には私からこれをあげる。手、出して」

「……?」

 その意図が知れぬまま、とりあえず言われるがままに手を差し出す。

 遠坂は軽く身を乗り出し、俺の手に小さなチョコを乗せようとする。

 ラッピングは最小限。ラップで軽く包んだだけのそれは、一口サイズのブロックチョコだ。

 遠坂はそれを俺の手に乗せようとして、その瞬間、にんまりと笑った。

「――――ッ!」

 悪寒が背中を走り抜ける。

 いまの笑みはあれだ。浮かべようと思って浮かべた笑みじゃなくて、ついつい漏れてしまったっていう抑圧された笑み。ある意味、本心からの笑みと呼べるモノ。

 俺のそんな予感に気付いたか否か、遠坂はラップを取ると、そのブロックチョコを片手で摘み、


「――――え?」


 ぱくり、と。

 自分の口の中に放り込んだ。


「……ええと、遠坂?」

 俺は思わず声を掛けてしまう。他のみんなも似たような気持ちだろう。疑問とも驚愕ともつかぬ視線が遠坂に向けられる。そんな俺たちに、先ほどまでと同じ笑みで返す遠坂。

 ……いや、まあ、人にあげようとして自分が食べる、ってのは確かに悪戯だし、悪巧みといえば悪巧みだけど。この場には相応しくないっていうか、遠坂にしては大人しいっていうか。俺が殺気感じた悪寒は、決してこの程度じゃないと思うんだけど――――?

 

思考に没頭した、その瞬間が隙といえば隙だった。


ふと、気付けば。

 目の前に遠坂の瞳があって、そして、




「な――――!?」




 桜と藤ねえの驚愕の声。

 いや、ていうか驚きたいのは俺です。


 遠坂は、なんの躊躇いも無く俺に唇を重ねていた。


「――――!」

 瞬間的にヒートアップする頭。

 俺はとっさに身体を離そうとして、首の後ろに廻った遠坂の手に気が付いた。逃がさない、という意思表示だろう。

 こ、この馬鹿、いきなりなんてコトを……!?

 慌てふためく意識は、まだ理性が残っていた証なんだろうか。

 不意に俺は違和感を感じて、それが遠坂の舌が俺の口の中に割り込んでくる感触だと悟った。

 やけに甘い遠坂の唾液と、次いでころん、と入り込んでくる微妙に融けた固形物。

 俺は思わずそれに舌を這わせ、その正体と、この行為の目的を悟る。

 もとは立方体だったそれが確実に俺の口に転がり込んだのを確認し、遠坂はふぅ、なんて息を吐きながら自分から唇を離した。数十秒レベルでキスしていたので、いかに遠坂とはいえ、さすがにその顔も赤く染まっている。

 そして遠坂は満面の、さっきまでみたいに含みのあるそれじゃない、最高の輝くような笑みでもって言ってくれた。

「――――どう、士郎? 私のチョコレート」

「…………」

 いや、どうって。

 こんな灼熱した頭でまともに答えろっていうのか、おい。





 忘れていた。

 遠坂は割と完璧主義で、かなりいじめっ子で、自分の計画どおりならどんなことでも平気でこなす人間だった。

 いつも不意打ちでキスすると真っ赤になって怒るくせに、自分の計画――――おそらくは俺を徹底的に恥ずかしい目に合わせるという計画のためなら、セイバーはともかくとして、藤ねえの前だろうが桜の前だろうが、平気でキスをしてくるような人間だというコトを、すっかり失念していた……!





 俺はどれだけ呆然としていたのだろう。

 オーバーロードで焼ききれそうになった意識をどうにか復活させると、まず目に入ったのは俺とセイバー以外誰も居ない衛宮邸居間。どれだけ長くても数分程度しか呆然としていなかったはずなのに、居間にはセイバー以外の顔が見えなかった。

「正気に戻りましたか、シロウ」

「……まあ、どうにか」

 ああ、くそ、恥ずかしさのあまり頭痛がする。

 俺は頭を押さえながら、できるだけ平静を装ってセイバーに問い掛けた。

「で、セイバー。みんなは?」

「リンは宿泊道具を取ってくると言い残し、皆が呆然としているうちに居間を出ました。桜とタイガは、それを追いかけています」

 淡々と語るセイバー。

 そのあまりの平静さと、遠坂の奇行を目の当たりにしたときの落ち着きぶりから考えて、セイバーは遠坂の計画を事前に知っていたっぽい。

 ……当たり前か。遠坂が何をしようとしていたのかなんて、その手伝いをしていたセイバーが知らないはずも無い。

「そうそう、それと、リンから荷物を預かっています」

「え?」

 言ってセイバーが取り出したのは、桜が用意してくれたのと似たような大きさのチョコレート。

 赤い包装紙と、黒のリボン。挙句に包装紙に描かれた白い十字架のアクセントは、その送り主が誰か主張してやまない。

「……ひょっとして、遠坂のやつ」

「はい。リンは、シロウをからかう為のものとは別に、それを用意していました」

 説明するセイバーの口調には、聞いてるこちらが哀れに思うほど疲労の色が濃い。苦労しているのだろう、セイバーも。いろいろと。多分俺のサーヴァントだったときよりもはるかに。


 けど、まあ、いま考えるべきなのはそんなことじゃなくて。

 こうやって、全部手作りですって表現するチョコレートを用意していてくれたのは、本当に、自然と笑みが浮かぶほどに嬉しいんだけど。あれは、あのキスは最高に恥ずかしかった。なんていうか絶対数ヶ月、いや、ひょっとしたら半年は忘れることができないんじゃないかって程に恥ずかしかった。




「――――くそ、覚えてろよ」




 唇に手を当て、ここには居ないあかいあくまに言い放つ。












「ホワイトディ、絶対三倍返ししてやるからな」



 それは、多分敗北に終わるであろう、一方的な宣戦布告だった。





【完】