木洩れ陽喫茶
とらいあんぐるハート2 〜さざなみ女子寮〜 サイドストーリー
Heartful Memory
ぶろろ……という排気音を残しながら、バスはゆっくりと坂を登り始める。
開いた席が目立つ車内の中、うちは窓側の席に座ってぼんやりと外を眺めていた。季節は春。山の中、ということもあるのだろうけど、あたりには緑が多い。命の盛りの季節を迎えようという木々は、生まれたばかりの新芽でうちの眼を楽しませてくれた。
ゆるやかな制動がかかり、バスが停車する。赤信号。
穏やかな春の日差しを浴びてぼんやりとしていると、不意に先ほどの出来事が蘇った。高台で歌っていた自分、こちらを眺めていた男の人。風で飛んでいったうちの帽子と……打算とか下心とか、大阪では日常的にうちに向けられていたそういった諸々の考えも無しに、それを拾いに行ってくれた彼。
いまどき珍しい人やなぁ、と本心で思った。
背が高くて、どこか愁いを帯びたような面影があって、けどたぶん、明るい人。
親切を当然と考え、実行できる人。あるいは、どこまでも素直な人。
思い返せば、彼がはじめうちのことを見ていたとき……その眼に映っていたのは、純粋な尊敬の色だったような気もする。さすがにそれは自惚れだろうけど、その視線がとても真っ直ぐだったことはたぶん間違いない。
信号が青に変わり、バスが再び動き出す。
ふわりと鼻腔を掠めた風には、さわやかな緑が香っていた。
……がらにもなく、もう一度会えたらええなぁ、とか、なんで名前もきいとかへんかったのやろ、とかいう思いが胸をよぎる。周りはそうは思っていないらしいけど、うちはこれでも男の子嫌いなのだ。そんなうちにこう思わせるぐらいなのだから、きっと彼はすごく……その、モテたりするんだろう。
考えて、二重に苦笑してしまった。一つは、いきなり何をかんがえてるんや、という呆れにも似た自責の感。でも、なによりも――――
「うち、乙女やしなぁ……」
思わず口を突いて出た言葉は、これ以上なくうちの心情を代弁してくれた。言葉にすればどうにも安っぽいけど、一目惚れ、っていうのが一番感覚としては近いと思う。
バスはぐんぐんと坂を登っていく。ずいぶんと町から離れるんやなぁ、と思った。
……彼は、地元の人間だと言っていた。そしてうちは、この春からこの街の音大、天神音大学に通う大学生。卒業までの4年の間に、もう一度ぐらい会えるときがあるのかもしれない。
なら、そのとき。いつかはわからないそのとき、うちは彼に感謝しようと思う。
新しい街での新しい生活。正直、腰が引けていた。うまくやっていけるんやろか、とか、考えると深みにはまっていってしまう疑問ばっかり抱いていた。そんな疑問、いや、不安を吹き飛ばすために――――あるいは忘れるために、偶然たどり着いた展望台で歌を唄って、彼に出会った。
ものすごい僥倖だったと思う。この街に住むのが彼みたいにいい人ばかりだなんて幻想は抱かないけど、彼みたいにいい人が住んでいることは事実。それだけで、うちはこの街を、海鳴りを好きになれると思う。これからの生活を、きっと希望に満ちている楽しいものだとして受け入れられると思う。
だから、そう思わせてくれた彼に感謝。あんないい人に彼女がいないなんてこと、まずないと思うからうちの想いはそこで止めておこうと思う。ただ、感謝。うちに――――いつかうたうたいになってやると意気込んだうちに、椎名ゆうひに、すばらしい始まりをくれた彼に感謝。
バスはどこまでも登っていく。そろそろ家の数もまばらになってきた。
やがて、バスは山間の温泉郷……月守台に到着する。
さて、とうちは気合を入れた。
「次はバス、間違えんようにせんとな……」
そんなことを呟きながら、もう一回間違えればまた彼に会えへんかなぁと儚い夢を抱いている自分に気付き、呆れてしまう。
とにかく、行こう。できるならお昼前には着きたいと思う。私の新しい生活の場所、さざなみ寮に。
これから始まる新しい生活を夢見ながら、うちは意気揚揚とバスに乗り込んだ。
……そして。
乗り込んだバスがまたしても間違いで、都合月守台を三往復ぐらいしてようやくたどり着いたさざなみ寮には彼が、槙原耕介君が居た。女子寮の管理人が男性、というのにも驚いたけど、それよりもまともな人間ってうちだけなんやあらへんか、と思わず首をかしげざるをえない寮生のみんなと予想以上に楽しい生活が幕を開けた。
そして、一年もしないうちに。
うちにとっては耕介君が、耕介君にとってはうちが欠かせいない存在になっていた。
恋人という関係になっても、それとは別に感謝が、まだうちの心の中にある。
いつかこの気持ちを、この気持ちも、歌に託して彼に届けたらと思う。
……ううん、ちがう。届けてみせる。うちにしかできない、うちにならできる方法で、この気持ちを彼に伝えてみせる。
うちになら、それができる。
そう思わせてくれるのは、やっぱり耕介君。
だからうちは……本当に、心から。
いつまでも、彼の隣に居たいと思う。
[ Fin ]