日常=非日常?



日常というのは、つまり変わりない日々ということで。
となれば、そんなものは絶対にありえない。


放課後、歩は日々の惰性で新聞部の部室に足を向けていた。
特に用事があるというわけではないが、ただ顔出しをしておかなければ後々嫌味を
言われることが確実だったからだ。新聞部の部長であり、自称歩のパートナーである
結崎ひよのその人に。

夕日でオレンジに染まる部室に足を踏み入れる。軽く見回しても、部屋の主たるひよのの
姿は見えない。

<珍しいな、俺のほうが早いのか>

ちょっとした違和感のようなものを感じながら、歩はソファに腰掛けた。いつも使っている
パイプ椅子ではなく来客用の長めのソファ−−座ってからそのことに気づいたが、わざわざ
立ち上がる必要も感じられなかったのでそのまま深く座り込む。
鞄から今朝買ったばかりの料理雑誌を取り出し、適当に開く。斜め読みでページを流すが、
これといって目を惹くレシピは見当たらない。

些細な違和感があった。
自分ですらも気づけない、小さな小さな違和感が。

夕日の差し込む部室は適度に暖かく、その色合いは柔らかで温かみを帯びている。
だから、だろうか。ゆっくりとした眠気が、眼窩を中心として染みる様に広がっていく。

<別に……寝不足って訳じゃないんだけどな>

うっつらうっつらとそう思うが、眠気は容赦ない。
抗いを簡単に放棄して、歩はソファに横になった。
アイマスクの代わりとして雑誌を顔に載せ、目を閉じる。
眠りに落ちるその刹那。
歩みは、ふと思い立った。この眠気のその理由。

<あいつがいないと、この部屋はこんなにも静かで−−>

思考が末尾を迎えるより早く。
最後の一言を認めるより早く。
蝋燭の日が吹き消されるかのごとく、歩は眠りの海に堕ちて行った。






眠りから引き上げられるのは一瞬。
歩は雑誌をどけると、働かない頭で白い蛍光灯を見上げる。


<明かり、点けたっけな?>

頭を残し身体だけが覚醒したような感覚の中、歩はそう思う。
その耳にカチャカチャという、小さく硬質な音が届く。キーボードをタイプする音だ。

「鳴海さん、起きましたか?」

淀みないタイプの音を止めることなく、音の主である結崎ひよのが歩に声をかけた。
歩は起き上がることすらせず、ああ、と横柄に返事を返す。

「驚きましたよー。私が来たら、鳴海さんが一人で豪快にいびきかきながら爆睡してらっしゃるんですから。
 寝不足ですか?」
「とりあえずいろいろと嘘だと思うことがあるんだがまあ置いておくとして、別に寝不足じゃない」

照れるでもなく言い切って、歩は欠伸を噛み殺した。
意識全体に靄が掛かったような曖昧さがあるが、それでも、

<こんだけ口が利ければ十分か>

自分の口が如何に達者か実感し、思わず苦笑してしまう。
そのまま身体を起こそうとするが、どうにも上手くいかない。
疲れてるのか、と思って、そうかもな、と苦笑を深くする。

首筋に軽く指を添えれば、そこには冷たさが残っているような気がする−−もちろんそんなものは幻感だ。
冷たさの原因であった小型爆弾は、ちゃんと解除することができた。
竹内理緒を捕まえれなかったのは惜しいが、代わりにアイズと結んだ契約は有用だろう。
理緒との対決以降、ちょっかいをかけてくる様子はない。

だけど、だ。
歩は胡乱な頭で考えを巡らせる。
先日、この月臣学園に浅月が転入してきた。そして同時に姿を見せた新顔のこともある。
考えるべきことは後を絶たない。
疲れているという自覚はなかったが、それでも身体には疲れがたまっていたのだろうか。

歩はやれやれと自嘲し、パソコンに向かっている(だろう)ひよのに声を掛けた。

「ブレードチルドレンのことでなんか新しい情報は入ったか?」
「特にありませんね。浅月さんたちが転入してきた理由もまだ見通せてません」

ひよのの言葉には、すこし不満そうな響きがある。
自分の情報網をもってしても覆い切れない情報があることが不服なのだろうか。

「……そうか、わかった」
「はい。……どうしたんですか?
今日はいつにもましてネガティヴ菌大増殖じゃないですか」
「なんだその聞くからに遠慮したくなるような菌は。
ていうかいいかげん俺に対するその認識を改めろ」
「そうですねー、鳴海さんが派手に着飾ってくるくる廻りながら
『大丈夫かい子猫ちゃんたち、僕が来たからには もう安心だよ』
とか高らかに宣言してくれたらきっと認識も改まりますよ」
「確実に下方修正だな」

起き上がろうと身体に篭めていた力が抜けていくのを感じながら、歩はうんざりと呟いた。
そのまま天井を見上げ、呆、と息を吐く。
クリーム色の天井がどこか懐古的なオレンジ色に染まっている。
見つめていれば吸い込まれそうで、目をそらせば世界中を侵食してしまいそうなそんな赤。

ひよののタイプを聞き流していると、不意にひよのがとんでもないことを尋ねてきた。

「鳴海さん」
「なんだ?」
「キスしたことあります?」
「……あんた何処の小学生だ。いきなりすぎるし、質問の内容が幼稚だぞ」

飽きれたままにそんな返事を返す。
ひよのはむー、と声に出して唸ると不機嫌そうに言葉を紡いだ。

「小学生ってのは酷いですよ。
誰だって幾つになっても他人のゴシップには興味津々なんですから」
「醜悪だぞそれは」
「でも事実ですよー。ワイドショーが一番盛り上がるのもそのネタじゃないですか」
「だからってゴシップが醜悪であることに違いは無いだろ。
趣味が悪い。俺は興味なんて無いぞ」
「だったら、教えてくださってもいいじゃないですかー。
興味ないなら頓着もないはずですよね?」
「それとこれとは話が別だ。こっちはプライバシーの問題だろ」

答え、手にしたままだった雑誌を再び読み始める。
書かれている内容が変わっているはずも無いが、それでも
先ほどよりかは多少なりとも頭の中に入ってきてくれた。
そして付け足すように呟く。

「それに、あんたならそのくらい調べれるだろ。個人情報の一つや二つ」
「そりゃそうですけど、でも鳴海さんの口から直接聞きたいんですよ。
 近しい人のこういうことまで根掘り葉掘り調べたら、私ただの出刃亀じゃないですか」

同性間の間じゃ恋愛話なんて筒抜けですよー、というどこかで聞いた台詞が蘇ったがあえて無視した。
またそれとは別に、自覚無かったのか、とどこか呆けて思いつつ、歩は口にした。
紡ぐ言葉に抵抗は無く、よどみも無い。
頓着が無いというのは事実。

「無い」
「え?」
「だから、キスしたこと無いって言ったんだ。
 これで満足か?」
「ほえー、なんか不思議ですねー。
幼少の砌からあちこちの女性に手を出してるおませさんの台詞とは思えません」
「だから、誰が、いつどこでそんな振る舞いをした」
「なに言ってるんですか。この間の柚子森さんだってそうですし
調べてみればあの小日向グループの女傑と呼ばれるくるみさんとも面識があるそうじゃないですか。
それに鳴海さんは無防備ですからねー。
いろんなところで知らず知らずのうちに手を出してるんですよ?」
「……前から思ってたんだが、あんたとは一度本気で腹を割って話す必要があるみたいだな」

呟いてはあ、とため息を一つ。
読み始めた雑誌は結局一度も貢を捲られること無く伏せられた。
単に読む気力が失せたというだけだが。

横になったまま視線を外に移すと、そろそろ太陽が沈もうとしていた。
短い夕方はもうすぐ幕を終える。
部屋の中は、今日一番赤く染まっていた。
再び天井に視線を向ける。
目の前にひよのの顔があった。





ひよのはソファの傍らに立ったまま腰を曲げ、歩の頭をはさむように両手を突き
真上から歩を見下ろしている。
長い栗色の髪は周りの景色と同じように融けた飴色に染まり、流れるようにして下に落ちていた。
その一房が、歩のすぐ傍に垂れている。
枝毛の見当たらない長髪は、存分に手が行き届いていた。

別段、驚かず。
別段、慌てず。
歩は、その体勢のまま疑問を発した。

「……どうした?」
「そうですねー、どうした、って聞かれると答えるに答えれないんですけど」

まだ頭が醒めていない。
頭が働くことを拒否している。

歩の問いに、ひよのは苦笑にも似た笑みを漏らす。
その頬が赤く染まっているのは夕日のせいか、それとも。
まるい瞳が、まっすぐに歩の中を覗き込む。
全てを、心の中全てをも覗き込み奪い去ろうという視線。

本能が恐怖を覚え、意思が許諾した。

自分の全てが曝されているという幻惑に、特に拒否の気持ちも浮かばない。
おそらく、それは、この少女だから。

ひよのは口を開く。
微かに照れたその口調は、またしてもとんでもない内容だった。
鳴海さんがまだキスしたこと無いのなら、と控えめに断り、そして。

「なら、私が最初の一人になっても問題ないですよね?」
「−−は?」

疑問の声は、辛うじて出た。タイミング的に。

歩の理性が言葉の意味を理解、否、納得するより早く
下降したひよのの唇が呆けたままの歩のそれに重なる。
接触はおよそ数秒。
時間こそ掛かれ、触れるだけの浅い接吻。

唇を離したひよのは頬を赤く染めたまま、背をぴしゃりと伸ばし自分の唇に指を添える。
そして紅潮した顔のまま、ほう、と呟いた。

「私の初めて、鳴海さんに奪われちゃった……」
「待て、それはどちらかというと俺の台詞だ」

あまりのことに呆然としていた歩は、ひよののかなり人聞きの悪い台詞に一瞬で我に返った。
するとひよのはあら、と驚いたように声を上げ、

「普通こういった場合この台詞は女の子のものですよ?」
「既にこの場合が普通じゃないから却下だ」
「むぅ、贅沢ですね鳴海さん。
年上の優しくて綺麗な先輩にファーストキスを捧げることが出来て嬉しくないんですか?」
「だから何で問題の焦点がそこなんだアンタは」
「んー、だって他に問題にすべきところありますか?」
「他に、って……」

思わず言い淀む歩。
その顔は、この夕日の部屋でもはっきりと分かるほどに赤くなっている。
二の句が告げない歩にひよのは微笑むと、歩の唇に自分の人差し指を軽く触れさせた。

「手付金です。鳴海さんが他の女性に心奪われたりしないための。
あと浮気しないための、ですよ」
「……」
「あ、でも軽い気持ちでキスしたなんて思わないで下さいね?
いまの、紛れも無く私のファーストキスですから。
それを差し上げた私の気持ちも察して頂けると嬉しいです」
「いいのかよ、あんた……そんな簡単に」
「簡単なんかじゃありませんでしたよ。だいぶ迷いましたし、止めようとも思いました。
いま仕掛けても勝率は低そうですし、鳴海さんにもまだまだ迷いがあるようですし」

言って、ひよのは苦笑してみせる。
歩はふと思った。ひよのの苦笑を見るのは、これが初めてではないか、と。

「でも、堪えれなかったんだから仕方ないです。
賽は投げられ手袋は放られルビコン川は渡られ、それでもハンニバルはやるのです。
返事は一日お待ちしますから、よくよく考えて、迷ってくださいね」

言い残し、颯爽とひよのは身を翻す。
視界から消えたひよのの姿を追うように、慌てて歩は身を起こす。

どうやら身支度は全て終わっていたらしい。
ひよのは椅子に掛けてあった鞄を掴み上げると、そのままドアに向かい、そして足を止める。
くるりと、ひよのは振り返った。
その顔に浮かんでいるのはいつのもの笑みではなく
かといって怒りというわけでも悲しみというわけでもなく。
ただ純粋に赤面した顔が、そこにあった。

「えっと、その、ここまでやっといてなんですけどやっぱ言わないと卑怯でしょうか?」
「……」

歩は無言。
何かを言いかけて、その言葉が形にならないことを知る。
必死で頭を巡らせて、言葉を作ろうとして、無駄と悟る。
だから、口から出たのは純粋な希望。
何処までも本心に近い、一つのテクスト。

「頼む」

ひよのの顔が、ぱぁ、と明るくなる。
そしてひよのは言葉を紡いだ。
照れることも淀むことも無く、自信と自信と自信をもって。

「鳴海さん、好きです。お付き合いしてください」

その声は、本当に素敵で、眩しいほどだ。
歩は頷き、流れるように答えを述べた−−ひよのの言葉に恥じぬよう、照れず淀まず自信を持って。

「俺も、好きです。付き合ってください、美人で優しい一つ上の−−」

少女が、苦笑する。
少年も、苦笑する。

「−−ひよの先輩」





ややあって、二人は同時に微笑んだ。
青春ですね、とひよのがからかう。
あんたも人のこと言えないからな、と言い返して歩は立ち上がる。
鞄を引っつかみ、ひよのの傍に。

一緒にドアをくぐろうとしたその瞬間、歩は、今度は自分からひよのの唇にキスをした。
ひよのが息を飲み驚いて、扉の柱に頭をぶつける。

なにやってんだ、と歩は飽きれて呟いた。
いきなり何をするんですか、と不満げにひよのは呟いた。


奪われたからには奪わないと割りが会わないだろ、と歩。
顔を赤く染めたまま不満げに唸るひよのをおいて、一歩前に出た。
いつもと変わりない立ち位置のようで、ほんの少し違う距離。
それは主に、ひよのと同じかそれ以上に赤面している自分の顔を見られたくないがため。
そのまま歩いて、けれどいつしか二人で肩を並べ同じ歩調を刻んでいる。






昨日までとは違うけど、これからはおそらく日常になるであろうこの関係。

二人はいつものように肩を並べて、いつもと同じように岐路に着いた。



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