魔法使いと過ごす部屋


7.【終調】



 やけに長く感じた揺れが終わって、町には仮初の静寂が訪れた。
 ひどい揺れだった。昔に乗った体震車なんて、とてもじゃないけど比ではない。
 騒ぎ始めた他の住人に混じって、僕もマンションを後にした。






 ――――そこは、別世界かと思った。




 アスファルトに走った大きな亀裂。
 所狭しと散乱している窓ガラス。
 根元から折れた電柱が路上に停まっていたスポーツカーを打ち砕き
 断線された黒い電動線が力なく揺れていた。東の空が、夜にも関わらず赤く染まっていた。
 おそらくは火の手が上がっているのだろう。繁華街の方だ。
 聞こえていいはずの救急車のサイレンとか、消防車のサイレントかはまるで聞こえない。
 耳に届くのは、ただ、怨嗟としか受け取れない呻き声。


 それと、爆音。
 時折響くそれは、どこかで起こっているガス爆発かなにかだったのだろう。
 しらけた音が響くときもあれば、すぐ傍らで轟音が上がるときもある。
 そしてそこでは火の手が上がる。

 火だるまになった人影が、視界の隅で地に伏した。
 タスケテ、と耳元で風が謳う。

 聞こえないフリをして、ただ逃げるために足を動かした。





 町の様相は、一時間足らずの間に劇的に変化してしまっていた。

 街灯すら光を失ったいまこのとき、頼りになるのは微かな月明かりのみ。
 遠い闇に浮かんだ衛星は、とても静かに僕らを見下している。

 薄い光の照るなかで、幾つかのビルが倒壊していることを知った。
 なるほど、妙に誇りっぽいと思ったのはそのせいだったのか。
 そう思えば、あのマンションが倒壊しなかったこと自体が、既に僥倖だったのかもしれない。

 本当に、悪夢だ。

 とても判りやすくって、どうしようもない現実味を帯びた悲劇が、僕の目の前に広がっている。




 重い足を引きずって、誰もいない道を歩く。
 微かなざわめきが、人が居るという証が風に乗って運ばれてくる。
 けれど僕は、それから離れるように先を進む。
 もう、すれ違う人だっていはしない。

 その代わり、既に死んでしまった人間なら探さなくても見つけることができる。
 血まみれでガラスの海に沈む男。
 コンクリートブロックが半分ほど胸に食い込んだ女。
 瓦礫の隙間に細い腕が覗いていれば、そのすぐ傍にいまだ燻る焼死体。
 特に焦げたヒトガタは、あちこちに転がって数もわからない。

 ただ、増えているのだろうということだけ、悟っていた。

 聴覚がおかしくなったのか、風の音が悲鳴のように聞こえてる。
 嗅覚はとおの昔にイカれてて、血の臭いだって嗅ぎ取れない。

 でも、文句はない。生きているならそれで充分。
 そう、充分――――だから、この、突然降ってきたガラス片にえぐられた腕の傷は
 無視できるぐらいに軽いもの。

 足を止めることもできずに振り返れば、道には点々と僕の血液が続いている。
 なぜだかおかしくなって、笑い声が口から漏れた。

「はは……ははは」

 笑っていたのか泣いていたのか、それすらもわからないままに僕は歩きつづける。
 どこに向かっているのだろう――――そんなことも判らなかった。


 寒い。
 熱い。
 寒い。
 熱い。


 冬なのに、体が燃え上がりそうなほどに熱い。
 腕を垂れ、アスファルトに落ちる水滴の跡が焼けそうに熱い。

 怪我をしているはずなのに、傷痕が寒い。
 風邪でもひいたみたいに、ものすごい悪寒。
 フリーザーの中に置いてきぼりにされたみたい。
 なぜだろう。
 足も満足に動かせなくて、うつ伏せに倒れこんだ。

 う、と声が漏れた。

 目が霞む。
 血を流しすぎたかな、なんて冷静に分析している自分がいた。
 マトモに動く左腕だけで這って、さらに道を進む。
 アスファルトに擦れる胸に傷ができたけど、不思議と痛くも何ともなかった。
 ただ、悪寒が増した。




 不意に、思い当たる。
 自分がどこに行こうとしているのか、その場所を悟る。
 だから、もう、本当に。
 情けなくて、悲しくて、馬鹿馬鹿しくて、笑いを上げた。

 ごろん、と仰向けになる。
 ハッと息を呑むぐらいに、白い月。
 もう、何も考えたくはない。

 熱くて、寒くて、痛くて
 痛くて、痛くて、痛くて、痛くて、痛くて
 淋しくて淋しくて淋しくて
 淋しくて淋しくて淋しくて淋しくて淋しくて
 淋しくて淋しくて淋しくて淋しくて淋しくて淋しくて淋しくて
 淋しくて淋しくて淋しくて淋しくて淋しくて淋しくて淋しくて淋しくて淋しくて
 淋しくて淋しくて淋しくて淋しくて淋しくて淋しくて淋しくて淋しくて淋しくて淋しくて淋しくて
 淋しくて淋しくて淋しくて淋しくて淋しくて淋しくて淋しくて淋しくて淋しくて淋しくて淋しくて淋しくて淋しくて

 悲しくて、
 延々と笑っていた。


 けど、そんな声も上がらなくなって。
 黒い夜空の白い月も、だんだんとぼやけていって。










 なぜだかそこに。
 一つの姿を見出した。


 ソレは、僕の姿に気付いた。
 ソレは、僕のすぐ傍に降りてくる。
 ソレは、なにかを喚く。
 ソレは、僕の体を抱き起こす。


 彼女は泣いている。
 僕の体を抱きしめて、熱い雫だけが僕の頬に降りかかる。
 目はもうなにも見えなくて、耳にはもうなにも届かないけれど、それだけははっきりと判ってしまった。


 さあ、……最後の一踏ん張りだ。
 去りゆく現世に、一言だけを残すなら。





「――――――――――――」


 意識の途切れるその直前。
 記憶するだけ無駄な記憶のなかで、死に対する悲しみだけが消えていた。











 ◇

 こうして、魔法使いたちが引き起こす革命の狼煙は上げられた。
 彼らの目論見通り、東京を襲った大地震は確かに日本の機能を麻痺させた。
 あまりに突然だったその出来事は、当初人為的な事象であるということさえ悟られることはなかった。

 また、それが革命だと誰もが悟ったときには、既に全てが遅すぎた。
 地震と同時期に起こった首脳陣の原因不明≠フ失踪により、実質的に崩壊した政権を
 魔法使いたちが奪取して臨時政権を作り上げるまでに二週間。
 それを外国に認めさせるまでに三ヶ月。
 地方の自衛隊を鎮圧し、反抗する勢力を全て潰し上げ、一つの国を作り上げるまでにさらに四ヶ月。






 そして、西暦二〇〇三年八月十五日。
 半世紀ほど前に大戦を終えた記念日に、日本という国は地図の上から姿を消した。






【了】



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