魔法使いと過ごす部屋


6.【調和;2】


 今日も今日とで図書館から帰った僕は、ただいまと言って部屋に上がった。
 けれど、珍しいことに返事がない。
 この時間、リビングでぼんやりとテレビを眺める彼女の返事を聞くことが
 僕の帰りの挨拶と一緒に最近の慣習になっていたのに。

 恐る恐るリビングを覗けば、やはり、そこは無人だった。
 出ていったのかな、と思った。けど、すぐに違うと思い当たる。
 玄関には確かに彼女の靴があったし、それになにより――――まったくの思い込みだけど
 彼女は何も言わずに出ていくような、そんな薄情な娘じゃない。
 なら、いるとしたら寝室だろうか。そう思って彼女の部屋のドアを叩く。

 待てども、返事はなかった。
 僕は首を傾げて、もう一度ノックする。

 けれど、やはり返事は返ってこなかった。
 嫌な胸騒ぎがした。堪えられず、失礼だとは思いながらも勝手にドアを開け、中に入った。


 がらんとした部屋だった。
 それまでは空き部屋で、ていの良い物置だったその部屋には、ベッドの一つしか見当たらない。
 クローゼットも箪笥もないその部屋の隅に、見慣れた鞄だけが居心地悪げに転がっていた。
 生活観を削ぎ落としたような部屋。
 その主は、ベッドの上で眠りこけていた。

 なぜか、ほっと息が漏れた。
 彼女がまだこの部屋にいることが知れたから、もうこの部屋に用はない。
 だから身を翻そうとして――――どうしてか、そのことに気が付いた。

 ただ、微かな疑問。
 でも、気のせいにしては大きすぎる刺。

 僕はベッドに横たわる彼女に近づいて、半ば無意識のままにその額に手を当てた。
 ……熱がある。
 そう思って良く観察すれば、彼女の顔はどこか苦しげで、発汗がある。呼吸も小刻みだった。
 風邪だろうか。
 そんなことを思いながら、僕は今度こそ部屋を後にした。
 とりあえず、洗面所にタオルを取りに行くことにしよう。







 彼女が起き出してきたのは、ちょうど僕が食事の準備を終えて、様子を見に行こうとしたときだった。
 ドアを開けて廊下に姿をあらわした彼女に、僕が先に声をかけた。

「おはよう。風邪はもういいの?」
「うん、大丈夫…………?」

 彼女の声の語尾が、微妙に上がる。
 その目は僕の手に――――僕が手にした盆に注がれているらしかった。
 そこでは深皿に入った、作り立てのお粥が白い湯気を立てている。
 卵入りで、その色合いは微妙に明るかった。

「悪いね、病人食ってこれしかできないんだ。
 どうする? キッチンで食べようか」

 僕の言葉に、彼女は無言で頷いた。
 まだ辛そうだけど、その顔には覇気がある。
 これなら心配はないかな、と思いながらキッチンに戻った。

「わざわざ作ってくれたの?」

 いつものテーブル、いつもの席。
 渡したレンゲでお粥を掬いながら、彼女は尋ねた。

「まあ、ね。重いもの作るわけにもいかないでしょ?」

 ついでに作った自分の分を食べながら、僕は彼女に返す。
 彼女は不思議そうな顔をして、お粥と僕とを交互に眺めた。

「……御節介なんだよ、きっと」

 なんだか理由を尋ねられている気がして、そんなことを呟いていた。
 彼女は小さく笑う。

「でしょうね」

 それが誉め言葉なのかどうなのか、いまいち僕には判らない。




 その後は特に会話もなく、淡々と食事は進んだ。
 それは別に珍しいことじゃない。
 別に気まずい沈黙というわけでもなければ、僕らの食事は大体いつもこんな感じだからだ。

 そして、食後。
 小物入れから風邪薬のビンを取り出して、水の入ったコップと一緒にテーブルに置く。

「あ、ありがと」
「どういたしまして」

 笑いながら返して、僕はいつもの通り食器の後片付けに入った。

「……すごいわよね、あなた」

 二人分の食器を洗っていた僕に、背中から彼女の声がかかる。
 僕は振り向きもせず、声だけで答えた。

「なにが?」
「いろいろと。料理とか洗濯とか、家事も一通りならできるみたいだし」
「ま、一人暮しが長かったからね。慣れさ」
「……そう言えば、あなたの両親はどうしたの? まだ会ったことがないんだけど」

「――――いまは二人とも、単身赴任で出張中。
 月に一回でも顔を見せれば良いほうかな。最近、それすらできなくなってるみたいだけど」

「ふうん……あ、そう言えば、私が寝てる間に部屋に入ったでしょ?」
「まあね。悪いとは思ってるよ」

 入ったのは事実だけど、したことといえば軽く汗を拭いて、布団を掛け直しただけだ。
 彼女はしばらく沈黙を続けていたけれど、やがて諦めたようなため息が僕の耳に届いた。

「……なんだか、調子狂うわね」
「こっちもだよ」

 そして聞こえるがたん、という音。
 僕は手を止めて、席を立つ彼女に向き直った。

「寝るの?」
「うん。まだ本調子じゃないみたいだし、これ以上悪くなったらたまらないしね。ご馳走様。おやすみ」

 言って、彼女は部屋を出ていった。
 テーブルの上には、薬の瓶と空のコップだけがある。

「……ホント、僕のほうが調子狂わされてばっかだよ」


 誰にでもなく呟いて、苦笑して。その二つを片付けた。

 まあ、その、なんでだろう。
 部屋を出ていく直前に彼女が漏らした、小さなありがとう≠セけで全てがどうでも良くなってしまうのは。
 そんな疑問だけが胸に残ったまま、僕は後片付けを再開した。







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