魔法使いと過ごす部屋


5.【整調】

 朝になって目が覚めて、醒めた自分にうんざりとした。
 昨夜のアレが夢ならば、それはどんなに幸せだろう。
 だけどアレは紛れもない現実で。

 その証拠にだってほら。
 目元には乾いた涙の後があるし、玄関に彼女の靴はない。
 鞄も、服も、食器も、歯ブラシまでも。
 全ての痕跡が消えていた。
 時節は、十二月になったばかりの寒い朝。
 ぽかりと開いた日常の空白。

 ずいぶんと久しぶりに迎える、たった一人の朝だった。




 今日が登校日だったというのは、僥倖と言っても過言ではないだろう。
 ほとんど半年ぶりになる学生服に袖を通し、軽い鞄を背負って学校に向かう。
 慣れた道。懐かしいはずの風景は、なぜかだか味気なく見えた。

 学校に行っても、別に授業があるわけではない。
 集会が開かれて、もうすぐセンター試験だの、もう一踏ん張りだの、判りきったどうでもいいことを教えられた。

 どう転んだって、僕には関係のない話だ。

 そんな空疎な集会からも正午前には解放されて、いざ帰ろうといった時
 同じ元テニス部の連中に誘われた。
 気晴らしに少しやってかないかと言われ、僕にしては珍しく素直に頷いた。

 多分、あの部屋に帰りたくなかったんだと思う。
 学生服だけ脱いで、備品の予備ラケットを握りしめ。
 鈍った体に苦笑して、鈍った相手をおちょくりながら、力いっぱいボールを返す。
 なにも考えなくていいように、試合もどきのゲームに熱中した。

 だけどそんな時間も過ぎ去って、気晴らし遊戯は終幕を迎える。

「なんか、やけにムキになってなかったか、お前」

 無断使用の備品をこっそり器具庫に戻すとき、思い出したみたいにソイツは言った。

「気のせいだろ?」

 僕にしては珍しい、見え見えのウソだった。



 気付いたときには遅すぎるなんて、ホント、上手く言ったものだと思う。
 夕暮れ。
 学校帰りに寄った図書館からも閉館時刻ですぐに追い出され、すっかり暗くなった道を歩く。
 空には月が浮かんでいて、満月が近いことが窺えた。

 気付いたときには遅すぎるって言うけれど、それは気付かなかったこととどう違うと言うのだろう。

 そんな感傷に浸ったのも、月に魅了されたからなのかもしれない。
 気がつけば、その場所に来ていた。
 狭い公園の、その裏道。
 ろくに光も指し込まない狭い道。

 そう、僕が彼女と初めて会った場所。
 本当にもう、苦笑するしかなかった。
 なんだよ、いったい。
 ここに来て、いったいどうするつもりなんだ。
 ここに彼女がいるとでも思ったか?


 ここに来れば、もう一度彼女と出会えるとでも思っていたのか、お前は!!








 ――――そう願っていたのだろう、僕は、きっと。




  彼女との間に、特になにがあったわけではない。
 彼女はただ僕の日常に突然現れて、そこに当然のように居場所を作り上げただけだ。
 連れ立って買い物に行ったことだって、数えるほどしかしていない。

 なにかを言った覚えも、なにかを言われた覚えもない。
 なのに、どうして。

 彼女が帰ってくるはずのないあの部屋に戻ることを、どうしてこんなに怖れているんだろう。
 あの虚ろな部屋に帰ることを、なぜこんなに拒まなければいけないのだろう。
 あるいは、気付かなければ。
 僕がこの感情をただの同情や憐れみだと思っていれば、こんな怖れを抱かずに済んだかもしれない。

 けれど、それもおそらくは。
 たぶんどうしようもないくらいに、悲しいこと。







 ずいぶんと長い時間を、案山子みたいに佇んでいた。
 さんざん自分を否定して、馬鹿にして。
 重い足を一歩踏み出したとき、月はいつの間にか僕の頭上、遥か遠くに浮かんでいた。



 気付いたときには遅すぎるって言うけれど。
 それでも、気付かないよりはよっぽど、





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