罪の花 / 前編





 乾いた音が闇の中よりただ響く。
 それは審議の終わりを告げる音。裁きの決定を謳う歌。

「判決を言い渡す」

 闇。ただの闇。便宜的な闇。確信的な闇。悪夢的な闇。深い闇。届かない闇。終わらない闇。停滞した闇。流動的な闇。能動的な闇。仮説的な闇。確定的な闇。確率的な闇。境界的な闇。事実的な闇。予測的な闇。実質的な闇。感情的な闇――どれだけ言葉を並べたところで、この闇を形容することなど出来ないだろう。何も生み出さず、何も潰さず、何も返さぬ行き詰まりの空間。何も見えず、否、何もかもが見えているのかどうかすら分からぬ闇。
 仮に何かを求めても、心の奥底から渇望し腕を伸ばしても、何も返りはしないだろう。全てが無いようで、全てを含む闇。是と非の間。確率的。存在を求めれば全てが終わってしまう世界。何も無い。

 遠い。

 だから――彼女は疑問に思う。
 この音は、何処から響いているのだろう?
 かぁんかぁんと耳に届く槌打ちの音。耳に届く誰かの宣告。

「被告の罪状は――」

 淡々と、そして延々と告げられる罪の名称。行った罪科に暫定的に宛がわれた言葉の羅列。誰かが誰かを裁くために意義付けた、便宜的な名称の数々。口上に上るそれらは瞬く間に十を越え、百を越え、しかし、まるでそれらは一つの罪を延々と繰り返しているようにも聞こえた。
 そう、その言葉は、音は、間違いなくこの耳に届いている。
 空耳か? 彼女は闇の中でそう思う。見えるものは何も無く、存在しているかどうかすら分からない闇の世界。そも、自分の存在すらもあやふやな暗幕の世。まるで自分が煙のように薄まって、この世界全てに広がっているかのような錯覚。錯覚? そう、錯覚。彼女はそれを確信している。全てが胡乱なこの世界で、何よりも胡乱なこの感覚こそが錯覚だと理解している。
 なぜなら、これは、何度も見た光景だから。
 闇の中から届いた口上が止まる。はて、と彼女は疑問に思った。告げられた罪目は幾つだっただろうか。千を数えた辺りまでは意識を裂いていたのだが、千百五十七番目を最後に数えるのを止めていた。万を越えたか、それとも億まで届いたか。罪を飾る棚は足りただろうか。全ての位相からかき集めたかのような罪は、果たしてこの闇で覆いきれるのか?

 かぁん、かぁん、と音。

「――以上が被告の罪である。よって判決を言い渡す。死刑」

 かぁん、かぁん。
 本日は晴天である、と宣言するかのようにあっけなく下されたその罰に、しかし彼女は驚かない。ただ僅かに息をのみ、ああ、と安堵の息を吐いた。
 驚愕でも、嗚咽でも、否定でも、疑問でもない、安堵の吐息。
 当然だ――と思ったのである。
 この身は罪に塗れている。皮膚に、骨に、脳髄に脊髄に網膜に満遍なく罪と言う名の色が滲み込んでいて、身体を少し押さえたならば、まるで水に沈められていた真綿のように、それらはどぼどぼとこの身体から、紅い何かに混ざって溢れ出ることだろう。
 だから、これで心が休まるのだと彼女は知っている。罪は裁かれることで罰を経て償いへと消化する。償われぬ罪はいつまでもいつまでも心の棚に仕舞われ続け、やがて棚を埋め尽くすだろう。しかし罪は罪を呼び、次から次へと溜まり続ける。仕方なくそれまで使っていた棚を心の奥に放り投げ、真新しい棚に真新しい罪を並べていくのだ。それを何度繰り返しただろう。否、繰り返しているのだろう。罪は償われぬままに溜まり続け、蓋をして投げ捨てた棚はどれだけの山を築いたのだろう。繰り返した動作は平均化され普遍化される。心を痛ませていた行為もいつかは無感動な単純作業に成り下がる。それでも罪は溜まり続ける。償われること無く投げ捨てられた罪の山はいずれ狂気じみた蒐集品の如く並べられるだろう。整理を要するそれらに表札代わりに張られるのは、相応の罰を書き記した対価票に他ならない。
 つまり、

「死刑。死刑。死刑。死刑。死刑。死刑。死刑。死刑。死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑――」

 投げ捨てた罪が。
 封じた罪が。
 目を逸らした罪悪が。

 声を揃えて。

 死んでしまえ、と呪っている。



 かぁん、かぁん、と誰かが木槌を叩いている。

「――死刑。以上が全審議官の判断である。よって此処に全審議官の連名をもって改めて被告に死を命ずる。執行人は前へ」

 そう声が届いた瞬間、不意に世界に感覚が生まれた。唐突な情報に、一瞬意識が全ての入力を閉ざし凍結する。神経再接続。緊急情報処理。まず感じたのは足の裏が何かを踏みしめている感触。そして闇の中に自分が浮かび上がる客観的な想像。光の欠片も差し込まず、よって何も見えるはずも無い深淵の中に、しかし彼女は自分の存在と自分が置かれた状況とを知覚する。
 闇は晴れない。だが不思議と目には自分の置かれた状況が見える。自分が立っているのは、円柱状の柱の断面。その面積は足を乗せるための最低限のものしか有しておらず、少しでも足をずらせばこの闇の中へと真っ直ぐに落ちていくだろう。連想したのは湖の只中にぽつんと飛び出た杭。それとこれとの違いは、多分、落ちた先に水が在るのか何も無いのかというただそれだけ。
 ぼう、と闇の中に何かの輪郭が浮かび上がる。相変わらず光は差し込まない。だがそれは、まるで闇自体が光を放っているかのようにはっきりと、その存在を視界の中へと躍らせる。
 執行人。
 彼女はその姿に覚えがあった。かつての同胞。否、同胞と呼ぶことすら躊躇われる気高き存在。遥か彼方の時空で起こった戦いにおいて、迫り来る敵の軍勢を相手に一人で立ち回り、幾千幾万の敵の首を切り落としたといわれる死の舞踏。敵からは恐怖と悪夢の、味方からは勝利と希望の代名詞として叫ばれたその名前。後世において、優秀な兵士たちの総称となったその存在。
 そして、彼女が遠い故郷に見捨てた者たち。

 その名を、首狩り兎(ヴォーパルヴァニー)という。

 ひょん、と刃が音を立てる。浮かび上がった執行人のその手には、いつの間にか身の丈ほどの刃が握られていた。
 ひょん、と刃が音を立てる。執行人が試しにとばかりに振るうそれは空気を割き、視認が不可能なほどの速度で振るわれる。触れれば命どころか、存在すらも残るまいと思わせる斬撃。ただ首を狩ることだけに特化した刃と、それを振るうことだけに特化させられた我が同胞。
 常夜の国に、果たして刃は持ち込めたのだろうか。
 ひょん、と刃が音を立てて振るわれ、そして、構えられた。執行人は視線を外さない。赦さぬと、償えと、死んで償えとその視線で叫び泣き慟哭を上げながら、刃が真っ直ぐ水平に構えられる。
 声が聞こえた。

「被告は何か言い残すことがあるかね?」

 目の前に立つ執行人が無感動に刃を振るう。目に留まらぬ斬撃。ならば答える時間など無い。声帯が振るえ音が言葉になる前に、執行人は万全の仕事で持ってその役割を果たすだろう。
 だが、それでも、言葉があるのかと問われたら、ある、と答えるほかに道は無い。
 ぞわり、と身の毛がよだつ。いままさに刃が動脈を切り開こうとしている。最早これで終わる。自分は殺される。罪の償いとして殺される。首を落とされて殺される。血を吹き上げて死ぬだろう。分断された頭と身体は運命の濁流に飲まれた恋人の如く闇に落ち、二度と相見えないに違いない。
 執行人の赤い瞳に、立ち尽くす自分の姿が映っている。狂気を湛える赤い瞳。血のように、月のように赤い世界に、ただ罪を裁かれるべき自分だけが映り、安らかな笑みを浮かべている。やっと終わる、と心からこの終末を望んでいる。
 ただ、彼女は小さく疑問に思うのだ。
 声は間に合うだろうか、という些細なそれと同じように純粋に、そして素朴に、救いを求めて。

「――私の罪は、償えるのでしょうか?」

 血が流れ出るより早く脊髄を切断され、彼女の意識はぷつりと途絶えた。








 ごす、と結構洒落にならない音がして、額が猛烈に痛んだ。

「――ッ!」

 まどろみを一足飛びに行き過ぎて、鈴仙・優曇華院・イナバの意識は覚醒した。寝床の中で頭を抱えてごろんごろんと左右に身をよじり、いたいいたいいたいと口走りながら涙に滲む視界で天井を見上げれば、そこには困ったような表情でこちらを見下ろす師匠、八意永琳の顔がある。
 永琳は小脇に何かを抱えたまま頬に手を当て、あらあら、と呟いた。

「困ったわね。まだ起きないの? ウドンゲ。もうとっくにお昼なのだけれど?」
「……起きてます。起きてますから師匠、その手に持った小坪を置いてください。落とさないで下さい。痛いんです重いんですそれ何入ってるんですかいったい」

 言っても聞いてくれないんだろうなぁ、と心のうちで涙しながら、鈴仙は身体を起こした。枕元に転がる小坪――おそらく、いや確実に永琳が鈴仙を起こすために顔目掛けて落としたそれを何とはなしに拾い上げ胸に抱きながら、もう、と鈴仙は自分の額に手をあてがう。
 案の定、こぶが出来ていた。
 うう、と鈴仙は涙目でぷくりと膨らんだ額をさすりながら自らの師匠を見上げる。

「どうしたんですか、師匠。いつにも増して唐突ですけれど」
「あら、言ったじゃない、ウドンゲ。もうお昼よ?」
「え?」

 間の抜けた声を上げて、鈴仙は部屋の中を見回した。永遠亭の一角に位置する極々標準的な一室。畳張りの床と漆喰塗りの壁。あまり多くはない私物と、所々に乱雑に詰まれた何冊もの学術書。それらを照らし出す光は壁に設けられた明り取りの窓から差し込む陽光で、なるほど、確かに永琳の言うとおりその射角は随分と高い。昼前か、ひょっとしたら既に正午を待っているのかもしれない。
 はて、と鈴仙は首を傾げた。彼女は大抵、朝は日が昇るより早く目を覚ます。そして朝のうちからその日に必要な諸々の薬草や毒草を収集するのが彼女の日課だ。こんなに遅くまで寝続けてしまうことなど、滅多に無いのだけれど。
 ただ、まあ、なんにせよ寝坊をしてしまったのは事実のようだ。鈴仙は永琳を見上げ、ぺこり、と頭を下げる。

「すみません師匠。寝過ごしてしまったようです」
「見れば分かるわ。それよりもウドンゲ、何か気付かない?」
「何か、ですか?」
「ええ、そうよ。耳を澄ましてごらんなさい」

 困り顔の永琳の言葉に従い、鈴仙は周囲の音に注意を向けた。小鳥の鳴き声、竹の葉が風に揺れる静かな音の流れに混じり、なにやら騒々しい足音が聞こえていた。それも、かなりの数だ。
 鈴仙が驚き顔でこれは、と呟けば、そう、と永琳が頷いた。

「兎たちがはしゃいでしょうがないの。まあこんな状況だから無理も無いけれど、それでもちょっと耳障りだわ。兎たちの管理はウドンゲ、あなたの役目でしょう? 今日は私の手伝いはいいから、この状況を何とかして頂戴」
「はあ、分かりました。ならてゐは何処に居ます? 小兎たちはてゐの言うことしか聞きませんし、私に言うよりてゐに言いつけたほうが早いと思いますけど」

 永遠亭の小間使いとして多数仕えてる兎たちを統べるのは、長生きした末に妖怪となった白兎、因幡てゐだ。勿論鈴仙とて彼ら、彼女らと意思の疎通が出来ないわけではないが、どういうわけか兎たちはてゐの言うことはよく聞くので、鈴仙は兎たちの管理をてゐに任せっきりにしていた。
 そのことは師匠もご存知のはずですけど、と口にせず目で伺えば、永琳は頬に手を当てて呆れたように息を吐く。

「それが、てゐも一緒に何処かに遊びに出かけちゃったのよ。多分、兎たちが騒いでいるのはそのせいでもあるでしょうね。歯止めが利かなくなってるみたい。だからウドンゲ、あなたにはてゐを見つけて連れ戻しなさい。ついでにこの異変も解決してくれると嬉しいわね」
「異変、ですか?」

 鸚鵡返しに聞き返しながら、再び鈴仙は窓の外に目を向ける。鬱蒼と茂った竹林に変化はなく、昨日見た光景とどう違うのかと問われれば答えることも出来ないだろうと思う。しかし、それはつまり昨日の延長線上であるということで、異変と称されるべき非日常とは無関係のように思えた。
 しかし、師匠が言うのだからきっと何か変化があるのだろう。暇潰しに難題を押し付けたり、色々と苛められることは多々あるが、それでも鈴仙は基本的に永琳を信頼し、尊敬している。そうでなければ師匠などとは呼びはしない。その永琳が言うのだから、確実に何か異変が起こっているのだろう。
 ただ、自分にはそれを見出すことは出来ないといだけの話。
 それを察したか――永琳が、低い声で言う。

「ウドンゲ? あなた、気付かないの?」
「え――あ、はい。すみません」

 隠しても仕方が無いことなので、大人しく鈴仙は頭を垂れる。
 永琳は厳しい一瞥をこちらに向け、しかし、すぐにその視線を和らげた。

「そう。まあいいわ」

 珍しいことに、優しげな声でそう言う永琳。
 だから、鈴仙はその思考を打ち消した。
 永琳が視線を和らげるその直前。一瞬に満たぬ僅かな時間、彼女の瞳に浮かんだ色は、

 ――憐れみ?

 さて、と永琳は呟いてこちらに背中を向ける。そのまま、顔を見せぬままに言葉を続けた。

「じゃあ頼んだわよ、ウドンゲ」
「はい、分かりました」
「いい返事ね。ああ、それと、」

 そこまで言って、永琳はようやくこちらに顔を見せる。
 そこには、にこり、と、子供に向けるような満面の笑みが浮かんでいた。

「ウドンゲ。人の趣味に文句つけるつもりは無いけれど、少し無用心が過ぎるわよ?」
「え?」
「どうせ永遠亭は女所帯だけど、少しは恥じらいというものを持ちなさい」

 じゃあね、と言って部屋を出て行く永琳。
 その背中を見送り、今更、鈴仙は自分が一糸纏わぬ姿で居ることに気がついた。

「う、うわぁぁぁぁぁぁぁっ!?」

 恥ずかしさのあまり布団を掻き揚げ抱きしめる。頭に血が上り、ついでに顔が赤くなるのを知覚。
 ……気が抜けていたことは認めよう。眠るときに裸になるのは随分と昔、それこそこの屋敷に逃げ込む前からの習慣なのだが、だからこそその時の姿を誰かに見られたりしないようにと注意を払ってきたのだ。事実、彼女は寝ているときに誰かを部屋の中に忍び込ませた記憶など無いし、まだ月に居たころもそんな事態は一度も無かった。
 だから、気が抜けていたのだろう。そう思わなければいけない気がした。

 ――夢見は、悪かったというのに?

 何の夢を見ていたかは覚えていない。だが、きっと幸せな夢だったのだろう。そうでなければ、夢に堕ち気って居なければ、たとえ師匠といえどこうも簡単に寝ている間に部屋に忍び込むことなで出来ない筈だ。
 忘れよう、と鈴仙は思った。頭を振って、意識の熱を振り払う。顔の赤らみが抜けぬままに枕元の衣類に手を伸ばし、手早くそれに着替えた。いつもの服。白いシャツとスカートを身に纏い、布団を片付ける。ついでに押入れの中から愛用の品を取り出し、幾つか身につけた。どうせすぐに出発するのだ。準備は早いに越したことは無い。

「さて」

 呟いて、部屋を出る。このまま発ってもいいと思うが、先に少し腹ごしらえをしたほうがいいだろう。
 じゃらり、と鳴る腰のそれの重さに懐かしさと、何処か違和感を感じながら――彼女、鈴仙・優曇華院・イナバは永遠亭の自室を後にした。



 なるほど、と鈴仙は思う。これが、今回の異変なのか。
 幻想郷中に咲き沸く自然の花々。季節を無視し、或いは咲くべき季節よりよほど元気よく花をつけた野の色彩。あり得る道理の無い光景は、しかし同時に見る者の心を躍らせる。なるほど、と鈴仙はもう一度思う。これならば兎たちが騒ぎ出すのも無理は無いだろう。まあてゐに関しては別の話。てゐはもう少し落ち着くべきだと彼女は思う。
 幻想郷中を軽く見て回り、行き摺りに何人かに弾幕ごっこを仕掛けられたりそれを撃退したりしながら、鈴仙は一度永遠亭に戻ろうとしていた。心当たりのある場所はほとんど見て回ったがてゐの姿は見つからず、いっそ冥界にも足を踏み入れてみたがその姿は見えなかったので、ひょっとしたら、と思い永遠亭廻りの竹林を探すことにしたのだ。つい意識せずに出発してしまったが、考えてみればてゐが遠くに行ったなどいう論拠は一つもない。ならば思いのほか近くに居るのかもしれないし、そうでなくともそろそろ戻ってきているのかもしれない。
 師匠が急かすからいけないんだ、と胸の内で言い訳しながら、鈴仙は竹林の間をゆるゆると飛ぶ。時折ちょっかいを掛けてくる妖精や幽霊を片手間に相手しながらしばらく進むと、やはり、と言うべきか、残念ながら、と言うべきか、行く手に見覚えのある姿があった。
 鈴仙は速度を上げて呼びかける。

「てゐ! こんな所で何やってるの!」
「ひゃっ!? 鈴仙っ!?」

 竹林をのんびりと歩いていたてゐは、驚いたように肩をすくめる。こちらの姿を確認して一瞬眉を顰めたかと思うと、慌てて空に飛び上がった。
 そのまま一目散に逃げようとしたので、鈴仙は少し迷い、結局ため息一つついて追撃の弾幕を展開した。水平方向に対し扇状に広がる5-Way弾と垂直方向への3-Way弾、加えて弧を描く弓軌弾をあわせて七つ。時間差を付与しながら次々に叩き込む。
 青い光弾が耳を掠ったか、うわぁ、とてゐは情けない悲鳴を上げた。

「ちょ、鈴仙、本気なのっ!?」
「本気よ。私がどれだけ幻想郷を飛び回ったと思ってるの。出かけたなら大人しく遠くに行ってなさい!」
「お、横暴だよそれはっ!」

 鈴仙が次々に放つ弾幕に涙声の抗議を上げ、しかしひょいひょいとそれらの隙間を潜りながら、てゐも迎撃の弾幕を展開し始めた。
 左右から斜めの軌道を描いて複数迫る弓軌弾、計十三。それぞれの交差点は微妙にずらされており、小さな回避運動では全てを避けきることは難しいだろう。仕方なく鈴仙は速度を落とし、右の腕と足を大きく伸ばしてそこに空気の抵抗を受けた。身体の左右に掛る抵抗の均衡が崩れたことを利用し、鈴仙はそちら側へと身体を滑らせる。迫っていた弓軌弾がスカートの端を僅かに焦がし、追撃でばら撒かれた乱軌弾の一つが腕を掠めるが、注意を裂くようなものではない。
 視界に、不意に幾つかの陰が映った。弾幕ごっこの雰囲気を感じたか、それとも鈴仙たちの気配に反応したか、小さな妖精たちや幽霊たちが次から次へと姿を見せ始める。狙っているかどうかすら分からぬ弾を適当にばら撒く妖精たち。その標的には、鈴仙は勿論のことてゐにもしっかりと含まれている。彼らはただ騒ぎたいだけなのかもしれないが、容赦の必要はなさそうだ。
 鈴仙は反撃の弾幕を展開しながら手近な竹に足を突き、自分の進行方向に横向きのベクトルを追加する。直撃を狙って放たれた弾を髪の毛数本分の猶予で流し、近くに迫っていた妖精たちをしっかりと撃墜しながらてゐへの追撃として4-Way弾を放ちながら数発の水晶弾を追加する。
 だが、気付けば目の前にてゐが放った兎弾があった。一抱えほどはありそうな大きさの反射弾。前もって適当に置かれていたらしいそれはまともに喰らえば痛いどころの話ではないだろうが、しかし、気付くのが遅かった。今更回避運動に移っても遅い。それどころか、下手に回避すれば腕か足が兎弾に激突し、飛行のバランスを崩してあさっての方向へと飛ばされてしまうだろう。
 そうなれば、まず間違いないくてゐを見失ってしまう。残念なことに鈴仙にそんな気は無く、よって彼女が取る手段は一つしかなかった。
 鈴仙はぎゅ、と目をつぶる。歯を食いしばって痛みに備え――がつん、と景気のいい音がした。

「嘘!? 鈴仙、大丈夫なの!?」
「だ――大丈夫じゃないわよ! 痛い、物凄く痛いんだからっ!」

 赤くなった鼻の頭を擦り、ついでに目の端に涙を浮かべながら鈴仙は叫ぶ。頭の中でぐわんぐわんと音が鳴り響いていた。またたんこぶが出来てたらどうしよう、と思いながら近くに寄ってきていた幽霊を叩き落し、スカートのポケットに手を突っ込む。
 その動作が見えたのか、てゐは自分の廻りにじゃれ付いてくる妖精たちを撃ちながら慌てて声を上げた。

「お、落ち着いて鈴仙、スペルカードは洒落にならないから!」
「そう思うならいますぐ永遠亭に戻りなさい! いまなら許してあげるわ!」

 ポケットの中の符を握りながら鈴仙は叫ぶ。勿論、その間に牽制の弾幕を放つことも忘れない。
 軽やかに、と言うよりかはちょこまかと弾を避けていたてゐは、しかし悲鳴にも似た声を上げる。

「嘘、嘘だよ鈴仙だってそんなに怒ってるじゃない! 許してくれるなんて嘘でしょ!?」
「本当よ! 許すから止まりなさい!」
「と、止まったらどうせ怒るくせにぃっ!」

 ああ、もういいや、と鈴仙は思った。てゐの言うとおり、さすがにスペルカードはやりすぎかとも思ったが、どうにもてゐが止まる気配を見せないので仕方ない。
 言っても聞かないのなら、実力行使。そういう分かりやすい論理は、存外、彼女の趣味に適っている。
 鈴仙はポケットの中で握り締めていたスペルカードを取り出した。すれ違いざまに妖精に踵落しを叩き込み、頬を掠めた3-Way弾に冷や汗を流しながら、スペルの宣言を開始する。

「栄枯盛衰――」
「うわ鈴仙が本気だ! 酷い、鬼っ!」

 てゐがなにやらわめくが――もういい。
 容赦なんて、するものか。

「散符 "栄華之――」
「や、やっぱり嘘吐きだよ鈴仙は! そんな風にして――」

 それは、きっと、気のせいだけど。
 肩越しにこちらを伺っていたてゐの顔が、にこり、と笑みを刻んだ気がした。
 その口が、言葉の続きを紡ぐ。

「――遠い仲間を裏切ったの?」
「――――ッ!?」

 突然の言葉に、鈴仙は思わず息を飲む。瞬間的に無意識下で思考が停止。しかし身体に下されていた動作は止まらない。
 力を込められ、後は展開されるのを待つだけだったスペルカードは、正規の使用者の呼応を受け強い光を放ち、そこで止まった。弾幕に指向性を与える最後の命令が下されず、カードに仕組まれたロジックはその存在意義を以って命令を不正と判断。掲げられたカードはその端から分解されるかのように宙に解ける。溜められていた力は確かに発動した。導火線に着いた火は止まらない。たとえその先に結ばれた爆弾が、使用者の手に握られたままだとしても。
 発動した力は、しかし弾幕という器を与えられる前に霧散した。霧散し、渦巻き、出口を求めて暴れまわる。それは豪雨の後の鉄砲水に似ていた。ただ違うのは、その向かう先。流れるべき方向、上流から下流へと向かうことしか出来ない鉄砲水と違い、出口を求める力の濁流はやがて唯一の出口を探り当てる。そしてすべての力は開かれた唯一の回路に――引き金となるべき力を注いだ、鈴仙へと流れ込む。
 手を放していたのは、たぶん身体に染み付いた危機回避本能。幻想郷に訪れて間もなかった頃に、自分のスペルカードを持とうとして何度となくしでかした失敗に本能が適応したが故の反応だ。
 爆発が起こった。炎は無く、熱もなく、音もない――ただ力だけが放射状に広がる。近くに居た妖精が、幽霊が、反応することも出来ずに巻き込まれ地面へと堕ち、或いは消滅する。
 鈴仙が意識を取り戻したのは、飛行の力を失い地面へと落下を始めた直後だった。身体に掛かる重力の力。全身が気だるい。指先という至近距離で破裂した力の影響か、意識も何処か曖昧だ。脳震盪の直後に似ている。いや、まさにそれだろう。

「ダメだよ、スペルカード展開中に気を取られちゃ!」

 してやったり、と言わんばかりの響きで声が聞こえた。声の聞こえた方向に顔を向ければ、そこにはこちらを振り返りながら遠ざかる白い兎の背姿がある。他にも二十を超えようかという数の小さな生き物、生き物ですらない何かたち。
 視界を埋め尽くすのは茂りに茂った竹と笹の葉の世界。否、翠の世界に白い幾つもの花が咲いている。竹の花。六十年に一度の花。

 あの時と、同じ花。

 何故だろう。頭が痛い。意識が曖昧だ。ぐわんぐわんと脳髄の中で何かが鳴り響く。
 ぐわんぐわん。ぐわんぐわん。ぐわんぐわん。

「私がスペルカードの手本を見せてあげるよ鈴仙!」

 声が聞こえた。兎の妖怪が放った声だ。兎はその手に一枚のカードを握り、それをこちらに向けて翳している。
 鈴仙? ああ、そうだレイセン。それが私の名前。レイセン。レイセン。誉れ高き月の戦士。
 ぐわんぐわん。ぐわんぐわん。ぐわんくわん。くわんくわぁん――

 ――かぁん、かぁん。

 これらは何だ? レイセンは疑問に思う。竹林の陰から次から次へと姿を現し、じゃれ付くように弾を放ってくる無数の妖精。まるで何かに誘われるかのように纏わり着いてくる思念の残滓。まあいい、と疑問を捨てる。どうせ事実は唯一つ。
 レイセンは体勢を立て直した。地面すれすれまで落ちて来ていた自分の身体を無理矢理上空へと打ち戻す。急速な加重に網膜が痛み鼓膜が悲鳴を上げるが、そんな事態は瑣末事。腕があり、足があり、耳があり、武器があり、敵が居る。ならば戦闘続行に障害など在る道理が無い。

「狡兎三窟――兎符! "因幡の素兎"!!」

 得意げに叫ばれた言葉と共に、兎妖怪が手にしたカードが分解されるように宙へと解ける。その代わりに生み出されたのは幾つもの赤い鞠のような弾と、それを覆うかのように展開された扇状の弾幕だ。それらは、おそらくは兎の妖怪の意図通り、こちらの進行を妨げるように射出される。
 その流れに乗るようにして、気のせいか、妖精たちの数がまた増えたような気がした。思念の残滓もまた然り。引き合う性質でも在るのか、それらは互いが互いを求めるかのように群れとなり弾幕に混じりながらこちらへと向かってくる。

 かぁん、かぁん。

 ああ、とレイセンは息を吐く。これだ。この感覚だ。これぞ私の存在意義だ。理由は知らぬ、由縁も知らぬ。何故こんな所に居るのかも、何故あの兎の妖怪が私に牙を向くのかも知れぬ。だがそんなことに興味は無い。敵だ。敵だ。敵だ。敵が居る。こんなにも敵が居る。ならば他に何が要る。ならば他に何が在る! ああなんと甘美かこの気配。此処を除いて私の居場所が何処に在る!
 レイセンはその口端に小さな、しかし鋭い笑みを浮かべて腰に手を回した。そこに在るのは慣れた重み。自分自身の代理存在とでも言うべき得物。己の価値の代弁者。目前を、視界を迫る妖精たちで埋め尽くしながら、その口からは笑みが消えない。柄に掛けた手に僅か力を込めて流せば、紗乱、と音を立ててそれは引き抜かれた。

 ひょう、と大気が悲鳴を上げる。

「――え?」

 呆然とした呟きは、前を行く兎が発したもの。
 呑気な話だ、とレイセンは思う。
 ひょう、と空気が今一度震える。手には連続して小さな感触が伝わった。
 群がる妖精、それらのうちの四つの首を一息で切り落とし――先のと加え、これで中に舞った首の数は計七つ。

「――鈴仙。何、それ」

 レイセンは答えない。戦場で敵の問いかけに答えるほど、彼女は酔狂ではない。
 ひょん、ひょん、と空気が立て続けに波長の短い音を立てる。そのたびに小さな妖精の小さな首が空に舞う。その数は合わせて十一、十三、十七、二十三。レイセンがそれを振るうたび、妖精の頭が胴体と永久の別れを強要される。力を失った首無しの胴体はその切り口から紅い血を玩具のように吹き上げて、ぼとりぼとりと地面に堕つ。
 更に何度と無くそれが振るわれ、舞った首の数が九十七を数えたあと、ようやくレイセンは止めていた呼吸を再開した。

 ――何だ。弱いにも、程がある。

 くくく、と笑いが洩れるのをレイセンは抑えない。気付けば周囲に居た妖精も、思念の欠片も悉くがその姿を消していた。ようやく自らが襲おうとしている者の正体を知ったか、それとも――気付かぬうちに全てを切り捨てていたか。
 ああ、そちらかもしれないな、とレイセンは思う。ひょ、と手の内のそれを振るえば、久方ぶりに首を刈る感触無しにただ空気だけを切り裂く。刀身に付着していたあまたの血を慣性でふるい落とし、衰えぬ切れ味にまた僅か笑みが浮かんだ。
 顔に張り付く前髪を掻き揚げれば、べとり、と生暖かい何かが手の平一面にこびりつく。粘性を帯びた紅の体液。髪に、顔に、服に身体に余すと来なくこびりついた、妖精たちの返り血だ。懐かしい、とレイセンは心躍らせる。熱を帯び、しかし次第に冷え行くそれら。鼻腔を震わす鉄のにおい。これぞ我が報酬、これぞ我が誉れ。敵兵の怨嗟の証こそ、この身の存在証明に他ならない。

「鈴仙――」

 掠れた声で、白兎が彼女の名を呼んだ。
 レイセンはそちらに顔を向ける。

「何なの、それ」

 いま一度問い、兎が視線で示したものは、レイセンがその手に握った一振りの片手剣。
 レイセンは答えず、だが自らのそれに視線を落とし、僅か一瞬、感慨に耽った。回顧した。刀身の長さが三尺ばかりあるそれは、僅かに反りを帯びた片刃の剣。材質は金属ではなく、どちらかと言えば象牙のような質感を持っている。平たく、厚みがあり、その重さでもって敵の首を刈り落とすことに特化した殺戮剣。首狩り兎の部隊に配布されるそれは、敵兵にとって恐怖の象徴であり、また、自軍の同胞にとっても、首を刈ることで死を撒き散らすそれは嫌悪と妬みの象徴でしかなかった。戦士として行き着いたが故に配属され、よって妬まれた先鋭部隊、首狩り兎。その一員である証のそれは、その銘を、首狩り舞踏という。
 片手で扱うにはやや重く、しかし、だからこそその身にその名を体現する力を秘めた命を刈るための道具。

 ――あの者たちは、元気でやっているだろうか。

 ふと、そんないつかの光景が意識をよぎった。月の荒野での戦い。孤立した戦線。取り残された私たち。転がる同胞の身体。息の荒い同僚の背中。手に掛かる剣の重み。周辺一帯を多い尽くす敵の亡骸と、ごろごろと転がる頭部。足を踏み出せば何かを蹴飛ばしそうなほど乱雑に、隙間なく転がる熱を失った生き物たち。それをも埋め尽くさんと迫る敵、敵、敵。終わらない戦い。弾薬はとうに尽きた。守るべき部隊も失った。支援など端から無かった。残ったのは、最高の死の誘い手として直衛を任された自分たちと首を撥ねることしか能がない無骨な刃。敵は尽きない。奮戦した。尽力した。しかし元からの戦力比は覆らなかった。後方から補充されるはずだった工兵たちは何も出来ずに死んでいった。護るべき者たちだった。身体には多くの傷を負っていた。無事な個所など何処にも無かった。

 だが、それでもまだ、戦えた。

 身体は動く。目は見える。耳は聞こえる。ならば戦えぬ道理など無い。残った敵の数がどれほどかは知れぬ。知らぬ。興味など無い。敵は敵だ。その数が百であろうと二百であろうと千であろうと関係ない。敵を狩れ。首を刈れ。他にどんな道がある。この身は死を誘いし闇の舞踏。狂気と終焉の彼方からその足音を響かせる首駆り兎。首を刈れ。首を刈れ。首を刈れ。他にどんな価値がある。敵を殺せ。その首を刈れ。血の池を作り上げろ。身体中を赤に染め、湖に踊る水精の如く赤の池に舞い踊れ。
 懐かしい――と、レイセンは思う。胸の高鳴りを。意識に浮かび上がったその記憶を。鼻腔を擽る鉄のにおいを。身体を覆う赤の被膜を。これぞあの時の続き。あの戦場の延長だ。結局、刈り取った首は幾つだったのだろう。千か二千かそれとも万か。覚えているのは、最後まで立ち続け生き残ったが自分だけと言うその事実――

 ……まあ、どうでもいいことではある。所詮は過去の出来事だ。
 レイセンは自らの回想に見切りをつけて、改めて白兎の妖怪へと視線を向ける。紅さが拭えぬ視界の中、見つめられた――否、見られただけで、白兎は哀れなほどに身体を震わせた。情けない、とレイセンは思う。戦場に立つ戦士がそんなことでどうするのか。別に殺気を放ったわけでも威圧をした訳でもない。あの妖怪は、ただ見られただけで、ただ視界に入れられただけで、己の身の危険を感じ取ったのだ。尤も、そうであるならば、その点だけは認めるべきなのかもしれない。
 なぜなら、おそらく彼女が抱いたその予感は、その危機は、圧倒的に正しいのだから。

「れい、せん?」

 血の気が引いた顔を無理矢理に笑みに歪め、妖怪はレイセンの名を口にする。不思議だ。何故あの妖怪が私の名前を知っている? 疑問に思うが、しかしレイセンは己の動作を止めない。ゆったりとした動作で剣を構える。身体から無駄な力が抜け、表情が自然と微笑みを形取り、呼吸を止め、そして。

 レイセンは目前の敵に向かい、一直線に飛翔した。

「――ッ!?」

 びくり、と身体を震わせた妖怪は、しかし思いのほか速い動作で反撃に移る。我武者羅に振られた腕から放たれたのはそれぞれがばらばらの軌道を描いて飛ぶ乱軌弾。一発一発はたいしたことが無いだろうが、高速で迫るこちらには少々厄介な弾幕である。牽制にはもってこいだ。どうやらあの妖怪兎、それほど頭は悪くないらしい。
 レイセンは己の中で妖怪に対する評価を修正し、同時に、自分の身体の負傷に気付く。妖精たちの首を刈るのに夢中になって気付かなかったが、身体の節々に鈍い痛みがあった。思い返せば、妖精たちと共に迫っていた弾幕を少しも回避した覚えが無い。その事実にレイセンは自らを侮蔑。弾幕を回避しなかったことに、では無い。弾幕に気付かなかったことに対して、だ。戦闘行動中に負った傷に気付かないなど、呆けているにも程があろう。
 白兎との距離が一気に詰まる。それと並行し、目前には密の個所しかない弾幕が広がっていた。このまま進めば被弾は避けられない。故にレイセンは僅か思考する。自分の負傷度合い、弾幕の密度、予想される被害、回避運動の利点と欠点。一瞬にも満たぬ黙考のあと、レイセンが出した答えは、

 突撃、だった。

「――うそ」

 信じられぬ、と言外に孕む白兎の声を聞きながら、しかしレイセンは躊躇わずに弾幕の海へとその身を躍らせた。幾つもの弾が身体の至る所に命中する。右足、左腕、左こめかみ、額、右脇腹、右胸、左肩。七箇所の被弾を容認。鈍い衝撃と痛みが神経を伝わるが、レイセンは意識的にそれらの信号を遮断する。被弾個所は多いが致命傷には程遠い。ならば意識を裂く必要も、そも避ける必要とてありはしない。
 この身の存在理由はただ一つ。ただ敵の首を刈ることのみ。目的達成が叶うなら、生存すらも問題外。
 レイセンは更に距離を詰める。信じられぬ、と呆然としていた妖怪はその瞳に理性の色を再び灯し、すぐさま離脱に移る。その潔さに、再びレイセンは標的の評価を上方修正。勝てぬ相手に素直に背を向ける潔さは、戦士としてなんら間違いではない。
 ただ、及第点をつけるとするならば。
 その反応そのものが、あまりに遅すぎたと言う事実。
 妖怪が離脱しきるより遥か早く、レイセンは妖怪の背後に辿り着いた。必死で逃げようとする背中を眺め、躊躇うことなく構えた舞踏を水平に振るう。望んだ軌跡はきっかりと妖怪の首を切り撥ねる筈。だがそれを予想していたか、妖怪はレイセンが舞踏を振るうのとほぼ同時にその軌道を変え、ほぼ水平に地面へと堕ちて行った。振るいきった刃が名残惜しげに後ろ髪のいくらかを切り飛ばし、切られた髪が僅か風に舞う。
 しかし、妖怪はそんなものに気を裂かない。おそらくは悟っているのだろう。余計なもの、逃げ切るために必要なもの以外に少しでも意識を向けたなら、その瞬間に自分の首が胴体と別れを告げているだろうその結末を。
 地面すれすれへと降下した妖怪は、地面に激突する寸前にその向きを変える。否、地面を蹴り飛ばして無理矢理にその方向を変えていた。竹林を奥へ奥へと逃げ込もうとするその背中を追い、すぐさま自らも落下を開始しながら、レイセンは素直にその妖怪のことを評価する。白い兎が化けたその姿。小柄であるが故かは知れぬがすばしっこく、逃げるための思考は一級品だ。こちらを迎え撃つ気配を見せぬが残念ではあるが、狩ることそのものにも多少は苦労しそうな相手である。
 だがそれも、あとどれだけもつものか――追撃に邪魔な竹を片端から切り捨て、それでいて速度を落とさぬままにレイセンは胸の内で小さく呟く。なるほど、確かに逃げる兎を仕留めるのは難しい。だがそれが兎であるのなら、逃亡者であるのなら、いつかは追いつくことが出来るだろう。それが違い。ただ逃げるものと、相手を殺す戦士の違い。牙を得た兎と、ただ逃げ足を求めただけの兎の違いだ。
 事実、レイセンは彼我の距離を少しずつ、しかし着実に縮めていた。それを気配で察しているのか、妖怪の背からは焦る気配が次第に色濃く感じられるようになっている。ざざざ、ざざざ、と次々に倒れる竹の音もその不安に拍車をかけているのだろう。鬱蒼と茂った葉を揺らし、ぽつりぽつりと咲いた白の花を撒き散らしながら次々に倒れ行く竹の数々。いったいどれだけの竹の木が地面に横たわったのだろうか。いちいち数えてなど居ないが、少なくとも二十は越えただろう。
 そうして、それだけの数を切り倒し――ようやく、レイセンは敵の背後に再び迫った。手を伸ばせばつかめそうなほどの近距離。相手の息遣いさえも聞こえてしまいそうな位置。レイセンは白兎の必死な、泣くような喘ぎを聞きながら剣を構えた。

「さようなら」

 柄にもなく弔いの言葉を口にして、しかし殊更何か気負うことも無く。
 レイセンは、いつもの通り剣を振るった。



 どうして、とてゐは思う。
 どうして、こんなことになってしまったんだろう。
 必死で前へ、牽制の弾幕を張る余裕すら無く、てゐはひたすら前へ前へと進む。直線上にある竹の幹を最小限の動きで回避して、持てる力の全てを速度へと転化して逃げ進む。しかしどれだけ先に進んでも、どれほど速度を上げても、背中に鈴仙の気配をひしひしと感じざるを得なかった。
 すぐそこに、振り返ればきっと目の前にその顔が見えるだろう。本人は凛と気取っているのかも知れないが実際はどこか間が抜けていて、いつも永琳の無理難題に涙目になっている、面倒見のいいお姉さん。鈴仙・優曇華院・イナバ。口では馬鹿にすることも多いし、いや、実際内心でもそうたいした奴とは思っていないけれど、それでもあの広い屋敷の中で、一番自分に構ってくれる大事な家族。
 その鈴仙が、見たことも無い無表情で、不釣合いも甚だしい大きな剣を手に背後に迫っている。
 勿論――この身の、因幡てゐの首を刈ろうとするために。
 どこで何を間違えたんだろう、とてゐは思う。勝手に永遠亭を抜け出したからか、それともこんなに花が咲き誇っているからか。いいや、そうに決まっている。でなければ、そうでないのだとしたら、どうして鈴仙があんなわけの分からない剣を持って、あれほど手馴れた風に妖精たちの首を切り落としたりするのだろうか。
 妖精たちの返り血で全身を真っ赤に染め上げた鈴仙。綺麗な銀髪も、真新しかった白の服も、綺麗だった肌も、全身余す所無く赤に塗れた月の兎。いつもの少し頼りないお姉さんといった雰囲気はそこには無く、侍らせていたのは、ただただ単調に首を刈るだけの絡組人形じみた気配だけ。

 ただ、その瞳だけがいつにも増して赤かった。

 ざ、ざざ、ざざざ、と耳に幾つもの音が届く。それは竹が切り倒される音。切り倒され、幾百幾千と茂らせた葉を震わせながらに叫ぶ断末魔。その声が一つ、また一つと響くたび、背中に感じる鈴仙の気配が強くなる。動物的な勘をがんがんと打ち鳴らす警鐘が強くなる。逃げろ、逃げろ、逃げろ逃げろ逃げ延びろ。速度を落とすな、意識を緩めるな、気を抜けばあの気配はすぐにでも忍び寄り、いとも簡単に、まるで畑の人参を抜いて収穫するかのごとく、

 因幡てゐを、殺すだろう。

「――ッ!」
 嫌だ、とてゐは思う。嫌だ。そんなのは嫌だ! 自分が死ぬことが、ではない。自分の首が切り跳ばされ、あたりに血を撒き散らしながら胴体を別々にされることが、ではない。そんなこと、鈴仙が――他でもない彼女が、鈴仙・優曇華院・イナバが私を殺すという事実に比べれば、そんな結末は瑣末事に過ぎる。
 じわり、と世界が僅か滲んだ。しかしてゐは速度を緩めない。留まり溢れ、やがて流れた涙を流れるままに任せ、一心不乱に先へと進む。停滞は許されない。追いつかれてはいけない。鈴仙に、その凶器を振るわせてはいけない。

 鈴仙に、私なんかを殺したという罪を背負わせてはいけない。

 だから、てゐは必死に逃げる。弾幕を張ることすら忘れ、ただただ前へ、前へと進む。
 その意識を占めるのは、たった三つの小さな言葉。

 ――どうして。
 ――嫌だ。

 そして、

 ……ごめんなさい。

 そう、本当はとっくに分かっている。鈴仙があんな風になってしまった原因。それはこの異変のせいでもなく、自分が勝手に永遠亭を抜け出したことでもなく、ただ一言。

 私の不用意な一言が、鈴仙を決定的に壊してしまった。

 鈴仙が遠い仲間を裏切った。実はと言えば、てゐはその話の真偽を知らない。てゐがそれを知っているのは、永遠亭に数多く住み着く野生の半妖怪の兎たちの一羽が偶然小耳というそれを、別の一羽から又聞きしたからだ。元の話を立ち聞きしてしまった一羽に問いただせば、それはいつかの晩、輝夜と永琳が話していた昔語りのその一幕だったらしい。何十年も昔の話。まだてゐが永遠亭に訪れるより前の事実。
 だから、聞いた話を信じるのなら。
 彼女、鈴仙・優曇華院・イナバは遠い昔、同胞を裏切って幻想郷へとやって来たらしい。
 それはそう、丁度この日のように、翠の竹林にぽつりぽつりと白い花が咲いた日の――

「さようなら」

 短い、別れの言葉が耳に届いた。



 くん、と首に上向きの力を感じ、ああ、切られたな、と他人事のように思考した。
 思わず、反射的に目をつぶる。不思議と痛みはない。それが幸いなのか、それともそもそもの段階で不幸なのか、てゐにはよく分からなかった。ただ、もう逃げる必要がないと悟り身体の力を抜いてしまう。その滑稽さに、てゐは小さく笑った。最早首と胴体は繋がっていないのに、身体の力を抜くとはどういう意味だろう。ああ、はて、切り飛ばされたこの首が、最後に見遣る光景はなんなのか。
 安らかな気持ちでそう思い、てゐはゆっくりと瞳を開いた。ぼやけた世界。涙で溢れた視界。首を切られても目は見えるのか。そんな発見を心地よく思いながら、てゐは小さく息を吸い、

 ――息を、吸い?

 え、とてゐは疑問に思う。息を吸った。息を吸えた。その行為には無論息をするための胴体が必要不可欠で、それならば。
 思考が理解に追いつくより早く、ふわ、と柔らかい何かの感触が伝わった。含み笑うかのような表情でこちらの顔を覗き込んでくる誰か。その誰かに、身体を抱かれている。全ての苦悩を、全ての悪行を、全ての後悔を、全ての罪を一束に纏め上げ、それでいてそれを優しく抱きしめてくれるような誰かに。
 その正体を誰何するより先に――てゐはようやく、自分が生きていることに気がついた。息は荒い。呼吸も雑だ。無理をして飛び続けたせいだろう、意識は何処かぼやけているし喉の奥が焼けるように痛い。でも、それだけ。首は繋がっているし、怪我らしい怪我の一つもない。
 無傷、だった。
 どうして、と思うのとほぼ同時。
 身体を抱きとめた誰かが、ふふ、と笑う。

「小さな可愛い詐欺師さん。どうやらあなたの力は本物のようね。これは偶然ですけれど、私たちが間に合ったのは事実なのですから」
「いきなり私を誘拐しておきながら、よくそんな口が利けたわね」

 聞こえたのは別の者の声。呆れたような、疲れたような、それでいて世間話をするかのような愚痴似の声音。
 てゐは誰かに抱きかかえられたまま顔をそちらに向ける。目の前。輪郭がぼやけた世界の中に、こちらに背を向けて立つもう一人の誰かの背中があった。
 くすくす、と頭の上で誰かが笑う。

「いえいえ、それが幸いなのよ霊夢。この子兎はその能力で持って遠く離れたあなたを幸いにした。だから私はあなたを此処に連れて来たの」
「誰が、いつ、どうやって幸せになったのよ」
「ほら、妖怪助けしてるじゃない。幸せでしょ?」
「言ってなさい、勝手に。でも、いきなりその隙間に人を連れ込むのは止めて欲しいわね。いくらなんでも心臓に悪いわ」
「うふふ。さすがは博麗の巫女。私の隙間に入っておきながら、平然としている時点で凡そ普通からかけ離れていることを知りなさい?」
「はいはい。……それで、てゐ」

 肩越しにこちらに顔を向け、彼女、博麗霊夢は面倒くさそうに問うて来た。

「事の次第を説明してくれると嬉しいんだけど?」



 幻想郷の外れに位置する博麗神社。そこの巫女である博麗霊夢。強大な力を持つ妖怪が数多く息衝くこの土地で、そんな大妖怪相手に平然と空を飛ぶ紅白の人間。
 その霊夢が、いまこちらに背を向けて立っていた。右手に見えるのは簡素な玉串。反対の手には数枚の御札が握られており、彼女の向こう側には大きさの違う正方形を二枚重ね合わせたかのような膜が見える。各々の頂点には霊夢が手に持つ札と同じものが貼り付けられて、否、空間に固定されており、その結界の基点となっていた。結界。二重結界。博麗を名を冠するが故か、それとも霊夢であるが故かは知れぬが、彼女が扱うことを許された断絶の技。
 そして――おそらくは何者もの通過を許さぬ断絶のその向こう側で、結界に向け淀みなく剣を振るい続ける鈴仙の姿があった。返り血に塗れた装いのまま、一心不乱に、他の存在など目に映らぬといった風にただひたすらにその剣を振るわしている。一太刀、また一太刀。衰えぬ剣閃。決して軽くはないだろうその刃が矢の如く振るわれるたび、霊夢の張った結界が僅かに震え、光を放つ。二重に張られた結界は破られない。しかし、だからと言って鈴仙の太刀は緩まない。一心、ただ一心に全てを断たんと刃を振るう。

「なるほど、ね」

 そんな鈴仙の行いを、もはや凶行と呼んでも差支えがないようなそれを、てゐから事情の説明を受けた霊夢は結界を挟んで醒めた目で見つめていた。結界が太刀を弾くたび、鈍器と鈍器をぶつけ合わせたような不快な音が低く響くが、窺える彼女の横顔は顔色一つ変わらず、表情一つ崩れない。
 ただ、彼女は呆れたようにその目を細め肩を竦める。

「つまり、壊れたんだ」
「あらあら、駄目よ霊夢。そんなにはっきりと口にしては。いくら理性が残っていないからと言っても、さすがに失礼よ?」

 てゐの身体を抱きかかえたまま、中空に開いた隙間に腰掛ける紫は小さく笑った。
 東雲に似た色合いの服に身を包んだ妖怪は、てゐの身体を胸の前で抱きかかえたまま、自らが開いた隙間に腰を下ろして事の成り行きを傍観して、否、楽しんでいる。
 紫の、とてもそうとは思えぬ窘めに霊夢は、けれど、と言葉を返す。

「事実でしょう? そうでなければ説明がつかないわよ、これ」
「まあ、確かにそうねぇ。物事に打ち込むのは良いことだけど、方向性を誤るとただの愚行だといういい見本だわ。このまま標本にしておいた方が後世のためだと思うんだけど、どうかしら?」
「知らないわよ。勝手にしたら?」

 興味が無い、といった風に霊夢は返す。
 紫はふふふ、と小さな笑い声と共に表情を崩し、艶やかに己の頬に手を当てた。迷いの欠片すら見せず、口を開く。

「そうね。勝手にさせてもらいましょうか」
「だ――駄目! そんなこと、絶対に駄目!」

 会話の運びに、てゐは思わず声を上げていた。紫の腕の中から跳び出でて、あらあら、と困った風に呟く紫に怒鳴り散らす。

「鈴仙に酷いことをしたら、絶対に駄目。そんなことをしたら、私、貴方たちを絶対に許さないから!」
「あら、私嫌われちゃいました? くすん」

 何処からか取り出した扇を手にしながら、紫はわざとらしく目頭を拭う。
 その動作に、徹頭徹尾演技が掛かった嘘だらけのその振る舞いに、てゐは知らず知らずのうちに奥歯を噛み締めていた。真剣さなど欠片も見せず、傍観の気配だけを纏わせた隙間妖怪。おそらくは――いや、てゐは理屈抜きにそれを確信している。幻想郷中を探し回っても、この妖怪を上回る力を持った存在など居ないだろう。それが故の怠惰。その事実に拠って立つがため、常に傍観者であり続けなければならない存在。
 そんな存在にとって――私たちは、何だというのだ。
 紫の、興味と享楽以外の何物も含まぬ視線を物怖じせずに迎え撃ち、てゐは今にも逃げ出しそうな、鈴仙ではなく、目の前のこの不可解な大妖怪から逃げ出してしまいそうな身体を必死に押さえつけ、あらん限りの勇気を搾り声を上げる。

「どうして、貴方たちがここに居るの?」
「棘々した言い方ねぇ。理由はどうであれ、助けられたんだからそれでいいじゃない」

 欠伸を噛み殺すかのように告げる紫に、しかしてゐは頷かない。
 ううん、と首を振って否定を返す。肩越しに背後を――こちらのやり取りに興味すら示さない博麗の巫女と、その向こう側の愚直なまでの鈴仙を見遣り、うん、と覚悟を決める。

「……よくなんて、ない。もし、もしも貴方が鈴仙を討伐するためにやってきた、って言うのなら、」

 理由は知らない。原因なんて関係ない。鈴仙がこの首を刈ろうと望んでいることがどうしようもない、醒めてもいまだその中に居る悪い夢のようにかき消せない現実なのだとしても、自分が、私が因幡てゐであるのなら、

「鈴仙は、討たせない」

 たとえその反逆が、検討の必要すら必要ない愚行なのだとしても。

「私が、鈴仙を守ってみせる」

 家族を護るため、この命。
 喜んで、捧げよう。
 てゐの誓いを耳にして、紫は僅か一瞬表情を消した。目が細められ、鋭い――否、透明な、如何な障壁も意味を成さずに全てを見透かすような、色の無い、防ぎようもない視線をこちらに向けてくる。
 その視線に、その瞳に。
 ぞくり、と背筋が震えた。自分がどんな相手に喧嘩を売っているのか、意識ではなく身体が先に理解した。
 喉が詰まる。呼吸が止まる。血管を流れる血流が、その全てを逆転させられてしまったかのような感覚。動けない。知っている、とてゐは思う。逃げろ、という命令を出すことすら出来ない意識のままで、しかし何処か冷静と自分を観察する別の自分を感じる。逃げろ、無理だ、逃げろ、無理だ、何故だ、だってどうせ、

 ――逃げられない。

 それは、遠い昔の記憶。まだ野に住み、毎日きままに地上を駆け跳んでいた頃の記憶。茂みから姿を見せる狐に、青空に陰を落とす鷹に、疎密無く命の終わりを見たあの日々。刈られる側だった日々。意識ではなく、本能で危険を避けねば生きていることすら出来なかった過去のお話。
 それを、思い出す。意識の底に封じていた記憶。化生と成ったとき、最早二度と思い出すことは無いとたかを括ったそれら。
 どうして、忘れていたのだろう。

「……ふふふ。兎の癖に、大きく出たわね」

 かつて、自分が――ただただ、狩られることに脅える存在であったのだと。

「でも、まあ」

 細めた瞳をそのままに、紫は淡々と呟いた。
 その手が、ゆっくりと伸ばされる。
 てゐは動こうとして、動けないままの自分を思い出した。否、動けないどころの話ではない。目を逸らすことさえ許されず、視界を覆おうとするその手を振り払うことだって出来ない。
 そうして、紫の差し出した手の平が視界一杯に広がり、

「よくできました、と言っておきましょうか」

 苦笑するような声音が聞こえ。
 くしゃり、と頭を撫でられた。

「……え?」
「お聞きなさいな、可愛い可愛い子兎さん。私は別に、あの子をどうしようと言う気はないわ」

 降ってくる言葉は、事実として慈しみに満ちている。
 呆然と顔を上げれば、そこに紫の微笑みがあった。幼子を落ち着かせるような、それでいて何処か苦笑を孕む、幻想郷の全てを受け止め愛するような、そんな抱擁の念に満ちた微笑み。

「ただ私は、違えたものを正すだけ。解れた理を繕うだけですわ。貴方の大事な家族には瑕一つつけませんから、ご安心なさいな」
「ほ、本当……?」
「ええ、本当よ。例えば、」

 言って、紫が僅か目を細めた瞬間、それまで絶え間無く、愚直という言葉でさえも適切であるかのように延々と鳴り響いていた音が不意に途絶えた。
 え、とてゐは声を洩らす。途絶えた音。鳴り続けていた音。それは例えば金属製の鎚同士をぶつけ合うような、そんな鈍い重低音。

「紫!」

 霊夢の厳しい声が響く。が、紫は浮かべた微笑みを崩さない。
 てゐは肩越しに背後を振り返った。見えたのは紅白が印象的な霊夢の巫女服。一撃を繰り出し、次の一撃の呼び動作に移っている鈴仙。霊夢の張った、鈴仙の接近を決定的に疎外していた二重の結界。
 先ほどまで飽くなく繰り返されていた光景。終わりの無かった筈の情勢。
 ただ一つの例外を上げるとするのなら、それは。
 鈴仙が、結界のこちら側に踏み込んでいるという事実だろう。
 鈴仙は小さな、しかし確かな重みを孕んだ踏み込みを響かせながら更に一歩を踏み込み、躊躇わずにその手の剣を水平に振るう。ひょ、と空気が妙な音で鳴き、刃が目標の、当面の障害と判断したか、それとも刃の届く圏内に居たからかは知れぬが、霊夢の首へと滑る。もはや何度その重たそうな得物を振るったのか知れぬというのに、鈴仙のその動作には疲労の欠片も窺えはしなかった。
 触れれば確実に首を切り落とす一撃が巫女の首を捕らえたかと思えた瞬間、霊夢は上体を反らすかのようにしてその一閃を回避した。無念そうに過ぎ去る刃。しかし霊夢は刃の行く末に興味を見せず、回避動作の勢いをそのまま利用して背中から地面へと倒れこむ。
 接地の瞬間、紅白の巫女は両の腕で身体を支え、落下の衝撃を腕を折り曲げることで吸収した。逆に、そのばねを解き放ち下から上へと、矢の様な勢いで蹴りを放つ。直線の軌道を描くそれの先に居たのは、剣を振るったばかりの鈴仙。霊夢の蹴りは、真っ直ぐにその腹部へと吸い込まれ、その寸前、鈴仙の手にした剣の柄に阻まれる。
 あら凄い、と何処か場違いな紫の感嘆が耳に届いた。
 霊夢は蹴りの反動で身を起こす。一方、蹴りを防いだ鈴仙は、その勢いだけは消しきれなかったのか、大きく後ろに下がっていた。無表情のまま剣を握り直し構えを取るその姿には、瑕は無論のこと、疲労という不可避のものさえ遠くに置き忘れた、ある種の潔癖ささえ読み取ることが出来た。
 しかし、鈴仙の紅い視線を迎える霊夢の表情は曇っている。原因は問うまでもなく明白。霊夢の右の首筋が浅く切れ、そこから沸き水のように血が流れているのだ。首を反らすのが刹那遅かったのだろう。幸いにも致命的な一撃は避けられたようだが――その瑕は、それに近いものであるだろう。
 止血は急務だと思われる。だが、勿論、鈴仙はそんな時間を与えてはくれる筈が無い。
 事実、鈴仙は霊夢の出血を認めたか、再び彼我の距離を詰めようとして――動かなかった。

「……まったく」

 呆れたように、霊夢が呟く。視線を緩め、包帯代わりだろう、手早く巫女服の袖を破り首に巻きつけた。溢れた血が白の布を赤く染めるが、どうにか過分の出血は抑えられたらしい。霊夢はこちらへ、否、てゐの背後の紫へと顔を向ける。

「紫。変なことしないで頂戴」
「あら、私何かしたかしら?」
「よく言うわね。私の張った結界、切られたんじゃなくて勝手に隙間が開いてしまったんだけど?」
「あらあら、それはご愁傷様。けれど、事態を掴めていない子兎さんには簡単な解説が必要でしょう? ――ほら、御覧なさいな、子兎さん」

 申し訳なさの欠片も見当たらぬ声で紫は語る。背後からてゐの頬に手を添わせ、てゐの顔を逃げることを許さずに二人へと向けさせた。

「これが、幻想郷の正しい形。お分かりかしら? 妖怪は人間を狩り、人間は妖怪を討つものよ。絶対的な勝者が存在しない循環の理。それが幻想郷を幻想郷足らしめている根本的な決まりごとの一つ」

 完全に身体から緊張を抜いた霊夢の向こう側で、鈴仙は剣を構えたまま、しかし動かない。
 そのことにてゐは疑問を抱き、すぐに解答へと辿り着いた。鈴仙の足元に、何本かの光の線が走っている。先ほど霊夢が張っていた二重結界と酷似していながら、明らかにより高度な多重の結界が、鈴仙の足を捕らえ動きを停止させていたらしい。
 小さな声で笑いながら、耳元で紫が言葉を紡ぐ。

「いいかしら、子兎さん? 私は別に、あの子が壊れたままどれだけ人間の首を撥ねようと、また、それを恐れた人間に極度の消耗戦を仕掛けられた末に追い詰められ討伐されたとしても、特に興味がございませんの。勝手になさればよろしいわ。けれど、けれどね子兎さん、妖怪と妖怪が本気で戦ってはいけないの。お互いが楽しむための弾幕ごっこや、その類なら構わないけれど、本気での潰しあいは決して許されない。それは幻想郷の理に反することだから。だから私は、それを止めるためにわざわざ顔を見せたのよ」
「本当に口が達者ね、紫。もういいから、さっさと片付けちゃいなさいよ。これ以上茶番に付き合せないで」
「もう、せっかちねぇ。珍しく真面目なこと言ってるんだから、大人しく聞くのが筋でしょうに。けれど――ええ、そうね。どうせ言う必要も無く誰もが知っている事柄ですもの。意識化に置いているのは、それこそごく一部でしょうけれど」

 くすくすくす、と喉を震わせて紫は笑う。
 す、とてゐの頬に添えられていた手が鈴仙へと伸ばされ、

「お目覚めなさい、罪から目を逸らしたお兎さん。貴方がどのように壊れようと興味はありませんけれど、壊れるのなら幻想郷の中で見つけた縁で壊れなさい。外から持ち込んだ理由で壊れられては、迷惑ですわ」

 あくまで笑みは崩さずに。柔らかく、全てを受け入れるかのように。
 純然たる事実として慈愛に満ち溢れる声音で紫はそう言い、ぱちん、と小さく指を鳴らした。

 音も無く、鈴仙の足元に展開されていた四重の結界が砕け散った。鈴仙はそれを受け、いま一度踏み込むためだろう、僅かに身体を沈め、その直後。

「――ぇ?」

 鈴仙の口から、小さな疑問の声が洩れた。
 てゐは鈴仙の変化に気付く。妖精たちの返り血で染まりきった衣類、髪、顔。緩い反りを持つ重たそうな剣。紅い、沈み行くように何処までも赤く紅い狂気の瞳。それらはなんら変わりない。外見的に窺える多くの特徴は、なんら変化を受けていない。
 だから、変わったのは本当に小さな幾つかの事柄。
 例えばそれは、その顔に浮かんだその表情。強張ったような、涙を堪えているような、夢を見ているような、呆けているような、そんな、様々な種類の感情が織り交ぜられたかのような表情。
 そして、その赤い瞳の中に確かに輝く見慣れた光。理性という名の、弱々しい、しかし確かに灯った小さな光。

「ほら、これで元通り。小兎さん、あなたの大事な家族は正気に戻りましたわ」

 ふわり、と背中に寄りかかっていた紫の感触が離れる。
 小さな笑いを絶やさぬ紫は、ですけれど、と小さく前打った。

「残念ですわ。私、あの兎さんの理性と狂気の境界を弄ってしまいましたから――もう、先ほどみたいに狂うことで壊れることを免れよう、だなんて甘い精神防衛は出来ませんの」

 その言葉の意味を、てゐが理解するのとほぼ同時。

「――てゐ?」

 呆然とこちらを見ていた鈴仙が小さな声で名を呼んで、直後、

「う――あ――――ッ!?」

 喉から搾り出したかのような、苦しげな声を残し。
 鈴仙・優曇華院・イナバはあっという間に身を翻し、竹林の向こうへと姿を消した。

「あ、鈴仙!」

 てゐは鈴仙の名を呼んで後を追いかけようとし、その瞬間、くい、と首根っこを後ろから掴み上げられる。

「お待ちなさいな、小兎さん」
「な――何するのよ!」
「いえいえ、特に何をするというでもありませんわ。ですが、心苦しいながらも忠告しておきますのが義務かと思いますの」

 そんなものを聞いている場合ではない。そう思いてゐは紫の手を逃れようと暴れるが、存外紫の手は容赦なく、決してこちらを逃がしてはくれなかった。
 否、そもそもの話として。
 続いて耳に届いた紫の言葉が、この身から、逃れようという意思を根こそぎ奪い取ってしまった。

「よくお聞きなさいな、小兎さん。あの兎さんがこの場から逃げたのは、小兎さん、貴方が此処に居たからですわよ?」
「……え?」

 力無い声で、てゐは聞き返した。
 紫の言葉の全てを理解できない、否、理解したいと思えないが故に。

「私が、居たから?」
「ええ、そうですわ小兎さん。うふふ、思い出しても御覧なさいな。小兎さん、貴方の言った一言で、あの兎さんはああなってしまいましたのよ? そのままでは迷惑ですからそれは私がなんとかしましたけれど、私は別に、あの兎さんを癒したわけでも、その心に防護用の結界を張ったわけでもございませんわ。そして現実は、あの兎さんが壊れた時となんら変わっておりませんもの。もう一度壊れてしまえば楽なんでしょうけれど、私、面倒は嫌いですからそんなことは許して差し上げませんわ。そんなことを許せば、またこんなことをしなければなりませんもの。ですからそうならないように境界をちょっぴり弄ったのですけれど、だからこそ、あの兎さんは壊れることが出来なくなりました。だから逃げ出したのですね。現実から、いいえ、現実を突きつけた小兎さん、貴方から逃げ出すために。ですから、貴方がどれだけ兎さんを追いかけたところで、兎さんは逃げ出すだけですわ。小兎さん、貴方に兎さんを踏みとどまらせる何かが無い限り、ですけれど」

 流れるようにそう言って、紫はてゐを掴んでいた手を離した。短い距離を身体が落下する。しかしてゐは受身の一つ、着地の一つも出来ずに地面に落ちて座り込んだ。
 呆然と――紫の言葉を、理解することも出来ないままに背後を見遣り、仰ぐ。
 紫は、笑みを浮かべている。
 うふふ、という笑いが耳に届いた。

「可愛い可愛い小兎さん。貴方にそれがありますかしら?」








 幾つもの光景が走馬灯のように視界に映し出され、流れて行った。次々に浮かぶそれらはみないつか見た光景で、忘れたと、最早思い出すことも許されないだろうと思っていた記憶。荒野。戦場。咆哮。士官学校。駐屯地。友軍。同胞。死体。首狩り舞踏。脅えて背を見せる敵兵。背後から強襲を喰らい瓦解する部隊。取り残された自分たち。全滅する友軍。戦い続ける同僚。背を預けあった友軍。最後まで立っていた私。死んでいた戦友。全滅した敵兵。首を狩られ、ころりと転がった頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。

 ――その中に転がる、

 頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。

 ――戦友の、首。

「――――ッ!」

 どれだけ飛んでいたのだろう。不意に身体から力が抜け、鈴仙は肩口から無様に地面へと墜落する。ごろごろと地面を転がり、太い竹にぶつかって止まった。肩に鈍い痛みが走り、小さな音が聞こえた。その衝撃に、あ、と鈴仙は肺腑から息を洩らそうとして、それすら出来ずに涙を流した。どうやら呼吸すら忘れて飛行していたらしい。肺の中に空気は残っておらず、吐き出す空気なんて一欠けらも存在しなかったのだ。
 だから、鈴仙は息を吸う。反射的に、生理的に。彼女が、それを無意識のうちの拒んでいたのだと彼女自身が気付くよりも早く。
 その結果として空気と一緒に吸い込んだのは、身体にこびりついた血のにおい。濃い、最早それ自身が粘性を帯びているかのように濃密なそれ。まるで蛇のように容赦なく鼻腔を蹂躙し、喉の奥に、肺腑の先端にまでべったりと血液を塗りたくっているかのようだ。
 あ、と鈴仙は息を吐いた。目の奥が痛む。眼球を裏側から千の針で突き刺されているかのような痛み。浮かんだ涙はすぐに溢れ、頬を伝って地面に落ちる。それを拭おうと目を擦れば、じわり、と目の周りの血が視界に滲んだ。
 赤い世界。自分にとっては慣れ親しんだ世界。戦場。敵。味方。転がった敵の首。転がった戦友の首。どうして、と私を見上げるうつろな瞳。

「ぁ――ぁぁ――」

 喉から洩れる音は言葉にすらならない。鈴仙は地面に倒れたまま、自分でも何を求めているのかも分からずに手を伸ばすが、右の手に力を入れた瞬間ずきりと鈍い痛みが脳髄を貫いた。知っている痛み。味わったことのある痛み。
 骨折。
 鈴仙は思う。判然としない意識のままに。何処が折れた。鎖骨? 先ほどの衝突が原因か。動かない。変わりに左の手を伸ばす。掴んだのは地面に生える名も知らぬ草。これは違う。こんなものは探していない。手を離して周囲を探る。何処だ。見つけ出せ。早く見つけ出せ。敵に見つかる前に。殺される前に、

 こつん、と手に何かが当たった。

 あ、と息を飲み、鈴仙はそれを掴む。馴染んだ感触。忘れかけていた感触。驚くほど手に馴染む。手元に引き寄せ、それを支えに身体を起こす。足がふらつく。身体が満足に動かない。だがそれでも倒れるわけにはいかない。剣を取れ、足を止めるな、敵を探せ、戦え、戦って戦って敵の首を刈れ、その為に生き続けろ、そうでなければみんなに向ける顔が、

「――違う!」

 喉の奥から嗚咽と共に声を絞り出し、鈴仙は左手に掴んだそれを、僅かに反りを持つ厚身の剣、首狩り舞踏を投げ捨てた。
 見た目以上の重さを持つそれが地面に突き刺さるのを視界の端に捕らえながら、鈴仙はその場に膝を着く。喉の奥から嗚咽がこみ上げる。

「違う、違う、違う違う違う――!」

 まるで壊れた玩具みたい。意識の片隅で何処か冷静に自らをそう分析しながら、鈴仙はただただ違うと叫ぶ。その紅い瞳からぼろぼろと涙を流し、全てを拒絶するかのように頭を振りながら、洩れる嗚咽を防ぐことさえ忘れて、ただただ否定の言葉を口にする。

「私は――私はレイセンなんかじゃない、鈴仙だ。鈴仙・優曇華院・イナバなんだ! 師匠の弟子で、姫の従者で、永遠亭の住人で、だから、」

 あの光景が、嘘であって欲しいのに。

 どうして覚えているのだろう。何故忘れることが出来なかったのだろう。振り払っても振り払っても脳裏に浮かぶその光景。目蓋に映し出されるその記憶。嫌だ。見たくない。思い出したくない! どうしてそんな目で私を見るの。どうして忘れさせてくれないの!!
 記憶の中で、こちらを見上げる胡乱な瞳が次々に問う。

 何故逃げた。
 何故見捨てた。
 何故戦わなかった。
 何故救わなかった。

 鈴仙は自分の身体を抱きしめる。力強く、全てを束縛するように。そうしなければ、きっと無様に震えだす自分が居ると分かっていたが為に。
 ああそうだ、と鈴仙は思う。私は逃げた。味方を見捨てた。決定的な負け戦だったんだ。敵の数は多くて、補給はとっくに途絶えていた。部隊は孤立していて、守るべき友軍はとっくの昔に全滅していた。残っていたのは五名足らずの戦友。同じ首狩り兎の部隊の戦士たち。押し寄せる敵。奮戦した私たち。どれだけ敵の首を刈ったかなんて覚えていない。ただ結果として自分は最後までその場に立っており、足元には沢山の死体と沢山の首が転がっていた。それだけの話。
 ただ、付け加えることがあるというのなら。
 幾百と転がる首の中に、見知った戦友のそれらが混ざっていたのだという事実。

 故に、レイセンは戦場を逃げ出した。確信なんて無かった。それでも、その恐怖を拭い去ることなんて出来なかった。
 戦っている間は、舞っている間は無意識に近いのだ。ただ敵を確認し、袖で撫でるかのようにその首を撥ねる。教えられたのはただそれだけ。ただそれだけの動作を、ひたすらに、そう、それこそ無意識のうちに継続できるほどまでに訓練されていた。
 だから、本当にそれを自分がやったのか、と問われればそれは定かではないだろう。答えなんて、きっと誰も知らず何処にも無い。生き残ったのは自分だけで、誰もそれを見てなど居なかったのだから。
 しかし、それ故に。
 自分が戦友を殺したのではないか、という思いがいつまでも拭えなかった。

「だから――、もう、」

 戦場を離れ、いまだ戦い続ける友軍を見捨て、自分だけ安寧を求めて、ひたすらに逃げて逃げて逃げ続けた。何処をどう逃げたのかなんて覚えていない。どれだけ逃げ続けたのかなんて興味も無い。ただ結末として自分は永遠亭に辿り着き、あの二人と出会った。

 永遠と須臾の罪人、蓬莱山輝夜。
 月の頭脳、八意永琳。

 共に月に生まれ、穢れた地上で暮らすことを選んだ二人の月民。
 弱り果て、説明らしい説明も出来ず、行き倒れと大差なった自分を笑顔で受け入れてくれた二人。その根本に据えられた動機が暇潰しだとか、単なる好奇心だったとしても特に何も思わない。それがどれほど不純な動機であったとしても、疲れ果て涙さえ枯れ果てた自分を受け入れ、家族として扱ってくれた二人には感謝以外の念を抱けない。
 レイセン。それは昔の名前。月兎の戦士だった自分の記憶。自ら逃げたもの。投げ捨てたもの。
 鈴仙・優曇華院・イナバ。それはいまの名前。響きは同じでも、否、同じだからこそ意義を違えた新たな名前。

 ――生きていくと、誓ったんだ。

 この場所で。この穢れた地上で。遠い故郷を空に仰ぎ、最早届かないと諦めて。それでも笑って生きるため、その名前を受け入れた。
 だから。

「もう、許してよぉ……!」

 解放して欲しいと、心から願う。
 何度苦しんだか。何度泣いたか。何度諦めたか。こんな生活は、こんな幸せは自分には相応しくないと、何度全てを投げ捨てかけたか。
 ああ、覚えている。枕を涙で濡らしたあの夜。記憶の中の戦友に責められ詰られ罵倒され、許しの懇願と共に目を覚ましたあの晩。発作的に全てを償おうと、後を追おうと自分の首を落としかけけたあの日。刃を喉に当て、いま行く、と呟いた瞬間に姿を見せた姫と師匠。自ら命を絶たんとした私に、笑顔で、しかし突き放すように告げられたその言葉。

 そうやって、罪から逃げるの?

 分からない。のうのうと生きることは許されず、しかし責を負い自刃することが逃避なのだろうか。訊いても師匠は答えてくれない。涙ながら尋ねても姫はただ微笑むだけだ。何度問い、何度はぐらかされただろう。答える気が無いのは明白だった。
 答えは何処に在る。答えは本当に在る?
 どうすれば赦される。私は本当に赦される?

 分からない。

 答えは遠く、救いは果敢無く。手を伸ばして何が掴めるのだろう? 伸ばした手は、果たして何を掴むのだろう?

「いいえ。その手は何処にも届きません」

 不意に、声が聞こえた。

「何故なら、それが罰だから」

 鈴仙は弾かれたように顔を上げる。上。竹の葉に姿を隠すかのように、高みからこちらを見下ろす誰かの姿がある。
 緑の髪を靡かせて、青の衣に身を包んだ一人の女性。澄んだ瞳は全ての隠し事を問答無用で見通すようで、全てを知っているかのようだった。
 女性は口を開く。憐憫に満ち溢れたその瞳の色を隠さぬままに。
 そして、何処までも、果てしなく酷薄な笑みをその口に湛えて。

「私の名前は四季映姫。罪人よ、自らのそれを直視なさい」





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