罪の花 / 後編






 いつから其処に居たのだろう。
 四季映姫。そう名乗った彼女は鈴仙の頭上遠くに姿を置き、その顔に笑みを浮かべてこちらを見下ろしている。慈愛も、抱擁も、許諾も何も無い、形だけの笑み。もし笑みという顔の形の要素だけを抽出して纏ったならば、きっとこんな表情になるのだろう。
 両の腕を腰の後ろに廻した格好のまま、彼女は静かに問うて来た。

「鈴仙・優曇華院・イナバ。あなたは、自分がどれほどの罪を犯しているか、ちゃんと把握できていますか?」

 淡々とした物言いに、しかし鈴仙は答えない。地面に伏せ、身体を赤く汚し、感情すら喪ってしまったかのような顔で映姫を見上げるだけだ。
 そんな鈴仙に、しかし映姫は満足したのか、小さく頷いて言葉を続ける。

「仲間を裏切った罪。仲間を見捨てた罪。勿論その前提として、たとえ敵とは言えども数多くの命を狩り落とした罪――」

 歌うように、或いは確かめるように映姫は罪を並べる。一つ一つ、罪の名とその内容を挙げていく。終わらない。止まらない。論えられたそれらは、いつまでも続く意固地な連歌のように延々と織られ、定義されていく。その様子はまるで何処かにそれらを、過去にしでかして来た罪全てが収められた棚があるかのようで、酷くあっけないのもだった。
 だが、罪が終わらない、という事態は、それこそがありえない。なぜなら罪を孕むのは過去で、過去はその前提として有限で、現在という名の終着点が必ず存在していなければならないからだ。故に、どれほど途方も無い数の罪が犯されていたのだとしても、それらの告発は必ず終わる。終わらなければならない。
 なぜなら、告発が終わったその時こそが。

「――以上、概算で三千二百跳んで三の大罪。そして、数えることすら馬鹿々々しい諸々の小罪。よろしい?」

 罪が、裁かれる時なのだから。

 鈴仙は映姫の姿を仰いだまま、は、と小さく苦笑した。三千以上に及ぶ罪。それを自覚しているかだって? 冗談じゃない。覚えていた、否、忘れることが出来ていなかった罪は、精々三つ。逃げたこと。見捨てたこと。それらを忘れようとしたこと。それらが罪だと言うのなら、喜んで頷こう。私を罰し、私を償わせ、それによって罪が許されるというのなら、望んで生き皮さえも剥がれよう。
 だが、三千。どうすればそれほどの罪を贖える? いや、それ以前に、どうしてそんなにも罪が膨れ上がらなければならない? 黙って聞いていれば、映姫の挙げる罪はほとんど言いがかりにすら近いものばかりだった気がする。勿論、見逃すことの出来ない、見逃してはならないそれらが含まれていたことは事実だけれど、だからと言って罪と呼ぶに値しないはずのものが多く罪と成されていたのも事実。ひょっとしたら、それは彼女の基準にしてみれば十分すぎる罪なのかもしれないけれど――まあ、いいだろう。
 なんにせよ。これで、と鈴仙は思うのだ。
 やっと報われるのだ、と。
 報いを受けることが出来るのだ、と。
 ようやく――罪から解放されるのだ、と。

 思えば、いつからそれを願い続けていたのだろう。戦場を逃げ出したあの日からなのか。永遠亭に辿り着いた時からなのか。てゐと出会い、永遠亭の兎たちを任されるようになった後なのか。それとも、今日。てゐの一言で、忘れていた、忘れられると勘違いしていたそれらを、思い出した瞬間からなのか。
 罪は、償われなければならない。鈴仙は、真実、そう思う。そこに理由が欲しいとは思わない。思えない。なぜなら罪は罪であり、罪なのだから。償われない罪に救いは無く、贖われない罪はいつか膨れ上がりこの身を潰すだろう。

 例えばそれは、我を失った今日のように。

 その原因を作ったてゐを、知らず知らずのうちに揺らいでいた自分を決定的に後押ししたあの可愛い家族を、鈴仙は恨まない。恨むような理由が無い。誰かはてゐが傷口を抉ったと言うだろう。またある者はてゐが面白半分に傷口に触れたと言うだろう。だが、鈴仙はてゐを恨まない。てゐに怒りを向ける論拠が無い。なぜなら彼女の台詞は全部事実で、間違っていたのは、それから目をそらしていた自分なのだから。
 鈴仙は目を閉じる。両手を腕の前で組み合わせ、静かに、心からの安寧で、懺悔する。

「はい。それがきっと、私の罪です」

 呟いた瞬間、ふと、胸が軽くなった。それは重りがとれたようで、同時に、何かがするりと抜け落ちてしまったかのようでもあった。
 ああ、と鈴仙は虚ろになった胸の中で呟く。これが、救われる、ということなのか。

「――そうですか。認めるのですね。感心した心がけです」

 答えるように降って来た言葉には、今度こそ慈愛に満ちていた。酷く、滑稽なほどに母性に満ちた言葉。しかしその内容は断罪に等しく、響きは弾劾にすら似ていた。罪の告発。認知。その確認。よって裁判はこれにて終了。残るは罰へと等価された罪の執行。鈴仙は僅かに頭を下げる。いつか見た敵前逃亡兵が、見せしめにその首を刈られたように。
 ……贖いは、ここに。犯してきた全ての罪が、この首を代価に贖われるというのなら、それは安いものだと思う。ああ、それは不謹慎だと鈴仙は自身を苦笑。自分の罪が、決して安いはずが無い。ならば、この首にはそれだけの価値があるという意味だろう。
 思い残すことはと言えば、唯一つ。
 てゐに、謝ることが出来なかったということ。
 可愛い白兎。幸運をもたらす無邪気な詐欺師。大事な家族。それを、あんな怖い目に――真実の恐怖を与えておきながら、それを謝れなかったということが、唯一の心残りだ。
 だがそれも、私が罰せられれば終わるだろう。
 鈴仙はそう思い、ただただ静かにその時を待つ。冷たい刃がこの首を切り落としてくれる瞬間。断たれた首がぽとりと落ちて、生命活動を完全に停止するまでの僅かな時間を心から願う。渇望、という言葉すら生ぬるい。罪を償える瞬間。背負った全ての業を投げ捨てられる瞬間。ああ、そのなんと甘美なことか。叶うなら自らそれを実行していただろう。だがそれでは贖いにならない。だってそれは逃避だから。自ら命を断つことは、決して罰でも贖いでもなく、ただ罪を認めることが出来ない逃避だと、師匠にそう教えられていたからこそ――こうして。他者の手による罰を、自分は羨望していたのだろう。
 まあ、なんにせよ。
 これで終わりだ、と鈴仙は思う。ありがとうございました、と誰かに感謝して、ごめんなさい、と誰かに謝った。

 そうして、それは振り下ろされる。

「――なにをしているのですか?」

 きょとん、とした。
 何をしているのか分からない、と言外に孕んだ。
 そんなことはしませんよ、と嘲笑うかのような、問いかけが。




 え、と鈴仙は声を上げていた。
 顔を上げる。組んでいた手を解いて、上手く働かない頭を精一杯に使い尽くし、どうにか疑問の言葉を紡ぐ。

「罰して頂けるんじゃ――ないんですか?」

 答えは、酷く簡素。

「罰しませんよ。私は告発者ですから。それに、彼岸に渡っていない者の罪を勝手に罰するというのは、たとえ私が適任者であったとしても少々業務超過というものでしょう」

 そう言って、彼女、四季映姫はくすくすと笑う。
 いいですか、と指を立てて呟かれた言葉は、まるで幼子を諭すかのような柔らかさに満ちていた。

「私が求めるのは、罪を認めること、そして悔い改めること、それだけです。貴方はいまそれを行いましたから、私からはもうこれ以上、とりわけ行うことはありません」
「う――嘘。だって、あなたは、」
「ええ、地獄の閻魔様です。死人の嘘を見抜き、罪を問い、それを認めさせることが私のお仕事です」

 ですが、と映姫は微笑む。

「私のお仕事はそれだけなのですよ。嘘を見抜き、罪に罰を宛がい、両者を等号で結びつける、ただそれだけです。下された罰を執行するのは、私の役目ではありません」
「――」

 そんな、と呟きかけた言葉は結局音にならず、口の中で解け消えた。
 その代わり、なのだろうか。
 ……あはは、と。
 自分の耳にすら他人のそれであるかのように、乾いた笑いが小さく届いた。
 なんて、酷い話。ぼろぼろと溢れる涙を拭うことすら思いつかず、鈴仙は胸の内で自嘲した。こんなにも。こんなにも淡々と、簡単に、呆気なく、当たり前であるかのように罪を並べ立て晒し示してくれたくせに――そこで終わりだと、映姫は言う。並べた罪を認めるのなら、それ以上問うことは無いと自らの職務の終わりを告げる。罪を突きつけること。己の闇を見せ付けることが、どれほど心の安寧をかき乱すのか、判っていない筈が無いのに――ただ罪を認めさせることだけを責務とし、そのあとに関与しないと言う。
 それは、弄ばれているのとどう違うのか。戯れに視姦するのと、どう違うと言い繕うのか。

「……それに。どうやら、なにか勘違いしているようですけれど」

 不意に、声。こちらを見下ろす映姫の姿。先ほどからなんら変わらぬ光景。立場。見下ろす者。見下ろされる自分。
 ただ、その声に。その表情に。
 僅か、憐れみが混じっているようだった。

「貴方は、罰を受けることで罪が償われると思っているのですか?」
「……え?」

 今度こそ。
 鈴仙は、心の底から、理解できない、と声を上げていた。

「それは、どういう――どういうこと、ですか」

 凍結しかかる思考を必死で廻し、辛うじて、短い問いを発する。
 そんな鈴仙に、映姫はにこりと微笑んだ。

「簡単なことですよ、よく考えても御覧なさい――罪とは、過去そのものなのですよ? それを償う、つまり埋め合わせをして無かったことにするということは、自らの過去を否定するのと同じではないですか。いいですか? どうにも、酷く分不相応な望みを抱いているようですからはっきりと言いますが、罪は決して無くならないのですよ? たとえ罰を受けたとしても、罪を犯されたものが貴方を許したとしても、罪を犯したという事実、その過去は決して消え去りはしないのです。罪に対する救済には、なりえないのです。生きている間に背負い続けた罪はその魂が輪廻するとき、初めて分解されるのですよ。尤も、分解されたからと言って消える訳ではありませんが。貴方達は、いいえ、生きるもの、存在するもの全ては、いつか来る終わりまで延々と罪を背負い続けるのです。それが業。六つの世界をどれほど廻ろうと、決して消えぬ存在の記憶。勿論、この身とて例外ではありませんけれど」

 淡々と、しかし緩やかな抑揚を着け、まるで幼子に訓告をする母親であるかのように映姫は語る。その瞳には真実慈しみの光が灯り、その声には惜しみない抱擁の響きが孕まれている。
 その事実に、鈴仙は混乱を覚えずには居られない。嘘だ、と否定しようとする意思が、映姫の瞳の輝きを察して鳴りを潜める。捌け口を失った意思は内部へと返り吹き、感情のこと如くを揺り動かす。それは怒り。不条理な物言いに対する怒り。それは悲しみ。消えぬ罪を知ったが故の悲しみ。それは楽観。罪が消えぬと悟ったが故の己に対する楽観。泥に塗れた終わりの許諾。
 それは渇望。あらゆる感情全てに無視をされ、しかし孤独のままにすすり泣く偽りの無い己の本心。
 映姫は瞳を細める。立ち尽くし、表情を喪い、それでも救いへの羨望を消しきれぬ鈴仙の瞳を見下ろし、そんなにも、と苦々そうに呟く。

「貴方は、救いを求めるのですか」
「――」

 鈴仙は答えず、否、答えることすら出来ず。
 ただ、こくり、と頷いた。
 ……救われたい、と鈴仙は思う。願う。罰が必要だと言うのなら、それでいい。償うためにその首を落とせと言われたら、喜んでこの首切り落とそう。死が恐ろしいとは思わない。彼女はずっとそれを纏い踊ってきたのだから、今更それを恐怖しろと言うのが無理な話だ。
 だが、許されない、という状況はとても耐えられない。どれほどの罰を受け、どれほどの贖いを行い、どれほどの業火に焼かれたとしても、その罪が決して消えないということは受け入れられない。
 信じられない。
 信じたくない。
 信じられる、筈が無い。
 何故ですか、と映姫は問う。瞳を細め、隠し事の全てを、嘘の全てを見抜く視線をこちらに向けながら、地獄の閻魔はそう問うた。

「何故そんなにも、罪を恐れるのですか。確かに、貴方はあまりに罪深い。ですが、罪深いことそれ自体は罪ではないのですよ? 貴方がどれほど罪を犯そうと、いいえ、だからこそ地獄の裁きは平等です。罪の多さは裁きとは無関係です。何を、何を貴方はそんなにも恐れ脅えているのですか?」

 鈴仙は弱々しく首を振る。
 ただ、と紡いだ言葉は、自分のものとは思えないほどに脆弱で、滑稽。

「許せないだけだと、思います」

 それは、嘘偽りの無い本心。

「私を、私自身が許せない。ただ、それだけです」
「……なるほど。自分で自分を裁けない、自分は自分ですら裁くことに値しないという強迫観念が、その恐怖の根幹ですか。」

 納得したかのように呟く映姫。
 ですが、と彼女は続ける。

「腑に落ちませんね。確かに貴方は罪深いですが――それほど思いつめるような罪は、見当たりませんよ?」
「そうですか?」

 自嘲の口の端に被せ、鈴仙は虚ろな声で問い返した。

「裏切りは、厳罰すら生ぬるい大罪ではありませんか?」

 映姫はきょとんとした顔を見せる。

「裏切り? 貴方が犯し続けている一番の大罪は、背任ですよ?」
「……え?」

 鈴仙は、思わず疑問の声を上げていた。
 一番の罪が、背任? 裏切りならば分かる。見捨てたことだと言われても納得しよう。だがそれは、背任という罪は、まったくの予想外だった。
 困惑する鈴仙に、映姫は変わらぬ調子で続けた。

「そう、背任です。尤も、裏切り、と言うのなら、それは確かに裏切りかもしれませんけれど」

 映姫は目を細める。既に見慣れてしまったその眼差し。
 それは、罪を告げる彼女の責任の表れなのだろうか。

「鈴仙・優曇華院・イナバ。貴方はずっと、そう、貴方が彼女たちの事を欺いている。彼女たちに比べれば、自分はまだ救われるとそう思っている」
「――」

 最早、呼吸すら出来ず。
 鈴仙は、ただただ、その言葉を耳にした。
 映姫は、告げる。

「それが、貴方の犯している救い難い大罪です」



 不意に、思い出す。それは地上に逃げ延びて来た頃の記憶。行く当ても無く、そもそも居場所なんて無かった自分が、満足な睡眠も取らずに七日七晩ほど竹林を彷徨った頃のお話。身体の限界はとっくに超過していて、意識は張り詰めた緊張と追っ手への恐怖がかろうじて保たせていた、そんな果ての小話。
 何処までも続く何故か終わらぬ竹林を、月を背後にただひたすら逃げ続けていた。出来るだけ遠くへ行こうと思って月を離れたが、いまにして思えばそれは失敗だっただろう。月を離れ、穢れた未開の地上に降りて、確かに此処は追っ手の手も届きそうに無い辺境だけど――けれど忘れるな、月は常に其処にある。どれだけ逃げても、どれほど離れても、確かに近づいて来たりはしないけれど、けれど決して遠ざかることは無く何時までも何時までも、そう、夜が来る度に全てを見下ろす高みへとその姿を見せるのだ。
 ならば、何時か自分は捕まるだろう。このまま終わりの無い逃避を続け、その先に何があるとも分からない。どうせこの身に心休まる場所など既に無いのだ。共に死線を潜り抜け、敵に囲まれながらもなお安堵を覚えた微笑を交わす仲間はもう居ない。
 私は、一人だ。レイセンはそう思う。
 仲間を捨てた。故郷を捨てた。捨て子であった自分を拾い、育ててくれた両親ですら捨て置いた。私が舞台を逃げたと知ったとき、厳格だが心優しかった父は怒るだろうか。私が首狩り兎に配属された時に涙した母は、また泣いているのだろうか。ああ、でも、それで済むならそれでいい。いまでは最早祈ることしか出来ないけれど、私の裏切りは私だけを罰することで終わらせて欲しい。ああ、どうかお願いです。あの二人を責めないであげてください。お前の子が、という言葉であの二人の優しさを傷つけないであげて下さい。裏切ったのは私です。罪を問うなら私に問うて下さい。どうか。どうか。
 ――罰ならば。私がいくらでも受けますから。
 そう思った瞬間、不意に身体の力が抜けた。追いつかれること、追いつかれ罪を裁かれることを、それもまた良しと心の何処かで受け入れたからだろうか。重力の鎖が身体を捉える。もとよりそれほどの高度をもって飛んでいた訳ではない。あっという間に地面が近づいて、受身さえ取れず地面に転がった。
 ごろごろと転がり、仰向けに止まる。は、と口から吐息が漏れた。身体の節々が痛く、指先には感覚が無い。口の中はからからで、視界は夜だということを差し引いても暗く、霞んでいた。
 終わりが近いな、ということは理由無く察することが出来た。
 ああ、と彼女は胡乱な意識で思考する。それもいいじゃないか。月から遠く離れた辺境の土地で、貴き月を見上げながら命を閉ざす。それは酷く甘美な、惨めったらしい終わりに見えた。それは、そう、まるで誂えたかのように自分にお似合いだ。

「――ですが、貴方は出会った」

 映姫の声を、鈴仙は遠く聞く。
 既に伽藍。意識も感情も理性も停止した心に、しかし閻魔の言葉はしっかりと響く。

「あの二人に。自分より遥かに罪に塗れていながら、自分より遥かに幸せそうなその二人に」

 それは、白い花が散る満月の夜。
 惨めで穏やかな終わりを迎えようとしていた自分の前に姿を見せた、二人の女性。
 ……白状するのなら。自分は、その二人を知っていた。
 なぜなら、二人の名は月世界でとても有名だったからだ。尤も、それらは決して良い意味ではない。寧ろ軽々しく口に出してはならぬ忌み名。禁忌を犯し、迎えに遣した同胞すら殺害したという重罪人とその介添人。
 そんな、教本と、他者の噂話の中でしか聞かぬ名を持つ二人がすぐ傍に居て、静かに微笑んでいたのだ。その笑みは酷く柔からで、穏やかで、悲壮も自責も罪科も何も感じさせぬ微笑で、
 だから。

「だから、思ったのですね」

 他者を裁く少女の言葉に容赦は無い。
 それは理性という防壁を通り抜け、しかし真実の誠実さで記憶の井戸の奥底の罪を引き上げる。

「自分は救われる、と。自分より遥かに重い罪を背負った二人が笑っていられるのなら、この程度の罪しか犯していない自分が救われない道理は無いと、そう思ったのですね」
「――」

 やめて、という言葉は形を作らない。それは否定で、拒絶で、だからこそ成立しない。
 だって、それは真実だから。あの二人に出会い、驚いたのは事実。そして同時に安堵を覚えたのも真実。そう、知らないはずは無い、思わないはずは無い、求めないはずは無い。あの二人は笑っていた。微笑んでいた。何も知らぬ童女の洋に幸せそうに寄り添い立っていた。最近屋敷の周りを飛び回っているのは貴方、と問いかけられたその言葉に含まれていたのは本物の安らぎ。いまでも耳に響いて止まぬこちらの緊張と警戒を解すようなあの声音。ああ、その場所に立つことをどれほど望んだだろう。その笑顔を浮かべられる境遇にどれほど憧れただろう。惨めに生き延び罪を知りながら逃げ延びて、罰を願いされどもなお生き行き続けようと願う心の浅ましさよ此処に極まれ、生き曝せ。罪を知り、罰に怯え、唯々逃避を企てながらも平穏を望み、決して、そう、最早決して手に入らぬと知りえたからこそその望み渇望と等しく心を掻き毟った。
 それは、いま思えば狂気だったのだろう。罪悪感と自悪感に裏打ちされた狂気。狂ってしまった方がきっと幸せだったから、全てを諦めてしまった方がきっと楽だったから。だからその狂気に身を落とし、生暖かい泥の中で安寧の終わりを迎えようとした我が身に差し出されたのは暖かな白い腕。
 愚かな、と映姫は吐き捨てる。そこに辛辣な響きは在れど侮蔑の響きは無い。少女は、あくまでその存在に忠実で在り続ける。

「罪は他者との間に垣根を作りません。他者と比べ自らの罪がどれほど軽くとも、その罪自体の重さは決して変動をしたりはしないのです」

 そんなことは、分かっている。
 けれど、それでもなお、憧れたのだ。
 罪に塗れ、罰に怯え、狂気にすら落ちながら全てを諦めて。
 仰いだ月は全てを見透かすように何処までも綺麗で、そこには決して戻れないと知れたから。
 だから、白い花が舞う夜に、笑みと共に差し出された手は信じられないほどに優しく、柔らかく、暖かで。
 映姫は小さく息を吐いた。その瞳が閉ざされ、開かれる。其処に見えたのは冷徹な光。全てを審判を下さねばならない者が、必ず持たなければならない絶対正義と言う名の必要悪の形。
 少女は告げる。
 これぞ絶対の真実と、その現実を言葉の響きに孕ませながら。

「鈴仙・優曇華院・イナバ。貴方が背負う最大の大罪は、自らの主に対する欺き、即ち、」

 その、白く綺麗な腕を取ったとき。
 顔を上げれば、其処に。

「背任、そして裏切り。貴方はこの罪を何時まで侵し続けると言うのですか」
「――いいえ、それは根本的に間違いです」

 不意に、声が聞こえた。何時かの様に穏やかで、何時ものように淀みの無い柔らかな声。
 映姫が顔を顰める。その表情に混じったのは真実の嫌悪。絶対中立、否、絶対傍観で在るが故に他者を裁く立場にあり、だからこそ他者に対し特別な何かを抱くと言うことが無い審判官たる彼女は、その声の主に明らかな嫌悪の色を向けていた。
 しかし、鈴仙はその事実に気付くことは無く、ただ反射的に。或いは昔日の何かを思い出す様にそちらに顔を向け、昔日のあの日の様に息を呑んだ。

「解せませんね。何が間違いだと言うのですか?」
「そうですね、ここは私共が譲歩させて頂いて、全て間違っている、と言うことでいかがかしら?」

 穏やかな声音でそう言って、彼女はくすくすと笑う。
 長い黒髪が風に流れ、僅かに膨らんだ。
 だって、と彼女は言う。肩を竦める様に傍らを見やり、其処に経つ銀髪の従者を一瞥する。
 彼女は気負いも何も無い、まるで今日の天気を告げるかのような自然さで。

「だって私たち――貴方の告げたイナバの本音など、当の昔に見抜いておりましたから」

 そんな言葉を、口にした。
 ……最初に覚えたのは、疑問。そして不信。嘘だ、という思い、願い。崩れて居た理性はその言葉を鎹に脆弱ながらも元の在り方を思い出す。月を仰いだ晩に始まる今の私の存在規定。ああ、まるであの晩の焼き増しであるみたい。だってほら、こんなにも白い花が待っていて、その花の中であの二人はあんなにも優雅に微笑んでいるのだから。
 鈴仙は口を動かす。何故だろう。言葉が上手く紡げない。何度も、何度もその言葉を口にしようとして出来なくて、何度と無く何を口にしようとしているのかすら忘れ掛け、その都度朽ちた縄橋を渡るようにその言葉を思い出し、まるで稚気の遊びのように何度無く崩れる積み木に手を伸ばし、そうして。
 そうして、彼女はその言葉を口にした。

「――姫、様」
「ええ。頑張っているようね、イナバ」

 にこり、と。
 穢れ知らぬ乙女の様に、彼女たちは微笑んだ。
 鈴仙は呆然と彼女らを見る。
 白い花が散る竹林。
 其処に並んで立つ二人の姿。
 まるで雪の様に果敢無く、音も無く白が散る世界の中。
 永遠と須臾の罪人、蓬莱山輝夜が。
 月の頭脳、八意永琳を携えて。
 何時かの様に、其処に居る。





 地面に座り込み膝を抱えていたてゐは、何時の間にか自分の鼻の頭に白い花片が乗っていたことに気が着いた。小さな花びらである。気付いた時には其処に在って、それまでは特にどうということも無かったのだけど、気付いてしまえば無性に気になるのが人情、言いや、化情というもので、妙にむず痒いものを覚えたてゐはどうしようかと少し考え、けれどその衝動は化生なれど抑えることは叶わず、
 くちゅん、と彼女は小さくくしゃみをした。
 あら、と声を上げたのは隙間に腰掛ける紫だ。少し離れた所でこちらを眺めていた隙間妖怪は、

「風邪かしら? 厄介ねぇ」

 と、なんとも戯けたことを言ってくれた。冗談も大概にして欲しい、とてゐは思う。風邪とは人間がかかる病で、確かに妖怪にもそれと似たような意味合いの病は存在するが、それは決して風邪とは呼ばない。第一、こんなにも花が咲き誇る――確かに色々と時期的に可笑しい種々も咲いてはいるが、それはともかく、こんなにも色鮮やかなこの季節に風邪を引くのは間抜けな人間たちの間でもよほどの馬鹿者か、或いは、

「……ああ」

 なるほど、とてゐは思い、顔を上げた。立ち上がる。服に着いた土を払い、ぶんぶんと頭を振るう。

「うん。風邪を引いたみたい。だから私はもう行くね」

 声を掛けた先に居たのは、一際太い竹に背を預け花の狂乱を愛でていた博麗霊夢。彼女は、ん、と頷くと、

「勝手にしなさいよ、誰も止めないから。第一考え込んでいたのは貴方でしょう」
「考え込ませるようなことを言ったのは誰よ」
「それはこっちのスキマ妖怪。私じゃないわ。けど、」

 博麗の巫女はその視線に僅かに鋭さを混ぜた。けれどそれは、その隣で愚者を演ずる妖怪が先ほど見せた絶対強者のようなそれではなく、ただ純粋に真実を問うような、そんな視線。

「けれど、コイツの台詞じゃないけれど――いまの貴方が行って、鈴仙に掛ける言葉があるの?」
「あるよ」

 当たり前のように。
 ごく自然に、何の躊躇いも無く、てゐは頷いた。
 ぽかん、とする霊夢。あらあら、と笑う紫に、てゐは頷いた。

「やっぱり駄目だね、人間は。さっき言ったじゃない。私、風邪をひいちゃったみたいなの。けほんけほん。うー、喉が痛い頭が痛い咳が出る人参食べたいなぁ。だからほら、病気と言えばお薬でしょ? 早く師匠に診て貰わなきゃ。あー、でもほら、師匠もあれで物臭だから。何でもかんでも人に押し付けて、自分は楽なトコだけちゃちゃちゃーっと持ってっちゃうんだよ? 酷いと思わない? でも師匠のお薬って効き目は確かなんだよね。だから、ほら、やっぱり」

 その人は、永琳の助手だから。

「鈴仙には――帰って来て欲しい。私と一緒に、師匠の無理難題を押し付けられてついでに私の仕事も押し付けられてえうーって泣きながら頑張って欲しい」

 だって、私は。

「鈴仙の家族で、私は鈴仙のことが好きだから。それじゃ、駄目?」

 てゐの問いかけに、二人は揃いも揃って苦笑のような微笑を浮かべた。
 勝手にしなさい、と霊夢が言って、ご自由に、と紫が言った。

「お好きになさいな、小さな小さな詐欺師さん。貴方の能力は人間を幸運にする程度の能力なのですから、そのおまけで、家族ぐらい幸せにしてみせなさいな」
「うん。勿論」

 頷いて、てゐは歩き出した。三歩目からそれは駆け足に代わり、都合十歩目でてゐは地を蹴って空へと飛んだ。白い花が散る竹林の中を、兎の化生は自らが壊した家族の下へと唯急ぐ。
 そうして遠ざかる子兎の背中を見送り――霊夢は、傍らの紫に声を掛けた。

「で、紫。私の出番はこれで終わり?」
「ええ。ご苦労様、霊夢。体よく使わして頂きましたわ」
「自分で言うのは止めなさい。けど、役目が終わったなら神社に帰してくれる?」
「あら、博麗霊夢の中では何時から妖怪を顎で使うようになったのかしら。嘆かわしいわ」
「顎で使うんじゃなくて足に使うの。いいからさっさと動きなさい。あー、疲れた。これはお茶の一杯でも飲ませてもらえないとぐれちゃいそうだわ、私。ああお饅頭が怖い最中が怖い」
「そう言えばしばらく前に流れてきたお菓子があったわね。それでいいかしら?」
「十分よ。あとは熱いお茶が欲しいわね」
「任せなさいな。けど藍に対する弁解はお願いね?」
「今度は何をやったのよ」
「何も。けれど何もしないからこそ鬼式神はちびちびと主を甚振るのです。仕事が無いのは平和な印って言うのに。酷いと思わない? ねえ、霊夢」
「知らないわよ。ほら、さっさと案内しなさい」
「うー、分かったわよぅ。霊夢も妖怪遣いが荒いわねぇ」

 ぶつくさと言いながら、紫は傍らの空間に扇を縦に滑らせる。その軌跡が歪み、世界が開けた。
 ほら、と紫は霊夢を促す。

「早く入りなさいな、博麗霊夢。貴方ならこの程度の狂気は蚊ほどに無意味でしょう?」
「さらっと酷いこと言うわね、貴方」

 呆れた顔で霊夢はその隙間に足を踏み入れようとして、しばし留まった。
 ん、と首をかしげる紫を無視して、背後を仰ぐ。何処までも続くかのような竹林。晴れ渡った青空。雪の様にはらはらと舞い散る竹の花。
 白い背中は、もう見えない。







 何を言われたのか、よく、分からなかった。
 理解しようとして、理解しなければならないと必死に思いつめて――けれど、理性はそれを理解することを禁止した。知れば壊れる、と、何かが静かにそう告げていた。

「それがどうかしましたか?」

 閻魔の少女はそう告げる。感情を消した冷徹な顔で、姿を見せた二人の罪人を前にそう問うた。
 いえいえ、と大罪人は口元を隠して忍び微笑む。

「罪の定義の問題ですわ、閻魔様。閻魔様はウドンゲの背任こそがその大罪だ、と申しましたけれど、私たちがウドンゲのその奥の歪みすら知りながら敢えて仕えさせていた、という事実が混ざりましたとき、果たしてその罪は――どのように様変わりをするのでしょうね?」

 音もなく、輝夜は一歩を歩み出た。更に一歩。軽さの無い、しかし淀みも無い一歩は気品という風を纏いながら続く。それに半歩遅れて続く永琳の歩みもまた然り。

「何も変わりなどしません」

 返す映姫の言葉は何処までも静かだ。彼女は彼女である限り、その立場を放棄しない。放棄できない。

「貴方たちの事情がどうであろうと、彼女が貴方たちを欺いていたということは事実。その罪は、事実の裏側模様で揺らいだりすることはありません」
「ええ、同感ですわ閻魔様。どんなに言葉を連ねても、どんな事情が隠されていたとしても――確かに、イナバが私たちをそのような思惑で捉えていたという事実は覆し難いでしょう。ですが閻魔様、いいえ四季映姫、これが結局のところ私たちの言い分なのですけれど、」

 二人は足を止める。目の前。地面に膝を着く鈴仙の目前に立った二人は、まるで彼女を映姫から守るかのように悠然と立ち尽くす。

「私たちの誰も、他者に押し付けられる罪などまっぴらごめんですわ――失礼、少々口が悪かったですわね」
「ウドンゲは私の弟子であり、且つ私共々姫に仕える従者にございます。なれば敢えて言いましょう。私たちを欺いていた、それがどうかしましたか? ウドンゲは私たち永遠亭の一員で、家族です。家族であるのなら――多少の歪みなど、知って暮らすのが当然で御座いましょう」

 家族。家族であるのなら。
 流麗に述べられた永琳の語句に、鈴仙は、あ、と声を上げた。そんな、という思いが胸をよぎる。そんな。そんな言葉は、不相応に過ぎる。そんな立場は相応しくない。そんな暖かな言葉は、罪に穢れたこの身には熱すぎて、触るだけで火傷をしてしまう。
 自分には罪人とか、逃亡者とか、裏切り者とか――そんな言葉が、お似合いだ。
 ……けれど。
 ……だからこそ。
 それを、心の底から望んだのではないか。

「――姫。師匠」

 ぼろぼろの顔で。ぼろぼろと涙を流しながら、鈴仙は二人を呼んだ。
 それは掠れる様な声だったが、しかし真実として二人の耳に届き、二人は振り返った。

「大儀だったわね、イナバ」
「……まったく。貴方がほっつき歩いてどうするの。しゃんとなさい」

 にこにこと笑う輝夜と、呆れ顔の永琳。
 見慣れたその顔を改めて目の当たりにして、鈴仙はふと胸の中に疼く何かを感じ、同時に湧き上がる罪悪感をそのまま言葉にしようとして、

「あら。駄目よウドンゲ」

 指を一本立てた永琳に、穏やかに制された。

「――なんで、ですか。師匠」
「だってそれは感情からくる謝罪でしょう? 感情は一過性ですもの。感情に根ざす罪悪感は何時か忘れ去られるわ。だから、ウドンゲ、貴方が本当にそれを罪だと感じるのなら、その償い方を理性でもって見出しなさい。罪悪感に流されては駄目よ。だからウドンゲ、ご苦労だったわね。いまは、」

 そう言って、永琳は遠い母を思い出す微笑を浮かべ、くしゃり、と鈴仙の頭を撫でた。

「いまは、お休みなさい。私も姫も、ずっと貴方と共に居るのだから」

 その言葉は、果たして。
 どれほど心から願った言葉、なのだろうか。
 あ、と口から声が漏れるまでも無く。
 鈴仙は、意識を失った。



 ぱたり、と倒れこんだ鈴仙を見てとりわけ慌てるでも取り乱すでもなく、ただ二人揃って苦笑を浮かべ、やがて二人は映姫へと振り向き直った。映姫は変わらぬ場所で変わらぬ表情で、唯々冷静に、或いは冷徹にこちらを見ている。
 胸に抱いた感慨は、懐かしい、というありふれたもの。

「まあ、左様な事態と相成りましたので、これにて閉幕ということでいかがかしら、閻魔様?」
「……私は別に構いませんが。ですが貴方たちは、まだそうやって罪を背負い続けて行くのですね」
「あら、お言葉ですわね。ここ数十年は善行しか積んでいませんのに」
「よく言います。自分の都合で月と地上とを隔離したのは誰ですか。常日頃から竹林に住む民と殺し合いを行っているのは誰ですか」
「――ああ。そう言えば、そんな瑣末事も御座いましたね」

 くすくすと笑う輝夜。その背後に仕える永琳は、変わらぬ微笑で主の言葉を聞いている。
 ですが、と月の大罪人は前置いた。

「私、それらをとりわけ罪だとは認識していませんから――どうと言うことは御座いませんわ」
「……それが、何よりも愚かだと。私は何度貴方に言えばいいのでしょうね。罪は自らでは決して認識できるものではありません。自ら見つめれば其処の月兎のように耐え切れず潰れるか、或いは都合のよい過去を捏造するかのどちらかです。いいですか? 貴方には何度も伝えましたけれど、罪は他者に裁かれてこそ初めてまっとうな形で受け入れることができるのです」
「ですが私も何度も申した通り――他者に示された罪など、興味が御座いません。罪の所存は結局価値観の相違で御座いましょう? 不肖、この蓬莱山輝夜と脇に控えましたる八意永琳、共に貴き月に生まれましたならば――自らの罪など、笑って見つめて差し上げますわ。尤も、その月とて、所詮理解しきれぬ侵略者は全て穢れし地上の由縁也と決め付ける程度のものですけれど」

 朗々と語られるその言葉に、映姫は顔を顰めた。それまでの冷徹な顔が崩れ、だからこそ逆に、嫌悪と敵意を隠さぬ生きた表情が彼女の顔に浮かぶ。

「これは、個人的な見解ですが」

 まるで舌打ちをするかのような忌々しさで、彼女は言う。

「私は貴方たちが嫌いです。他者からの罪を拒むということは、他者からの救いを拒むということ。それは永遠に救われないことだというのに、それを知っていながら他者からの罪を笑い下す貴方たちが、個人的には大嫌いです」
「ええ、それで結構ですわ。どうせ頻繁に顔を合わせる仲でも御座いませんもの。その程度がお互い丁度いいと存じますわ。ねえ、永琳?」
「姫に同感です。最近姫もあの蓬莱人も閻魔様には御無沙汰でしょうから。第一私たちが閻魔様と仲良くなっても仕方ありません」

 澄ました顔で言う永琳。映姫は不満げに息を吐いて、まあいいでしょう、と呟いた。

「これ以上干渉するのも問題でしょうから、私はこれで退かせて頂きます」
「ええ、わざわざ現世までご足労でしたわ、閻魔様。出来れば向こう百年はお会いしたくありませんけれど」
「私も同感です。それでは――貴方たちに言っても無駄でしょうから、せめてその月兎にはお伝えなさい。日々善行に励みなさい、と」
「……まあ、万に一つも気が向きましたら伝えておきますわ」
「お願いしましたよ。では、もう会わないことを願って」
「ええ。御息災を」

 そのような、決して平穏とは言えない会話を交互に交わし、やがて楽園の最高裁判長は姿を消した。
 残された二人はお互いに顔を見合わせ、小さく苦笑し、気を失ったままの従者へと視線を向ける。
 どうするのか。そんなことは、お互い、考えるまでも無かった。



 遠い夢を見ていた。
 それは誰かに褒められるような夢で、誰かと笑いあうような夢で、色々な誰かが常に傍に居る不連続だが一貫性のある様々な光景で――そんな、ごちゃごちゃした、何時のものとも分からない昔日の、忘れられない、過去を見た。
 瞼が重い。身体が重い。意識はもやが掛かったようで、まるで足枷を着けられたまま湖の底を這いずり廻っているみたい。ああ、その表現は多分適切。だってこれは以前師匠に湖の底の石を集めて来いって言われて重石に結わえられて船から突き落とされた時のそれにそっくりで、師匠、いくらなんでもそれは死にます。
 出来れば記憶の底に沈めたい記憶を思い出したせいか、不意に息苦しさを感じ鈴仙は小さく呻いた。光を求めるように尽力し、重い瞼をどうにか上げれば、

「あら。起きたの、ウドンゲ?」

 師匠、八意永琳の背中が目の前にあった。
 え、と鈴仙は声を漏らす。自分が置かれた状況が瞬間的に理解できない。何時の間にか空が暗い。青白い月光がぼんやりとあたりを照らし出している。そして目前には、そんな光を浴び静かに輝く永琳の銀色の髪があり、つまり。
 鈴仙は、自分が永琳に背負われているということを認識した。

「し、師匠、何をしてるんですか!?」
「何って、ウドンゲ、貴方を背負っているのだけど。弟子の不始末は師匠の責任ですものね。てゐを探して随分と遠くまで行ったこと。永遠亭に着くまでに夜になっちゃったじゃない」
「ぇ――ぁ」

 思い出す。眠りに落ちる直前の記憶。他者の罪を裁く楽園の裁判官。四季映姫。暴かれた罪。背任。大罪。仲間の死体。首切り舞踏。何故逃げた。何故救わなかった。何故、何故、何故。
 私が殺した?

「ウドンゲ」

 再び滑落を始めた理性は、しかし、永琳の一言が食い止める。
 鈴仙は永琳に背負われたまま、月光に拠らぬ青い顔で、けれど、と呟いた。

「私は――師匠を、姫を、それに仲間を――」
「あら、何のことイナバ」

 傍らに聞こえたのは、聞き覚えのある主人の声。
 何故気付かなかったのか、竹林を歩く永琳の隣には、同じように竹林を行く輝夜の姿があった。

「私たち何も聞いていないわよね、永琳」
「はい。姫様」
「う――」

 嘘だ、と叫ぼうとして、輝夜の見せた困ったような微笑に鈴仙はその言葉を飲み込んでしまう。
 輝夜は顔の高さに張り出していた竹の枝を避け、ウドンゲ、と穏やかに囁いた。

「これを見なさい」

 輝夜が見せた手の中には、小さな丸薬が一つある。

「これは?」
「蓬莱の薬。輪廻という鎖から、死という終わりから全てを解き放つ奇跡の産物」

 え、と鈴仙は声を漏らした。驚きが全ての感情を凌駕する。蓬莱の薬。不死の妙薬。かつて月から放逐された姫君が作らせたという、禁忌の薬。
 輝夜はそれを鈴仙の眼前に突きつけ、穏やかに問う。

「ねえイナバ、これが欲しい? 私や永琳のように、死を知らぬ存在になりたくはない?」
「ひ、姫、戯れは――」
「戯れ? 戯れね。そうね、戯れだわ。だってこれ偽物ですもの。唯の胃薬よ。はい、あーんして」

 にこり、と笑って輝夜はその丸薬をほいと鈴仙の口の中に放り込んだ。口の中に突然放り込まれた異物に、鈴仙は反射的に硬直し――躊躇う間も無く、それを飲み込んでしまう。瞬間的に顔が青ざめ、しかしけたけたと笑う輝夜の顔を見てその言葉が真実だと知る。
 どっと疲れが溢れた。

「姫、性質の悪い冗談は勘弁してくださいよ……」
「いいえ、冗談じゃないわ、イナバ。貴方が望むなら、私は永琳に再び蓬莱の薬を作らせる。それだけの意味はあると思っている。ねえイナバ、貴方は本当に、私たちと同じになりたいの?」
「……それは」

 きっと、即答は出来ない問いかけで。
 即答を求められない、問いかけだった。

「考えなさい、鈴仙。貴方は自らの罪を、あまり面白い方法ではないけれど、知った。ならば考えなさい、イナバ。貴方は本当はどうしたくて、どうすべきだと思うのか。それだけの時間は十分にあったでしょうに、まだ答えに行き着いていないだなんて――駄目ね、イナバ。不甲斐ないわよ」
「……すみません」
「まあ、そうそう簡単に出来ることでもないけれどね――まあ、時間が足りないと思うならば言いなさい、イナバ。如何様にでもしてあげるわ」

 気軽に言う輝夜の顔は、真実、慈愛に満ちている。
 鈴仙はどうにか返事をしようとして、何も言えない自分に気がついた。何も言う資格が無い自分に気がついた。
 そのまま俯きかけた鈴仙は、しかしその耳に自分の名を呼ぶ声を聞いた。
 あら、と声を上げる永琳。

「てゐね」
「――え」

 永琳の告げた名に、鈴仙は思わず声を上げていた。てゐ。因幡てゐ。鈴仙の部下で、小さな詐欺師で――鈴仙が、決定的に恐怖を与えてしまった相手。
 いったいどんな顔を向ければいいのか。そんな疑問に行き着く前に、声の主は竹林を掻き分けて三人の前に姿を見せた。白い影。子兎の妖怪、因幡てゐ。

「鈴仙!」
「――」

 弾む声に、しかし鈴仙は顔を背けた。申し訳ない、という思いが胸の杯を満たす。
 どうして自分がてゐに声を掛けられようか。思い返せば、自分がてゐにしたことは謝って許されるような類のものではない。どれだけの言葉、どれだけの誠意も、きっと天秤を釣り合わせはしないだろう。
 ならばどうやって――そう思い悩んでいると、不意に、ぎゅ、と手首を掴まれた。

「え?」

 見れば、てゐがこちらの手首を握り締めている。何時しか足を止めていた永琳と輝夜は、そんなてゐと手を掴まれて呆けた顔をせざるを得ないこちらを微笑みながら見守っている。
 鈴仙、とてゐはこちらの名を呼んだ。

「私、鈴仙のことが好きだからね。だから、勝手にどっかに行ったりしたら、許さないから」

 ごく当たり前のようにきっぱりと言い切られたその言葉に、鈴仙は呆、として空を仰いだ。竹の葉の隙間から、暗くなった夜空が見える。ああ、今日はどうやら満月であったらしい。夜天に浮かぶ望月の、そのなんと貴きことよ。

「――姫」

 つ、と頬を伝う水を知りながら、鈴仙は静かにそう問うた。

「私は、許されるんでしょうか?」

 答えは、酷く簡潔。

「自分で考えなさい」




 白い花が、舞っている。





[完]







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