魔法使いと過ごす部屋


3.【調糸】


 九月も終わりにさしかかった水曜日、僕はいつものように狭い部屋でひとり目を醒ました。
 枕もとの時計を見れば、午前一〇時の五分前。
 ゆっくりとベッドを這い出でて、誰もいないキッチンで一人分の食事を作る。
 大体の準備は、昨日の内から仕込みを済ませておいた。

 パジャマのまま調理を終えて、朝食とも昼食ともつかない「食べ物」を口に運びながら、
 多分に惰性でニュースを付ける。
 BGMと何ら変わらない情報は、相変わらずアメリカで起こったINACEPによる反乱が大半だった。
 言葉どおり対岸の火事が流される中、目新しい情報として
 手薄になった本国警備のため日本に駐屯している米軍が近日引き上げるという事実が繰り返し報道さていた。

 興味も尽きて、テレビを消して。
 窓の外に目をやれば、碧いばかりの秋の空。
 食事を終えて、服を着替えて。
 学校代りの図書館に行くために、今日もマンションを出発した。









 俗に「魔法使い」と呼ばれる存在が公式に確認されて、はや半世紀が過ぎようとしていた。
 正確には「Inborn Ability Controlled and Exercised Parson」であり、
 つまり「先天的能力保有並び行使者」という存在だ。
 適当に文字を拾って「INACEP」と呼ばれることもあるが、一般的にはやはり
「魔法使い」の言葉が定着している……そんな事実、僕にとっては高校の授業で習った
 単なる知識でしかなかった。

 しかも、分類するなら「不要な」知識だ。
 半年以上も前に進学を諦めた僕に、そんな受験のためだけの知識は必要ない。そう思っていた。

 ただ現実問題として
「魔法使い」という単語は僕たちの生活の中に既に浸透していて、世界は彼らを容認して回転している。
 今更珍しいものではないことだけが、確かだった。





 だから、この出会いは。
 運命的と言うには、少し普遍すぎる日常の出会い。






 閉館時間まで図書館で時間を潰して、その帰り道。
 夕日の指しこむ公園裏の細い路地で、倒れている女の子を見つけた。

「…………」

 あんまりに突拍子のない出来事だったけど、僕は一応冷静だったと思う。
 とりあえず屈みこんで、少女が息をしているかどうかを確認した。きちんと呼吸をしていることが判って、
 正直、安堵の息が漏れた。
 そして気付いたのだけど、少女はどうも日本人ではないらしかった。
 肩で揃った金色の髪、蝋みたいに白い肌。いまは閉じられている目の色も、きっと黒くはないのだろう。
 ぴんと長いまつげを見ながら、そんなことを思った。

 歳は多分、僕と同じか、それより少し上。
 少し縒れた白いシャツと、青いジーンズがやけに印象的だった。
 この時期、少し薄すぎる服装だ。
 すぐ傍には少女の持ち物と思しき鞄が転がっていた。

 辺りを見まわしたけど、生憎、人の姿は見えない。
 このまま放置して、見なかったことにするという最良の策は、さすがに選べなかった。
 このあたりも比較的治安が良いとは言え……狼なんてごろごろといるのだろう。

 少し悩んで諦めて。
 僕は彼女を背負って、自分の部屋に運ぶことにした。







 ……ああ、前言撤回。やっぱり僕は混乱していた。
  警察を呼ぶとか、そういった当たり前の策が浮かばなかったのは確かなんだから。




 少女が目を醒ましたのは、夜の七時か八時といった辺りだった。
 青い瞳の少女と一緒にとりあえず食事を摂って、その食後。
 それまで沈黙を守っていた彼女が口火を開き、お互いの簡単な自己紹介が終わった。

「一つ、訊いてもいいかな」

 片付けの終わったテーブルで、僕らは向かい合っていた。
 二つのコーヒーカップをそれぞれ僕と彼女の前に置いて、僕は彼女に尋ねた。

「君は、どうしてあんなところで倒れてたんだ?」
「別に、倒れたくて倒れてたわけじゃないわ」

 少し拗ねたように、彼女は言う。
 聞いた分では子供の頃に日本で生活していたことがあるらしく、
 その日本語は流暢で淀みないものだった。

 彼女はカップに口をつけ、顔をしかめた。
 不味いコーヒーね、なんて遠慮のないことを言う。
 まあ、インスタントなのは間違いないのだけれど。

「……少し、疲れたのよ。
 アメリカからこっち、ずっとだったから」
「ずっとって、なにが?」

 コーヒーを啜りながら、僕はさらに尋ねた。
 ……なるほど。ロクに味もしなければ、確かに「不味い」コーヒーになるのかもしれない。
 僕の問いに、彼女は少しだけ顔を俯かせた。
 そして言いにくそうに、マホウ、とだけ呟く。
 決して、僕の顔を見ようとはせずに。

「え?」
「だから、魔法。私、魔法使いなのよ、一応」
「魔法使いって……INACEP?」
 忘れかけていたその単語に、彼女はこくん、と頷いた。
 そして右手の人差し指を一本だけ立てて、それをついと指揮棒みたいに動かす。
 すると――――なんとテーブルの上のコーヒーカップが、手も触れずに突然宙に浮いた。

 音もなければ、風もない。もっとも、そんなものがあったところでどうなるものでもない。
 なのにカップはただ静かに宙に浮かんで、テーブルの上を何週か飛び回って、また元の位置に戻った。

「イナセプって呼び方、あんまり好きじゃないんだけどね。
 なんか、ビョーキみたいで」

 唖然とする僕に、苦笑と寂しさの混ざる声音で彼女はそう付け加えた。
 と、不思議そうに首を傾げ、僕の顔を見る。

「……どうしたの?」
「うん……ちょっとね、目の当たりにしてもなんか信じられない。
 ホンモノに会ったの、これが初めてだから」

 失礼かもしれないけど、正直に僕は打ち明けた。
 目の前にいる少女がINACEP――――じゃなくて魔法使いだなんて、
 そう簡単に信じられるものじゃない。INACEPという単語は所詮単語にすぎず、
 それが実在しているということは、僕の想像の範疇外にあったのだ。

 一般人が初めて実銃を手にしたとき、こんな感覚を覚えるのかもしれない。

 怒るかとも思ったけど、彼女はぽかんと呆れたように……あるいは僕と同じように
 信じられない、とばかりの顔で僕を見ていた。

 と、不意に笑い出す。

「なによ、なによそれ! そんなこと言われたの初めてよ!?」
「…………別に、そこまで笑わなくてもいいじゃないか」

 真正面から笑ってくる彼女に、僕は憮然として抗議した。
 彼女は「ごめんなさい」と笑いを堪えながら言って、僕を改めて見つめなおした。
 けどその顔は笑いを必死に抑えているのがばればれだし、眼の端には涙が溜まってすらいる。

「ホント、面白いヒトね。初めて言われたわよ、そんなこと」
「僕も、ここまで笑われたのも初めてだよ」
「だからごめんなさいって……それで? 他に訊きたいコトは?」
「あー……訊いていいのか判らないけど、君が魔法使いってコトは、ひょっとして
 日本にきた理由って…………その」
「ええ、そうよ。この国に亡命するためにやってきたの」

 口にしがた難かった理由を、彼女はあっさりと教えてくれた。
 そのあっけらかんとした応答に、僕のほうが逆に言葉を失ってしまう。

「この国は、私たちの人権を保障してくれるんでしょう?
 それなら文句ないし、私自身、しばらくぶりに来てみたかったから」
「……ホント、教科書通りだな。魔法使いの亡命者って、居るんだ」

 とりあえず、口を出たのはその言葉だった。
 彼女は笑みのまま、ええそうね、なんて言葉を詠った。

 しかし――――その顔が、急に真面目なものに変わる。
 いつの間にか消えていた警戒と緊張の二文字が、今更ながらに脳裏をよぎった。

 彼女は口を開く。言葉を紡ぐ。

「少し真面目な話、いい?」
「……どうぞ」
「しばらくの間、ここに住まわせてくれないかしら。
 あ、もちろん出てけって言うなら出ていくわ。でも、せめて、
 適当な部屋が見つかるまではここに居させて欲しいの」

 その言葉に、冗談とか、その類の響きは一切なかった。
 これは彼女の真剣な頼み事だ。
 だから僕も、真剣に反す必要がある。
 でも――――

「そんなことぐらい、僕は別に構わないよ」

 結局あっけらかんと返したその言葉は、まあ、嘘じゃなかった。
 それが彼女にも知れたのか、彼女はふっと顔を緩める。
 ありがとう、と小さく言う彼女に、逆に僕が訊き返した。

「でも、いいの?」
「なにが?」
「……僕、一応男なんだけど」

 できればあんまり口にしたくない種類の話だけど、言っておかないわけにもいかない。
 僕の言葉に彼女はぱちくりと、目を丸くした。

「え、そうなの?」
「…………」
「冗談よ冗談。だからそんな恐い目はしないで」

 本気で睨んだんだけど、あっさりとかわ無視された。
 彼女は柔らかい笑みを浮かべ、本当の理由を述べる。

「ホントのこと言えばね、ま、あなたのことを信用しているってことになるのかな」
「え?」
「ここまで運んでくれたし、私になにかした様子もないし。
 あ、それと、あなたのスパゲティ、美味しかったから。それが一番の理由かな」
「…………」

 微笑む彼女に、僕はいつか言葉を忘れていた。



 ――――そしてこれが、僕と彼女の同居生活の始まりとなる。




 

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